第十話 雨上がりの塔と少しだけ大きな決断
水族館を出たとき、雨はまだ降っていた。
強い雨ではないけれど、止む気配もない。地面はすっかり濡れていて、空はずっと灰色のままだった。さっきまで水槽の青い光の中にいたせいか、外の色は少しだけ暗く感じる。
「雨続くな」
『季節じゃの』
「もう梅雨とか来るのか」
旅をしていると、季節の変わり方が少しだけはっきりわかる気がする。電車で移動して、歩いて、外に長くいるからかもしれない。
「梅雨になったら旅しづらいニャ?」
みこが聞く。
「まあ、そうだろうな」
雨が続くと外を歩くのは大変だし、景色も見えにくい。山とか海とか、そういう場所はやっぱり晴れている方がいい。
少し考える。
でも、ここまで旅してきて思うこともあった。
「……でもまあ」
私は空を見上げた。
「なんだかんだ楽しいけどな」
予定通りにいかないことも多いけれど、その分だけ思い出が増えている気もする。
みこが笑う。
「旅いいニャ」
『人はそういうものじゃ』
少し歩いてから、スマホを出す。
「次どうする」
福岡にはいろいろ観光地がある。ラーメンとか、屋台とか、行きたい場所はそれなりにある。
でも画面を見ていると、一つ気になる場所が出てきた。
「福岡タワー」
『塔か』
「高いやつニャ?」
「地上百二十三メートルらしい」
展望台があるらしい。
ただ、空を見る。
「……見えなさそうだな」
雨で視界が悪い。こういう日は遠くの景色はあまり見えないことが多い。
みこが言う。
「やめるニャ?」
少し考えた。
もし行かなかったら、たぶんあとで思う気がする。
「あのとき行けばよかったかな」
そういうやつだ。
「……行くか」
『後悔よりはよいの』
というわけで、福岡タワーに向かうことになった。
海の近くに塔が立っていた。思っていたより細くて高い。上の方は雲に少しだけ隠れている。
入口に着いたときも、まだ雨は降っていた。
ガラス越しに外を見ると、景色は少し白っぽくぼやけている。
「やっぱり見えなさそう」
『まあ登ってみるのじゃ』
エレベーターで上へ上がる。
耳が少しだけ変な感じになる。扉が開くと、展望フロアだった。
ぐるっと一周できるようになっている。
最初に見えた景色は、やっぱり雨の景色だった。街は見えるけれど、遠くは霞んでいる。海も色が少し暗い。
「まあ……こんな感じか」
みこが窓に顔を近づける。
「海あるニャ」
『雨の海じゃな』
フロアを歩く。
一周する。
もう一周する。
三周目くらいになったときだった。
窓の外の色が、少し変わった気がした。
「あれ?」
さっきまで灰色だった空に、少しだけオレンジ色が混ざっている。
外を見る。
雨が止んでいた。
雲の隙間から光が出ていて、空が夕焼けの色になり始めている。さっきまで見えなかった海も、光を反射して少し明るくなっていた。
「……きれいだな」
そして、その横に。
うっすらと虹が出ていた。
「虹ニャ!」
みこが窓を指さす。
大きくはないけれど、確かに見える。海の上から街の方へ、ゆるく弧を描いている。
夕焼けと虹。
雨上がりの空はさっきまでと全然違っていた。
私はしばらく黙って見ていた。
来てよかったと思った。
もし「どうせ見えないし」と思って来なかったら、この景色は見られなかった。
旅って、たぶんこういうものなんだろう。
外に出る。
さっきまでの雨の匂いが残っている。空はまだ少し明るくて、雲の端が赤くなっていた。
そのあと、雨上がりの道を歩いてホテルに向かった。
ロビーに入ると、空調の少し冷たい空気が流れてくる。外を歩き続けていた体には、それだけで少し楽だった。
チェックインを済ませて、部屋に向かう。
廊下は静かで、カーペットの上を歩く音だけが小さく響く。
「ホテル久しぶりだな」
『最近は民宿やら島やらじゃったからの』
ドアを開ける。
思ったより広い部屋だった。ベッドが二つ並んでいて、窓からは夜の街の光が少し見える。
私は荷物を置いて、そのままベッドに座った。
「……はあ」
体が沈む。
歩き続けていた足が、やっと休める感じだった。
みこはすぐにベッドに飛び込んだ。
「ふかふかニャ」
『文明じゃな』
「神様その言い方やめろ」
少しして、喉が渇いたので自販機に行くことにした。
廊下を歩いて、エレベーターで一階へ降りる。
ロビーの近くの自販機で飲み物を買う。缶を持って振り向いたときだった。
「おーい兄ちゃん」
知らない声がした。
振り向くと、スーツ姿の男がいた。顔が赤い。明らかに酔っている。
「観光?」
「まあ、はい」
「いいねえ観光!」
距離が近い。
かなり近い。
アルコールの匂いがする。
「福岡初めて?」
「……そうですね」
「ラーメン食った?」
「まだです」
「だめだよ食わないと!」
肩をバシバシ叩かれる。
「痛い」
『めんどくさいの』
「屋台行きなよ屋台!人生変わるから!」
人生変わるのか。
「そうなんですね」
「あと焼き鳥!」
「はい」
「あと明太子!」
「わかりました」
話が終わらない。
しばらくうなずき続けて、ようやく解放された。
エレベーターに乗る。
扉が閉まる。
「……疲れた」
『旅にはこういう者もおる』
部屋に戻る。
ベッドに倒れる。
しばらくぼーっと天井を見る。
雨の音はもう聞こえない。外は静かだった。
そのとき、しろが言った。
『そういえば』
「ん?」
『今日、塔にいたとき』
少し間を置く。
『電話が来ておったぞ』
「……電話?」
『主の上司じゃろうな』
一瞬、嫌な予感がした。
スマホを見る。
着信履歴。
確かにあった。
しかも何回か。
「……うわ」
みこが言う。
「出なかったニャ」
「気づかなかった」
『忙しそうじゃったからの』
急いで折り返す。
数回コールして、つながった。
「もしもし」
電話越しの声は、思っていた通りだった。
そして——まあ、怒られた。
長くはないけれど、要するにこういうことだった。
「どこにいるんだ」
「連絡が取れない」
「ちゃんと報告しろ」
社会人としては、まあ正しい内容だった。
電話を切る。
ベッドに倒れる。
「……怒られた」
『当然じゃな』
みこが近づいてくる。
「めんどくさいニャ」
「仕事だからな」
「辞めればいいニャ」
「簡単に言うな」
しろが言う。
『旅を続ければよいではないか』
「いやいや」
『電子マネーもあるしの』
「それ無限じゃないだろ」
『……』
少し間が空く。
「まあ、吾輩の体力が続く限りじゃな」
「やっぱり無限じゃないじゃん」
みこが腕にくっついてくる。
「一緒に旅するニャ」
「いや」
「楽しいニャ」
確かに楽しい。
それはもう、間違いない。
今日の虹とか、猫島とか、桜とか。
普通に生活していたら見なかった景色ばかりだった。
みこが言う。
「仕事より旅のほうがいいニャ」
私は少し黙った。
しろが言う。
『主はどうしたい』
答えは、意外とすぐ出た。
スマホをもう一度手に取る。
少しだけ深呼吸する。
「……まあ」
小さく笑う。
「いいか」
そう言って、私は決めた。
仕事を辞めて、もう少しだけ——
この旅を続けることにした。




