第二十話 魚の神様と岬の光
「……なんかいい匂いしないニャ?」
めぐが立ち止まったまま少しだけ顔を上げて、風の流れてくる方向にゆっくり視線を向けると、さっきまでただの海沿いだったはずの空気の中に、出汁のやわらかい香りが混ざっているのに気づいて、思わずもう一度深く息を吸い込んだ。
「するニャ、それもちゃんとしたやつニャ」
みこが鼻をひくひくさせながら同じ方向を見て、少しだけ歩き出しかけて止まり、また一歩進む。
「魚じゃな」
しろが短く言うが、その一言だけで妙に納得してしまうのが不思議だった。
めぐは足元の影を一度見てから、なんとなく気まぐれみたいに進む方向を変え、細い道へと入っていくと、さっきまで近くにいた観光客の声が少し遠くなり、その代わりに波の音と風の音がはっきり聞こえるようになり、歩くたびに足元の砂利が小さく鳴るのがやけに耳に残る。
「なんかこっちっぽいニャ」
「匂いで行くの久しぶりニャ」
そんなことを言いながら少し進むと、急に視界の端に木の看板が見えて、よく見るとそれは店らしく、けれど観光地の店みたいな派手さはなくて、ただそこにずっとあったみたいな静けさで佇んでいた。
「……やってる?」
めぐが小さく言うが、その声も少し吸い込まれるように消える。
暖簾が風でゆっくり揺れているのに、人の出入りの気配がほとんどない。
「入ればわかる」
しろが迷いなく暖簾に手をかける。
「いやちょっと待つニャ」
止める前に、もう入っていた。
「ほんとに行くしかないニャ……」
めぐは一瞬だけ後ろを振り返るが、誰もいないことを確認してから小さく息を吐き、みこと一緒に中へ入る。
中に入った瞬間、空気が一段階だけ静かになるような感覚があって、耳に入る音が少し柔らかくなり、食器の触れる音も会話も、どこか水の中を通したみたいに丸くなっていた。
めぐはその場で一歩だけ止まり、視線だけを動かして店の中を見回すと、そこにいる客たちの視線が一斉にこちらに向いているのに気づいて、ほんの少しだけ背筋に力が入る。
カウンターの奥に立っていた銀髪の少女が、ゆっくりとこちらを見ていた。
「……人間?」
その声は小さいのに、妙にはっきり聞こえる。
みこがそっとめぐの袖を引く。
「なんか、見られてるニャ……」
「うむ」
しろは一歩前に出て、特に気負いもなく言う。
「問題ない、見える側じゃ」
少しだけ間があって、空気がほどける。
銀髪の少女は目を細めて、ふっと笑った。
「へえ、そういうの、まだいるんだ」
「店主ニャ?」
めぐが少しだけ警戒を残したまま聞く。
「うん、鯖乃。好きに呼んでいいよ」
その言い方は軽いのに、奥にある気配は確かに神様で、さっきまでの視線もいつの間にか柔らかくなっていた。
席に座ろうとして椅子を引くと、少しだけ引っかかって、めぐは一度止まる。
「……あれ、動かないニャ」
もう一度引くと、ギギ、と小さく鳴って動く。
「壊れてるわけじゃないよ」
鯖乃が言う。
「ちょっと癖あるだけ」
「なんか安心するニャ、こういうの」
めぐは座りながらそう言って、手をテーブルに置くとひんやりした木の感触がじんわり伝わってくる。
「何にする?」
「おすすめ」
「鯖しゃぶ」
即答だった。
「それで」
みこもすぐに頷く。
鍋が来るまでの間、特にやることがないので、めぐはなんとなく隣の客を見て、また視線を戻して、もう一度見て、やっぱり少しだけ違和感があることに気づく。
「……なんか光ってない?」
「マグロじゃな」
「え、マグロって光るニャ?」
その客がゆっくりこちらを見る。
「聞こえているぞ」
「すみませんニャ」
反射的に謝る。
みこが横で小さく笑っている。
鍋が運ばれてきて、湯気が立ち上がると同時に出汁の香りが広がり、さっき外で感じた匂いがここで完成しているのがわかって、めぐは少しだけ嬉しくなる。
鯖を箸で持ち上げて、どうするか少し迷ってから鍋に入れるが、思ったより長く入れてしまい、色がしっかり変わる。
「やりすぎたニャ」
「最初はそんなもん」
鯖乃が軽く言う。
そのまま食べると、脂がやわらかく広がって、出汁と一緒に消えていく。
「……これ、ずっと食べられるニャ」
みこも同じようにやるが、今度は逆に短すぎる。
「ほぼ生ニャ」
「それもありじゃ」
しろは普通にちょうどいいタイミングで食べている。
途中で、めぐの箸から鯖が滑って鍋に落ち、三人でしばらく探すが見つからず、最終的に諦めるというどうでもいい時間が流れる。
「絶対どっかにいるニャ」
「出汁になったな」
そんな会話をしながら、また食べる。
隣の神たちとも少しずつ話して、マグロだのカツオだのブリだのと、みこが勝手に魚図鑑みたいに確認していき、そのたびに軽く訂正されたり笑われたりしながら、時間がゆっくり流れていく。
気づくとかなり長く居てしまっていて、外に出たときの空気がやけに軽く感じる。
「中、ちょっと重かったニャ」
「満ちてたからの」
でも、振り返ると、さっきの店はもう見えなかった。
そのまま歩いて日御碕神社へ向かうが、途中でめぐが小さな段差に気づかずつまずき、危うく転びそうになって、みこが慌てて支える。
「いたっ……今の完全に油断ニャ」
「ちゃんと見て歩くニャ」
そんなやり取りをしながら辿り着くと、朱塗りの社殿が空に映えていて、沖縄の赤とは違う少し落ち着いた色が目に残る。
風が強く、紙垂が大きく揺れて音を立てる。
「ここ、風すごいニャ」
「境目じゃからな」
またその言い方をするが、今は聞かない。
さらに歩いて日御碕灯台へ向かう途中、思っていたより距離があって、めぐが途中で立ち止まる。
「まだニャ?」
「もう少しじゃ」
「その“もう少し”が長いニャ」
やっと見えてくる白い灯台は思った以上に大きく、近づくほどその高さが現実になる。
風が強く吹いた瞬間、めぐの帽子が飛びそうになり、慌てて押さえる。
「危なかったニャ」
下を見ると断崖と海で、少しだけ距離感が狂う。
「やっぱ高いニャこれ」
「落ちたら終わりじゃな」
「やめてニャ」
でも、少しだけ笑う。
そのまましばらく、何もせずに立っている。
風と波の音だけが続く、どうでもいいけど必要な時間。
帰り道、めぐがぽつりと言う。
「今日、なんか長かったニャ」
「でもすぐ終わった感じもするニャ」
しろは少し前を歩きながら、何も言わない。
風がまた吹く。
そのまま、三人はゆっくり歩いていく。




