第十六話 第十六話 富士山とゆっくり流れる時間
氷穴を出てからもしばらく、体の奥に冷たさが残っていた。外の空気はやわらかいのに、指先だけが遅れて現実に戻ってくるみたいで、うまく噛み合わない。「まだ冷たいニャ……」とみこが手を見つめる。「中、ずっと冬みたいじゃったな」としろが言う。私は何か言おうとして、やめた。言葉にすると、さっきの場所が急に遠くなりそうだったから。
そのまま車に乗る。エンジンがかかって、ゆっくり進み出す。窓の外の木が流れていくのを見ていると、氷穴の中の暗さが少しずつほどけていく。でも完全には消えなくて、景色の上にうっすら重なったまま残っている。
山道に入るとカーブが増える。曲がるたびに視界が切り替わる。さっき見えていたものが消えて、別の景色が出てくる。その繰り返しが妙に規則的で、だんだん時間の感覚がぼやけてくる。
「今、どれくらい上がったニャ?」
「半分くらい?」
「適当じゃな」
「たぶんそんな感じ」
自分で言っておきながら、根拠はなかった。でも誰も気にしない。そのくらいの曖昧さがちょうどよかった。
エンジン音が少し強くなる。タイヤが路面をなぞる音が続く。その単調さに引っ張られて、考えも少しずつゆるくなる。どれくらい走ったのか、よくわからない。ただ、確実に上に行っている。
やがて車が止まる。外に出た瞬間、空気が変わる。冷たい、というより軽い。息を吸うと、まっすぐ入ってくる。
「さっきと違いすぎニャ……」
「うむ、薄いの」
「薄い?」
「なんかこう……空気が雑じゃない感じ」
「雑ってなに」
みこが笑う。しろも少しだけ笑う。
風が吹く。体のまわりをなぞって、そのまま抜けていく。さっきまでの湿った感じがほとんどない。乾いていて、どこか遠くの場所みたいだった。
少し歩く。足元はざらついていて、踏むと小さく音がする。その音がやけに軽く聞こえる。
開けた場所に出る。下が見える。山、その向こうに町、さらに遠くまで続く平地。
「高っ……」
みこが思わず声を漏らす。
「落ちたら終わりじゃな」
「やめてニャ急に怖くなる」
その一言で、少しだけ現実に引き戻される。私は思わず足元を見る。大丈夫だとわかっているのに、一瞬だけ距離感が変になる。
雲が近い。手を伸ばせば触れそう、とは思わないけど、見上げるものじゃなくなっているのが変な感じだった。
風がまた吹く。今度は少し強い。
音が少ない。人の声もあるけど、遠い。風の音と、自分たちの足音だけがはっきり残る。
空を見る。青が深い。なんというか、塗り直したみたいな色をしている。昨日までの空を上から塗りつぶして、そのまま乾かしたみたいな、不自然な綺麗さだった。
しばらく立つ。何もしていないのに、時間だけが進む。でもその進み方が遅い。
「ここさ、ちょっと変じゃない?」
私が言う。
「なにがニャ?」
「静かすぎて、逆に落ち着かない」
みこが少し考えてからうなずく。
「あー、わかるニャ。なんかずっとこのままいそう」
「帰れなくなる感じじゃな」
「それは怖いニャ」
少しだけ笑う。その笑いもすぐに風に流れる。
私はスマホを取り出して写真を撮る。画面に収めると、急に普通の景色になる。さっきまでの広さが少しだけ削られる。
「それ、ちゃんと写ってるニャ?」
「たぶん」
「絶対足りてないニャ」
「それはそう」
少し歩いて、ベンチに座る前に、みこが足元を見て小さく言う。
「なんか靴に砂入ったニャ」
しゃがんで、軽く足を振る。ぱらぱらと小さな砂が落ちる。
「さっきのとこじゃない?」
「氷穴でそんな入る?」
「知らないけどニャ」
少しだけ笑う。
そのままベンチに座る。
何も話さない。風が通る。雲がゆっくり動く。それを見ているだけで時間が進む。
氷穴、湖、その前の場所。全部が遠いはずなのに、線みたいに繋がっている感じがする。
やがて戻る時間になる。立ち上がる。バスに向かう人の流れに混ざる。乗り込んで席に座ると、少しだけ体が重くなる。
バスが動く。今度は下り。景色が逆向きに流れていく。
「さっきのとこ、もう見えないニャ」
「うん」
木が増えて、視界が閉じていく。さっきの場所はもう直接は見えない。でも、消えた感じもしない。
体の中に、軽さが少しだけ残っている。
みこがあくびをする。しろは目を閉じている。揺れが一定になる。
私も目を閉じる。
さっきの空気が、まだ少しだけ残っている。そのまま、ゆっくり薄くなっていく。




