第十一話 屋台の灯りと少し軽くなる夜
ホテルの部屋を出たとき、外の空気は少し湿っていた。
雨はもう降っていない。けれど、昼間の雨の名残みたいな匂いがまだ残っている。アスファルトがゆっくり冷えていくような、夜の街独特の空気だった。
エレベーターで一階に降りる。ロビーを抜けて外へ出ると、夜の福岡は思っていたより明るかった。ネオンの光が多い。街灯だけじゃなくて、店の看板とか、川沿いの灯りとか、いろんな光が混ざっている。
でも歩き出してすぐ、さっきのことを思い出した。
仕事を辞めた。
口に出して決めたときは勢いだった気もする。でも今になって少しずつ実感が出てきた。会社のこととか、上司の顔とか、明日の朝のこととか。これまで普通だった生活が、さっきの電話一本で途切れた気がしている。
『未練か』
しろが言う。
「未練っていうか……普通はさ」
夜の川を見ながら歩く。
「仕事辞めるって、もっとちゃんと考えるもんだろ」
みこが言う。
「楽しいほうがいいニャ」
「そういう問題じゃない」
『人は考えすぎる生き物じゃ』
しろが続ける。
『主は昨日まで、毎日同じことをしておったのじゃろう』
「まあ……そうだな」
『朝起きて、働いて、帰って、また次の日も同じじゃ』
言われてみると、その通りだった。悪い生活じゃなかったけど、特別なこともなかった。
『ならば少し違うことをしてもよかろう』
みこも腕にくっついてくる。
「旅のほうが楽しいニャ」
「とりあえず今日くらいは考えないでおくか」
『それでよい』
少し歩くと川が見えてきた。橋の上から見ると、水の上にネオンが揺れている。昼の景色とは全然違う。
そして、川沿いに灯りが並んでいるのが見えた。
「あれか」
屋台だった。
小さな屋台がずらっと並んでいる。暖簾がかかっていて、椅子が並んでいて、湯気と煙が上がっている。ラーメンの匂い、焼き鳥の匂い、出汁の匂い。いろんな匂いが混ざって、夜の空気の中に漂っていた。
近づくと、店の人の声や、お客さんの笑い声が聞こえてくる。
「すごいニャ」
みこがきょろきょろしている。
『屋台は久しぶりじゃな』
「神様屋台行ったことあるの?」
『江戸の頃からあるぞ』
「スケールが違う」
私は屋台を見て回る。ラーメンの店、焼き鳥の店、おでんの店。どの屋台も小さいのに、人がしっかり入っている。
「どこ入る」
みこが言う。
「ラーメン!」
やっぱりそれか。
「まあ福岡だしな」
空いている屋台を見つけて、暖簾をくぐった。
「いらっしゃい!」
店の人が明るく言う。
カウンターだけの小さな屋台だった。椅子に座ると、目の前に鍋とコンロがある。湯気が立っていて、豚骨の匂いがしっかり漂っていた。
「ラーメン一つお願いします」
「はいよ!」
すぐに麺をゆで始める音が聞こえる。鍋の中で麺が揺れる音がして、湯気が上がる。
みこが小声で言う。
「いい匂いニャ」
確かにいい匂いだった。
数分でラーメンが出てきた。
白いスープに細い麺。チャーシューとネギが乗っている。見た目はシンプルだけど、湯気と一緒に濃い香りが上がってくる。
「いただきます」
箸で麺を持ち上げる。細い。思っていたよりずっと細い麺だった。
スープを少しすする。
「……うま」
思わず声が出た。
豚骨の味が濃い。でも重すぎない。塩気と旨味が混ざって、体にすっと入ってくる感じだった。
みこが麺をすする。
「熱いニャ!!」
「そりゃそうだろ」
『豚骨の旨味がしっかり出ておる』
「神様ラーメン語るな」
でも確かにおいしい。昼間歩き回った体に、温かいスープが染みていく。
気づいたら、あっという間に半分くらい食べていた。
「替え玉どう?」
店の人が聞いてくる。
「替え玉?」
みこが首をかしげる。
「麺のおかわりだよ」
「麺おかわりニャ!?」
福岡では普通らしい。
「じゃあ……一つ」
すぐに麺が出てくる。残ったスープにそのまま入れる。
また食べる。
「……これ危ないな」
「何がニャ?」
「永遠に食べられる」
スープと麺のバランスがちょうどいい。替え玉を入れても味が薄くならない。
屋台を出る。
川沿いの風が少し気持ちいい。
「もう一軒行く?」
みこが言う。
「まだ食べるのか」
「旅ニャ」
『屋台ははしごするものじゃ』
神様まで言い出した。
焼き鳥の屋台に入る。炭火の上で肉が焼けていて、煙と一緒に香ばしい匂いが上がっている。
串を食べる。
「……うま」
炭火の香りがしっかりしている。ラーメンとは全然違うおいしさだった。
そのあとおでんも食べる。出汁の染みた大根が、口の中でほろっと崩れる。
さらに別の屋台で餃子も頼む。鉄板で焼かれた皮がぱりっとしていて、中から熱い肉汁が出てくる。
途中で小さな屋台で明太子も少しだけ頼んだ。しょっぱいけど、じんわり旨味が広がる味だった。
「食べすぎたニャ」
「お前もな」
川の方を見る。
ネオンが水に揺れている。
屋台の灯り、ラーメンの湯気、焼き鳥の煙。いろんな匂いが夜の空気に混ざっていた。
ふと、さっきまで考えていた仕事のことを思い出す。
でも、さっきほど重くない。
しろが言う。
『どうじゃ』
「何が」
『辞めたこと』
私は少し考えてから答える。
「……まあ」
屋台の灯りを見る。
「悪くない夜だな」
みこが笑う。
「旅続けるニャ」
私は小さくうなずいた。
少し歩いて橋の上で立ち止まる。夜の川は静かで、ネオンの色がゆっくり流れている。遠くで笑い声や食器の音が聞こえてくる。
今回は、水族館に行って、タワーに登って、虹を見て、仕事を辞めて、屋台ではしごしている。
改めて考えると、かなり濃かった。
「……今回は色々あったな」
みこが頷く。
「いっぱい食べたニャ」
「そこか」
私は少し笑う。
そして二人を見る。
「次、どこ行く?」




