第十三話 紫陽花と心の声
住宅の間の道を抜けて長谷の方へ向かう。観光客は多いけれど、どこか落ち着いた空気がある。道の端には古い家や小さな店が並び、軒先には鉢植えの花が置かれていた。雨を含んだ葉が重たそうに垂れている。
しばらく歩くと、長谷寺の門が見えてきた。
木の門の上には大きな提灯が下がり、その奥には石段が続いている。石段の両側は濃い緑に包まれていた。
「ここニャ?」
「ここ」
受付を通り、中に入る。
石段は思っていたより急だった。雨上がりの石は少し暗く光っている。左右には木が多く、葉の間からやわらかな光が落ちていた。土と木の匂いが静かに漂っている。
一段ずつ登るたびに、下の町の音が少しずつ遠くなっていく。人の声は聞こえるけれど、木々に吸われて丸くなっていた。
途中の踊り場に、小さな地蔵が並んでいる場所があった。丸い石の顔がいくつも並び、それぞれに赤い前掛けがかけられている。
「かわいいニャ」
みこがしゃがんで見ている。
「和み地蔵じゃな」
しろが言う。
地蔵の顔は少しずつ違っていた。笑っているようなもの、目を閉じているようなもの。雨に濡れた石がやわらかく光っている。
そこからさらに石段を登ると、本堂の屋根が見えてきた。
屋根は大きく反り、濃い木の色をしている。観音堂の前には広い石の庭があり、線香の煙がゆっくり空に上っていた。
「広いニャ」
みこが周りを見回す。
境内の奥には山の斜面が広がり、その一角に紫色の花がちらちら見えている。
「あれだね」
私は言う。
「あじさい路」
みこがぱっと駆け出した。
坂道の両側に紫陽花が並んでいる。青、紫、薄いピンク。丸い花が葉の上に重なり、斜面いっぱいに広がっていた。
「すごいニャ」
道はゆるく曲がりながら山の上へ続いている。
私はゆっくり歩く。
紫陽花は背の高さほどあり、花が顔のすぐ横に来る。人は多いけれど、みんなゆっくり歩くから静かな流れになっていた。
花の隙間から遠くの景色が見える。
鎌倉の町の屋根が並び、その向こうに海が広がっていた。
そのとき。
「ねえねえ」
後ろから声がした。
振り向く。
小さな女の子が立っていた。紫色の髪。ふわっとした服。紫陽花の中に立っている。
私は少し考える。
(……迷い神かな)
「ちょっと待って」
女の子がすぐ言う。
「迷い神じゃないんだけど?」
私は止まる。
「え」
女の子は腕を組む。
「あとさ、変なこともしないから。今めっちゃ警戒してたよね?」
私は黙る。
「……心読んだ?」
「読めるし」
さらっと言った。
「ここ長谷寺の守り神。紫乃」
手をひらひら振る。
「よろしくー」
みこが目を輝かせる。
「神ニャ!」
「そーそー」
紫乃が笑う。
「まあこのへん担当って感じ」
しろがうなずく。
「なるほどの」
私はため息をつく。
(心読めるのめんどくさ)
「うわ出た」
紫乃が指さす。
「めんどくさいって思ったでしょ今」
「思った」
「正直」
(これいやだな)
「はい今『これいやだな』って思った」
「……」
「顔出すぎなんだよねー」
私は言う。
「今だけは余計なこと考えない」
紫乃が笑う。
「それも読めてるけど」
「もういい」
紫乃がけらけら笑う。
「この人おもしろ」
その横で、みこが紫陽花を見ている。
「花いっぱいニャ」
紫乃がぱっと振り向く。
「でしょ!!」
急にテンションが上がる。
「全部うちの子!」
「かわいいニャ」
「わかる!!」
二人はすぐに盛り上がった。
「この青いの好きニャ」
「それガクアジサイね」
「名前あるニャ?」
「あるある。ここマジで種類多いよ。四十くらいあるし」
「そんなに?」
「長谷寺のあじさい路なめないで」
紫乃が得意げに言う。
「上までめっちゃ続くから」
さらに歩く。
紫陽花はどんどん増えていく。
斜面いっぱいに花が広がり、道が花の中を通っているようだった。
紫乃が葉を撫でる。
「この子ら雨好きなんだよね」
みこがうなずく。
「猫も暑いの苦手ニャ」
「わかるわー」
坂の途中には見晴台があった。
柵の向こうに海が広がる。
紫乃が言う。
「ここさー、晴れてるともっとやばいよ」
「やばい?」
「海めっちゃキラキラする」
しばらく景色を見る。
そのあと紫乃が言う。
「こっちもある」
少し横の道へ行く。
そこには弁天窟という小さな洞窟があった。岩の中に掘られた細い通路で、壁には小さな弁財天の像が並んでいる。
中は少しひんやりしていた。
「ここ静かニャ」
「でしょ」
洞窟を出る。
光が広がる。
紫乃がふと聞く。
「ねえ」
「なに」
「外ってどんな感じ?」
私はスマホを出す。
写真を見せる。
京都。
秋田。
猫島。
福岡。
紫乃の目が大きくなる。
「え、待って」
画面を近くで見る。
「すご」
「外こんなんなんだ」
しばらく黙って見ていた。
それから小さく笑う。
「いいな」
少しだけ寂しそうだった。
「ここ出られないんだよねー」
私は言う。
「また見せるよ」
紫乃が顔を上げる。
「ほんと?」
「これからも旅するし」
紫乃が笑う。
「じゃさ」
「うん」
「他のとこも撮ってきて」
「写真?」
「うん」
紫陽花を見る。
「あとでまとめて見せてよ」
みこが言う。
「楽しそうニャ」
しろもうなずく。
「旅の記録じゃな」
私は言う。
「じゃあ最後にここ戻る」
紫乃が笑う。
「それいいじゃん」
風が吹く。
紫陽花が揺れる。
そのとき、花の色が少しだけ変わった。
青だった花が、ほんのり桃色を混ぜた。
「え」
私は思わず声を出す。
紫乃が振り向く。
「ん?」
「今、色…」
紫乃は花を見て、少し笑った。
「雨のあとだからね」
そう言って、指先で花を軽く撫でる。
紫陽花がふわっと揺れた。
「ここから出れないけどさ」
それから私たちを見る。
「でも今日めっちゃ楽しかった」
みこが急に真顔になる。
「永遠の別れニャ……」
私はすぐ言う。
「いやまた来る」
しろも言う。
「鎌倉じゃからな」
紫乃が笑う。
「また来なよ」
私たちは坂を下る。
少し歩いて振り返ると、紫乃は紫陽花の中に立っていた。
小さく手を振っている。
紫色の花の中で、その姿が少しだけ光って見えた。




