第二十一話 水面とまだ触れないこと
「……起きるニャ?」
めぐは布団の中で半分だけ目を開けたままぼんやりと天井を見上げ、そのまま何も考えずに数秒間視線を固定してから、ようやく体を起こして枕元のスマホに手を伸ばし、指先で画面を点けて表示された時刻を見た瞬間に完全に目が覚めて、さっきまでのゆるい空気が一気に消えた。
「九時五十五分!?」
そのまま反射的に布団を蹴飛ばすように起き上がり、部屋の中を一瞬見渡してから現状を理解し、声のトーンが一段上がる。
「あと五分しかないんだけど!」
「遅いの」
しろはすでに起きていて窓の外を見ながら変わらない調子で言い、その落ち着きが逆に焦りを強める。
「なんで起こしてくれなかったの!」
「起きると思った」
「思っただけじゃ起きない!」
布団の中からみこが顔を出し、状況を理解するのに一瞬遅れてからようやく反応する。
「え、なに……チェックアウト……?」
「あと五分!」
「やばいニャ!」
そこからは一気に動きが速くなり、鞄の中身を確認する余裕もなくとりあえず全部詰め込み、充電器を抜いたかどうかで一度立ち止まってまた戻り、靴を履こうとしてかかとを踏んだまま歩こうとしてバランスを崩し、ドアの前で鍵を持ったまま深呼吸を一回だけしてから部屋を出て、廊下の静けさとの温度差に少しだけ現実感を取り戻しつつ、そのまま階段を降りてなんとか時間内にチェックアウトを済ませる。
外に出た瞬間、三人同時に立ち止まり、さっきまでの慌ただしさが嘘みたいに途切れる。
「……間に合った」
「ギリギリじゃな」
「朝から疲れたニャ……」
空気はやわらかく、少しだけ白っぽい光が街全体に広がっていて、完全な夏でも春でもない、どこか中途半端な季節の境目のような感触が残っており、さっきまでの慌ただしさがゆっくり抜けていくのがわかる。
そのまま歩き出し、しばらくして見えてくるのが松江城で、黒い外壁が周囲の緑と空の色の中で静かに浮かび上がるように存在しており、近づくほどにその色が単なる黒ではなく、光の当たり方によって少しだけ茶色や灰色を含んだ複雑な色に見えてくるのがわかる。
石段を上り始めると、一段一段の高さや奥行きが微妙に揃っておらず、歩いているうちに自然と足のリズムがずれていき、めぐは途中で軽くバランスを崩して足を踏み直す。
「これ、地味に歩きにくいな」
「昔のままだからな」
しろが言い、手すりに触れると朝の空気を含んだ冷たさが指先に残り、周囲の木々から落ちる影が石段の上に不規則な模様を作っていて、それが風に揺れるたびにゆっくり形を変えるのをなんとなく目で追ってしまう。
上に行くにつれて風が通るようになり、足元の石の硬さと空気の軽さが少しずつ噛み合ってくる感覚がある。
天守に入ると、木の床が足の重さに応じてわずかに沈み、ミシ、と乾いた音を立て、その音が思ったよりも広く響くので、めぐは試しにもう一歩だけ強く踏み込んで同じ音を確かめる。
「今のわざとだろ」
「ちょっとだけ」
階段は急で、視界のほとんどが次の段で埋まるような角度になっており、手すりに体重を預けながら上るたびに体が前に引っ張られる感覚があり、途中で一瞬足を踏み外しかけて体が傾く。
「危な……」
「気をつけろ」
「今のは段が悪い」
そんなやり取りをしながら上まで行くと、窓から見える景色が一気に開けて、町の屋根と川の流れ、その向こうに広がる空が一続きになって見え、風がそのまま中に入り込んできて髪を揺らす。
しばらく誰も話さない。
ただ立って見ているだけの時間がゆっくり流れる。
城を出たあと、堀川のほうへ歩き、船着き場に着くと水面が思っていたより近くにあり、光を受けて細かく揺れているのが見える。
船に乗り込もうとしたとき、めぐの足元が少し滑って体が前に傾き、そのまま水に落ちそうになるが、しろが腕を軽く引いて止める。
「今の普通に落ちるやつだった」
「気を抜くな」
船に乗ると水面との距離がさらに近くなり、船が動き出すとほとんど音を立てずに進み、水がゆっくりと左右に分かれていくのが見える。
橋の下をくぐるときは思った以上に高さが低く、めぐは慌てて体をかがめ、視界が一瞬だけ狭くなる。
「近いってこれ」
「頭ぶつけるなよ」
ぎりぎりで通るその感覚が妙に印象に残る。
水面には空と木が映り、その像が揺れるたびに形が崩れてまた戻り、その繰り返しをぼんやり見ていると時間の感覚が少しずつ薄れていく。
めぐは手を水に近づけるが、触れる直前で止める。
「……このままでいい気がする」
「そう思うなら触るな」
その言い方が少しだけ引っかかるが、何も聞かない。
船を降りて歩き出すと、体が少しだけ重く感じるが、それもすぐに慣れていき、そのまま夕方に向かう空気の中、宍道湖へ向かうと、水面はまだ穏やかで、特別な変化はないが、その何も起きていない状態が逆に落ち着く。
ベンチに座り、しばらく何も話さずに風を受ける。
途中で鞄の中のペットボトルの蓋が甘く閉まっていたらしく少し水がこぼれていて、めぐがそれに気づいて取り出す。
「うわ、やった……」
「ちゃんと閉めろ」
「朝のせいだろこれ」
ハンカチで拭きながら、どうでもいい時間が流れる。
やがて空の色が変わり始め、水面に光が落ちてゆっくりと伸びていく。
「……来たな」
めぐが小さく言う。
しろは少し前に立ち、湖を見ている。
動かない。
「なあ」
呼ぶと、少し間があって振り向く。
「なんだ」
「ここ、やっぱり知ってるんだろ」
風が少し強くなる。
しばらくして、短く答える。
「……まあな」
それだけ。
でも、前より少しだけ隠していない。
めぐはそれ以上聞かない。
夕日が沈み、水面から光が消えていく。
それを最後まで見てから立ち上がると、さっきまでの景色が少し遠くなる。
「帰るか」
「ああ」
しろはまた前を歩く。
その背中が、昨日より少しだけ近く感じたまま、風が静かに吹いていた。




