第二十三話 南ヶ丘牧場ともみじ谷大吊り橋
「……涼しい」
那須高原に降り立った瞬間、めぐはほとんど反射みたいにそうつぶやいていて、意識して言葉を選んだわけでもなく、ただ体が感じたままがそのまま口に出たような感覚で、そのままもう一度ゆっくり息を吸い込むと、肺に入ってくる空気は昨日までまとわりついていた重たい熱をまるごと置いてきたみたいに軽く、少し乾いていて、草の青い匂いと土の匂いが混ざりながらまっすぐ体の中に入ってきて、その感覚が気持ちよくて、何をするでもなくその場に少し立ち止まる。
「ほんとだニャ……なんか、空気に重さがないニャ」
みこはそう言いながら腕を広げて、そのままゆっくり回るが、一周し終わったあとに少しふらついて笑い、そのまま地面を見てつま先で軽く土をこすってみる。
「やわらかいニャ」
「うむ、ちゃんとした地面じゃな」
しろもそう言って、少しだけしゃがんで土に触れ、その指先についた細かい粒を軽く払ってから立ち上がる。その一つ一つの動きがやけにゆっくりで、急ぐ必要がどこにもないことを自然と受け入れてしまうような空気があった。
南ヶ丘牧場に入ると、その感覚はさらに強くなり、視界いっぱいに広がる草原の緑と、その上でゆっくり動く牛たちの姿、遠くから聞こえる低い鳴き声と風に揺れる草のざわざわした音が重なって、何か特別なことをしているわけでもないのに、ただそこにいるだけで時間の流れがゆるくなる。
めぐは歩きながら、わざと足を少し引きずるようにして土の感触を長く味わってみたり、逆に軽く踏み込んでみたりして、その違いを確かめるように進み、みこは道端の小さな石を見つけては蹴って、その転がる方向をなんとなく目で追いかける。
「……なんもしてないのに、ちょっと楽しい」
「それでええんじゃろ」
しろがそう言い、三人ともなんとなくそれに納得する。
ガーンジィ牛のいる場所に出ると、少し小柄で整った茶色の牛が何頭かゆっくり草を食べていて、その動きは本当にゆっくりで、草を噛むたびに口元が小さく動き、そのたびに時間がひとつ区切られているみたいだった。
めぐは一頭の前で足を止めて、そのリズムに合わせるように呼吸をしてみると、自然と息が深くなり、体の力が抜けていくのがわかる。
「……眠くなる」
「わかるニャ……」
みこも同じように立ち止まるが、少し近づきすぎたのか、牛がゆっくり顔を上げてこちらを見る。
「……あ、なんか見てる」
「気のせいじゃろ」
「いや見てるニャ絶対」
さらに一歩近づいた瞬間、牛が一歩だけ前に出てきて、みこが思わず小さく跳ねて後ろに下がる。
「ちょっと近いニャ!」
三人とも少しだけ慌てて距離を取るが、牛はまた何事もなかったように草に戻り、その温度差が妙におかしくて、思わず笑いがこぼれる。
売店に向かう途中、なぜか同じ道を少しだけ行き過ぎて戻ることになり、ほんの数十メートルの無駄な往復をするが、それすら特に気にすることもなく、ただ歩いて戻る時間もゆっくりしている。
ソフトクリームの列に並ぶと、前の人が味を迷っていて少し時間がかかるが、その間も風が抜けていき、遠くの声や足音がゆるく混ざって、待つ時間が嫌じゃない。
手にしたプレミアムソフトクリームはほんのりクリーム色で、近づけると甘いミルクの匂いが立ち上り、めぐは一口ゆっくり口に入れると、濃いのに軽くて、舌の上でとろけながらすっと消えていく感覚に少しだけ驚く。
「……これ、終わるの早そう」
「だからゆっくり食べるニャ」
みこも同じように食べながら、なぜか二人とも無言になり、ただソフトクリームを崩さないように慎重に食べる時間が続く。
その途中で、めぐの持ち方が少しずれて、コーンがわずかにきしむ。
「え、ちょっと待って」
慌てて持ち直すが、その動きでクリームが傾き、みこがそれを見て笑い、その拍子に自分のも傾く。
「ちょ、危ないニャ!」
結局二人とも変な体勢でバランスを取ることになり、そのまま数秒固まる。
「……なにやってるんだろう」
「アイスと戦ってるニャ」
しろが横で静かに笑う。
もみじ谷大吊り橋に着くと、その長さが思っていた以上で、三人とも無言で少しだけ立ち止まり、橋の先を目で追う。
足を踏み入れると、すぐにわずかな揺れが伝わり、それが遅れて体に届く感覚に違和感を覚える。
途中で人が立ち止まって写真を撮っていて、軽く渋滞になり、その場で止まる時間が生まれる。
「これ、止まると余計怖い」
「わかるニャ……」
そのとき、風が吹いて橋が揺れ、誰かが小さく声を上げる。
みこはしゃがみ込みかけて、めぐが慌てて腕を引く。
「まだ半分も行ってないから」
「戻るのも無理ニャ……」
結局そのままゆっくり進み、揺れに慣れてきたころに視界が開け、渓谷と湖と空が一気に広がる。
「……あ」
めぐが言葉を探すが、そのまま出てこない。
渡りきったあと、しばらくその場でぼーっとしてから、那須温泉神社へ向かう。
境内に入った瞬間、空気が少し変わり、さっきまでの風の動きとは違う、静かに溜まるような空気に包まれる。
石段の前で一度立ち止まり、三人とも無言で上を見上げる。
木々の間から差し込む光が細く地面に落ちていて、その間を風が通るたびに、影の形がゆっくり揺れる。
「……なんか、さっきと違う」
めぐが小さく言う。
「うむ、ここはそういう場所じゃ」
しろが静かに答える。
一段目に足をかけると、砂利がわずかに音を立て、その音が思ったよりもはっきり響く。
二段、三段と上がるごとに、外の空気が少しずつ遠くなり、代わりに木の匂いと土の湿った匂いが強くなる。
途中で、みこが小さく足を止める。
「……ちょっと休むニャ」
「まだそんなに登ってないだろ」
「でもなんか、ここ、歩くのゆっくりになるニャ」
確かに、急いで登ろうという気にならない。
めぐも同じように歩幅を少し落とし、一段ずつ踏みしめるように進む。
風が吹いて、葉の音が少し強くなる。
その音の中で、三人はしばらく何も言わずに歩き続ける。
まだ上までは見えない。
けれど、そこに向かっている感じだけが、ゆっくりと続いていた。




