第十二話 梅雨と忘れた紫陽花
雨が続いていた。
窓の外では、朝から細かい雨が降っている。強くもなく弱くもない、梅雨らしい雨だった。空は白く曇っていて、遠くの景色はぼんやりと霞んでいる。
「また雨だな」
テーブルの上で、しろが外を見ながら言った。
「最近ずっとニャ」
みこは窓の近くで丸くなっている。しっぽがゆっくり左右に揺れていた。
「梅雨だからね」
私はスマホで天気を見ながら答える。ここ数日はずっと同じような予報だった。雲のマークに傘がついている。
「どこにも行けないの」
しろが小さくため息をついた。
「雨でも行けるけどさ」
「濡れるニャ」
「それはそう」
しばらく三人で黙って雨の音を聞く。屋根を打つ音は静かで、外の世界が少し遠く感じる。
「本格的に梅雨だね」
「うむ」
私は画面をスクロールした。
「……あ」
「どうしたニャ」
「明日から晴れ」
二人がこっちを見る。
「ほんとか」
「三日くらい晴れるって」
しろの目が少し明るくなった。
「では出かけるか」
「どこニャ?」
私は少し考える。梅雨。雨。季節。
「梅雨といえばさ」
「うむ」
「紫陽花」
みこが顔を上げた。
「花ニャ?」
「そう」
紫陽花といえば。頭にすぐ浮かぶ場所がある。
「鎌倉行こう」
「鎌倉か」
「紫陽花といえば長谷寺」
しろがうなずく。
「確かに有名じゃな」
「決まり」
みこは首をかしげている。
「花だけニャ?」
「それ以外にもいろいろあるよ」
そんな感じで、次の日の行き先は決まった。
翌日。
本当に晴れていた。
空は久しぶりの青で、雲も高い。湿った空気はまだ残っているけれど、雨の匂いはもう薄くなっている。
「晴れたニャ」
「よかった」
電車に揺られて鎌倉へ向かう。窓の外の景色は、だんだんと海に近い色になっていく。家並みの間から、時々山の緑が見えた。梅雨のあとらしく、どの木も濃い色をしている。
「人多そうじゃの」
「観光地だしね」
鎌倉駅に着くと、やっぱり人が多かった。改札を出ると、観光客の流れが自然と一つの方向へ向かっている。
「まず長谷寺?」
しろが聞く。
「……まあその前に」
私は少し遠くを見る。
「鶴岡八幡宮」
「寄り道じゃな」
「近いし」
大きな通りを歩く。赤い鳥居が遠くに見えてくる。道の中央には段になった参道がまっすぐ続いていて、その両側を人が歩いていた。左右には桜並木が続いている。今は葉が茂っていて、濃い緑のトンネルみたいになっている。
「広いニャ」
石畳の参道を進むと、太鼓橋が見えてくる。池の水は少し濁っていて、睡蓮の葉が浮かんでいた。橋の朱色が、水面にゆらゆら映っている。
「昔から鎌倉の中心じゃ」
しろが言う。
橋を横に見ながら進むと、正面に大きな石段が現れる。上のほうに社殿の屋根が見えていた。朱色の建物が、青空の下でくっきりしている。
「高いニャ」
「上るしかない」
階段は思ったより長い。一段一段が広くて、上っていくと視界が少しずつ開けていく。振り返ると、参道がまっすぐ駅のほうまで伸びていた。
社殿の前に着く。木の柱が太く、屋根の影が涼しい。
手を洗って、賽銭箱の前に立つ。
私は小銭を入れて、手を合わせる。
隣で、みこが小さく言った。
「魚」
「いない」
「ここに供えるものではない」
私としろが同時に突っ込む。
みこは少しだけ不満そうだったが、ちゃんと手を合わせた。
参拝を終えて、境内を少し歩く。
社殿の横からは、山の緑が近く見えた。風が吹くと、木の葉が静かに揺れる。街の真ん中なのに、少しだけ山の空気が残っている感じだった。
「さて」
私は振り向く。
「小町通り」
「食べ物じゃな」
小町通りは人でいっぱいだった。細い通りの両側に店が並んでいて、甘い匂いや焼けた匂いが混ざっている。
団子の店、せんべいの店、抹茶のスイーツ、鎌倉野菜の串焼き。どの店の前にも人が並んでいる。
「賑やかニャ」
通りをゆっくり進む。団子を食べたり、焼きたてのせんべいをかじったり。人の声と店の呼び込みが混ざって、賑やかな空気が続いている。
しばらく歩いて、通りの終わりが近づく。
「次どこニャ?」
「銭洗弁天」
「金?」
「洗うと増えるっていう神社」
坂道を少し上がる。住宅の間を抜けて、緑の多い道になる。やがて岩の壁みたいな場所に出る。そこにぽっかりと穴が開いていて、トンネルの入口になっていた。
「ここニャ?」
「そう」
中に入ると、急に空気がひんやりする。外の明るさが少し遠くなり、岩の壁から水がしみ出している。天井は低く、足音が小さく響いた。
トンネルを抜けると、小さな谷のような空間に出る。周りを岩と木に囲まれていて、外の街の音はほとんど聞こえない。
「静かじゃな」
奥のほうに小さな祠があり、その前に水が流れている場所がある。みんなそこでお金を洗っていた。
「こうやる」
私はざるを借りて、小銭を入れる。水は冷たくて、指先が少し痺れる感じがした。
ざるを揺らすと、水の音が小さく鳴る。
「これで増えるの?」
「気持ちの問題」
しろが横で笑った。
「信じる者は救われる、というやつじゃ」
銭を軽く拭いて財布に戻す。
外に出ると、また湿った夏の空気が戻ってきた。
「さて」
しろが言う。
「次は?」
「大仏」
長谷の方へ歩く。道は少し静かで、観光客もさっきより落ち着いている。途中から、道の横に竹林が見え始めた。
細い竹が何本も立っている。上のほうで葉が重なって、風が通るたびにさらさらと音を立てる。
「竹いっぱいニャ」
「風の音がいい」
竹の間から光が落ちて、地面に細い影が揺れていた。歩くたびに、その影が少しずつ動く。
やがて門が見えてくる。
中に入ると、急に視界が開けた。
広い場所の真ん中に、大きな仏像が座っている。
「……大きい」
みこが小さく言った。
青銅の体が、空の下でどっしりと座っている。顔は静かで、目は半分閉じているように見えた。
周りに屋根はない。空と山に囲まれて、そのまま外に座っている。
「昔は堂の中におったらしいが、台風で流されたのじゃ」
しろが言う。
「それで外?」
「そういうことらしい」
仏像の前まで歩く。近づくほど大きさがわかる。足の上に組まれた手、ゆったりした衣の線。金属なのに、どこか柔らかく見える。
後ろには山の緑が広がっていた。竹の葉が揺れて、かすかな音が続く。
しばらくその場に立つ。
観光客の話し声もあるけれど、不思議と静かだった。
「落ち着くニャ」
「うむ」
私は仏像を見上げる。顔はやっぱり穏やかで、遠くを見ているようだった。
風が吹く。竹の音が遠くで揺れる。
しばらくそのまま立っていた。
「さて」
私は歩き出す。
「帰るか」
「うむ」
駅へ向かう道を歩きながら、みこが満足そうに言った。
「楽しかったニャ」
「結構回ったね」
「いっぱい歩いた」
そのとき。
私は足を止めた。
「あ」
しろが振り向く。
「どうした」
「……長谷寺」
「うむ」
「行ってない」
三人でしばらく黙る。
みこが言った。
「花」
しろが小さく笑った。
「完全に忘れておったな」
私は空を見上げる。青い空の下で、雲がゆっくり流れている。
まだ時間はある。私達は長谷寺に向かい歩き出した。




