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知らぬ神よりポケットの端末 〜寄り道ばかりの日本旅〜  作者: こむぎ
第二章 寄り道から始まる日本旅
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第十五話 透明な朝とひんやり洞

朝の空気は、前日の雨の名残をほんの少しだけ抱えたまま、やわらかく澄んでいた。山道を走る車の窓から見える緑は、朝露で濡れてきらきらと光っている。隣に座るみこが小さく伸びをして、顔を窓に近づけた。


「わあ……朝からきれいニャ」


「うん、気持ちいいね」


しろも小さくうなずく。車の中は静かで、エンジン音とタイヤの微かな振動だけが空気を揺らす。誰も無理に話さなくてもいい、この沈黙がちょうどよかった。


車は忍野八海に差し掛かる。小さな案内看板があって、観光客の車もちらほら停まっている。道端には土産物屋が並び、木の香りと煎餅の匂いが混ざった独特の空気が漂う。


「ここだニャ!」


みこが窓から飛び出すようにして声を上げる。駐車場に車を停め、足元の石畳を踏みながら、私たちは池の周囲を歩き出す。水は驚くほど透き通っていて、小石や水草、泳ぐ魚までくっきり見える。


「わあ……水が透明すぎるニャ」


「この水、冷たそうだけど気持ちよさそう」


みこが手を伸ばし、そっと池に指先を触れる。水は冷たく、けれど刺すような冷たさではなく、柔らかく肌を撫でるようだった。しろはその横で、池に浮かぶ小さな鯉をじっと見つめている。


「この鯉、でかいのも小さいのもいっぱいおるの」


しろが指をさす。鯉は悠々と泳ぎ、時折水面に顔を出す。観光客のカメラのシャッター音や笑い声もあるけれど、池の静けさに吸い込まれるようにして、音は柔らかくなる。


私たちは八海のうちいくつかを順番に巡る。ひとつ目の池は、水面に映る空と周囲の山が鏡のように重なっていた。小さな橋の上で、みこがふざけて片足を少し踏み外す。


「わっ、危ないニャ!」


「落ちなくてよかった……」


しろは心配そうに手を伸ばすが、みこは平然と笑う。橋を渡った先の池には、水の中に小さな花が浮かんでいて、通りすがる人々がそっと手を伸ばして写真を撮っていた。


「ここ、静かで落ち着くニャ……」


みこが小声で言う。私も深くうなずく。透明な水の上を、小さな魚たちがくるくると泳ぐ。その光景を見ているだけで、時間の流れがゆっくりになるようだった。


池の間を歩くと、古い木造の民家や土産物屋が点在している。湧き水で淹れたコーヒーの香りや、煎餅の焦げた匂い、石畳に落ちた落ち葉の湿った香り……そのすべてが、歩く私たちの感覚に優しく染み込む。


「お団子食べたいニャ」


みこが突然言い出す。小さな店でみたらし団子を買い、手渡されると手が少しべたついた。笑いながらしろがティッシュを取り出す。軽くハプニングがあると、空気がふわっと柔らかくなる。


「さて、次は本栖湖だね」


車に戻り、また山道を少し走る。道の両脇は針葉樹や広葉樹が交互に生え、朝の光を受けて葉がきらきらしている。みこは窓から手を伸ばして、風に指先を触れた。


車は本栖湖の駐車場に到着する。湖は広く、山に囲まれた静かな水面は鏡のように空を映していた。思わず息を飲む。昔読んだ漫画に出てきた湖の景色と同じで、子供の頃の記憶がふと蘇る。


「見覚えあるニャ……漫画で見たやつニャ」


「そうそう、この湖、1000円札の裏の景色だよね」


みこが指を指す方向には、湖面と山の稜線がきれいに並んでいた。光の加減で水は青にも灰色にも見える。岸には小さな歩道があり、そぞろ歩く観光客の声が遠くで響く。


「すごい……広いニャ」


湖のほとりを歩きながら、しろが小石を蹴ると、水面に小さな波紋が広がった。みこも小石を投げて、二人で波紋の動きを追いかける。


「わあ、長いニャ!」


「波が広がるの速いニャ」


自然のリズムに合わせて遊ぶ二人を見ながら、私はゆっくりと湖面を見つめる。風で水面がわずかに揺れ、光がちらちらと反射する。そのたびに湖の表情が少しずつ変わる。


次に向かうのは鳴沢氷穴。車で少し山道を登ると、洞窟の入口が見えてきた。周囲の空気がひんやりと冷たくなるのがわかる。観光客の列が少しできていたが、静かで落ち着いた雰囲気だ。


「ここ、冷たいニャ……」


みこが小さく息を吐くと、白い息がすぐに消えた。私たちは順番を待ち、洞窟に入る。入口をくぐると、一気に暗くなり、足元には湿った岩が光っている。頭上からは水滴が落ち、ポタポタと静かに音を立てる。


「わ、暗い……」


しろの小さな声。私は懐中電灯で足元を照らしながら進む。洞窟は狭く、曲がりくねった通路が続く。壁は凍った水で少し滑るように光り、ひんやりとした空気が肌を刺す。


「うわ……冷たいニャ」


みこが手を壁に触れる。氷の層が薄く、光を受けて青白く輝く。少し前に進むと、天井が低く、かがまないと通れない場所もある。私も屈みながら進むが、思わず頭をぶつけそうになる。


「いたっ、ちょっと頭ぶつけたニャ」


「気をつけてニャ」


しろが小さな声でツッコミを入れる。洞窟の狭さと冷たさに、少し緊張が混ざるが、同時に不思議な興奮もある。奥に進むと、天井から下がる氷柱が光に反射し、青く光る小さな世界が広がった。


「すごい……」


みこが息を飲む。足音以外の音はほとんどなく、水滴が落ちる音と、自分たちの呼吸だけが洞窟に響く。普段の世界から完全に切り離された感覚が、静けさとともに胸に染みていく。


狭い通路を抜けると、少し広くなった空間に出る。氷の壁が洞窟全体を覆い、光を受けて青白く輝く。息を吐くと小さな白い雲ができ、それもすぐに消えていく。


「ここ、静かすぎるニャ」


みこが小声でつぶやく。私はうなずく。洞窟の奥で立ち止まり、少しだけ周囲を見回す。足元の岩のひんやりした感触、壁の氷の冷たさ、遠くの水滴が落ちる音……すべてが非日常だった。


「氷穴、面白いニャ……でも頭気をつけてニャ」


しろが小さく笑う。みこも笑いながら頷く。足元を確かめつつ、洞窟をゆっくり抜けると、出口から差し込む光が眩しくて、思わず目を細めた。


洞窟を出ると、外の空気は柔らかく、風が顔を撫でる。山の緑、遠くの湖、静かに流れる小川の音……日常から少し離れた世界に、私たちはゆっくりと溶け込むように歩き出す。


「今日の旅、ここまででもう十分ニャ」


みこがぽつりと笑う。


「うん、でもまだまだ先は長いね」


しろが小さくうなずく。私も窓の外の景色を眺めながら、深呼吸する。旅のリズムは、自然の中で静かに広がっていった。


風が吹くたび、葉が揺れ、水が波打ち、氷穴の冷気が思い出のように残る。私たちはそのすべてを胸に、次の目的地へと進んでいった。

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