第1巻:ノイズ- 第1章:メス
人の心の奥底、その暗闇を覗き込む準備はいいですか?
葵は校舎に足を踏み入れ、リノリウムの床に濡れた足跡の鎖を残していった。髪やしわくちゃの制服からは水滴が滴り落ちているが、彼がそれを拭おうとする気配はない。
廊下には厚い「音の壁」が立ちはだかっていた。数十人分の声が混ざり合い、判別不能な騒音となる。誰かの高笑い、ロッカーの扉を乱暴に閉める音。
不意に、肩を強くぶつけられた。衝撃で葵の体は慣性のままに揺れ、その振動を吸収する。
「あ、ごめん!」
相手は足を止めることさえせず、雑踏の中へと消えていった。葵にとってはどうでもいいことだった。振り返ることも、苛立ちを感じることもない。彼はただ歩調を整え、教室へと向かった。
教室内の喧騒は、廊下よりもさらに濃密だった。飛び交う言葉は物理的な質量となり、鼓膜を圧迫する。葵は最後列の自分の席に座り、濡れた鞄を床に置くと、窓の外に顔を向けた。
彼の瞳――二つの完璧な、昏い同心円状の螺旋が、灰色に染まった空をじっと見つめる。彼は空間から意識を切り離した。
突然、教師が鋭く手を叩いた。
「静かに! 席につけ。今日は転校生を紹介する」
ノイズが一瞬だけ途切れ、期待に満ちた囁きへと変わる。
教室の扉が開いた。一人の少年が入ってくる。濁った灰色のモブ(生徒たち)の中で、彼だけがまるで別の紙から切り抜かれたかのように異質だった。シワ一つない、完璧に整えられた黒い学ラン。そして、透き通るような白い髪 。彼は黒板の前に立ち、不自然なほど真っ直ぐに背筋を伸ばした。
「由太です。空良由太」
声は穏やかで、一定の抑揚を保っていた。彼は社会的に「正しい」とされる、完璧な微笑みを浮かべる。
「早く皆と馴染めるよう、頑張ります」
直後、教室は歓迎の嵐に飲み込まれた。女子生徒は色めき立ち、男子生徒は野次を飛ばす。休み時間になると、彼の席の周りはたちまちカオスと化した。誰もが転校生の関心を惹きつけ、自分たちの退屈を埋めようと必死だった。
だが、由太は彼らを見ていなかった。
周囲が騒音を撒き散らす中、彼の鋭く冷たい白銀の瞳が教室内を「スキャン」していく。媚びを売る顔、探りを入れる視線を一つずつ切り捨てていき、やがて彼の視線はある一点で止まった。
最後列の席。目の下に深い隈を刻み、濡れたまま微動だにしない少年。騒ぎに一度も顔を向けない存在。
由太は近くの生徒にわずかに身を寄せ、喧騒を切り裂くような静かな声で尋ねた。
「……あそこにいるのは?」
一瞬、周囲の空気が凍りついた。数人が葵の方を振り返り、そして教室は嘲笑に包まれた。
「ああ、あれ? 気にしなくていいよ」
誰かが吐き捨てるように言った。
「いつもあんな感じなんだ。一点を見つめたまま動かない、まるで幽霊(亡霊)みたいにさ。話しかけても無駄だよ、耳が聞こえないんじゃないかってレベルだから」
由太は笑わなかった。その顔から笑みが消える。彼は瞬き一つせず、無言で葵を見つめ続けた。
彼が見ているのは、ただの変人ではない。
それは、この完璧に構築されたシステムの中に生じた「バグ(不具合)」だった。
葵は依然として窓の外を見つめていた。
彼にとっては、すべてが心底どうでもよかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。人の魂です。
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