不思議の国のマッスルくん
人里離れた辺鄙の地。
筋トレが趣味な令嬢が住んでいた。
四輪馬車が2両で並走しても十二分に通れる道の幅。
門を抜け眼前に広がるのは、赤レンガを軸として造られた立派なお屋敷。
舗装された石のタイルの道と隅々まで手入れが施されている芝生も相まり、どこか素朴な美しさを醸し出している。
現在、お屋敷では令嬢と使用人の2人で暮らしている。
昼下がりの令嬢であるマッスルくんは、自作の筋トレルームで己の肉体を鍛えていた。
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
「ふぅ…今日は良いダンベルフライ日和だ。あとは上腕三頭筋辺りを攻めていこうか」
扉を3度ノックする音が聞こえた。
恐らく使用人だ。
「失礼す。筋肉様、今日の夕餉の食材を狩りゆく。その間お屋敷を空くればお留守番願ひたてまつる」
どうやら、食材の調達をするようだ。
たまにはフィールドトレーニングもいいものだ。
「使用人。私も久しぶりに狩りへついていってもいいかな」
話しながら使用していたトレーニング器具を片付けていく。
「分かれり。されば筋肉様は兎願ひたてまつる。我は鹿や猪を狙ふ」
「兎だな、分かった。白兎を狙ってやるぞ、それも大胸筋ぐらいのをね」
プロテインと50kgのダンベルを懐に入れ、部屋を出た。
玄関に向かう途中、ふと中庭に目を配ると服を着た白兎がいた。
「!?!?!?!?!?!?」
反射的に白兎に向かって50kgのダンベルを投げていた。
音を置き去りにするほどの速度、訳もなく躱す白兎。
「!?!?!?!?!?!?!?」
不意打ちで仕留めきれなかったことに驚くマッスルくん。
服を着た白兎は中庭の薔薇を一通り鑑賞した後、口を開いた。
「今日の夕食は兎だってね。僕を食べるのかい」
マッスルくんは焦りで筋トレを開始した。
なんと道具なしのトレーニングだ。
相当焦っている。
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
「えっ、どうしたんだい。急に腕立て伏せを始めて」
白兎は筋トレマシーンに向かって疑問を投げかけたが、一向に腕立て伏せの速度を緩めない。
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
「ちょっと落ち着いて!そもそも何故急にダンベルを投げてきたのかい?
僕が躱してなかったら即死だったよ!危ないなぁ…
君、おかしいよ。初対面の兎に向かって突然ダンベルは投げてこないでしょ普通。
せめて、弓とかで狙われた方が気が楽だったよ。
……話、聞いてるのかい君。
腕立て伏せを止めて耳を傾けてはくれないかい」
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
「腕立て伏せの次は、スクワットでいくか……」
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
白兎は逃げ出した。
「待てッッッッッッッッ!!!!!!」
マッスルくんは叫んだ。
白兎は中庭から正面玄関へ抜け、森の方へと走っていく。
「流石の私でもムキッときちゃったね。筋肉だけに」
窓から外へ飛び出して森を駆ける筋肉。
白兎は木の陰へ姿を隠した。
筋肉の視界から外れてしまい、白兎を見失ってしまった。
「おかしいムキ、確かにこの木の後ろに隠れたのを見たムキ」
根っこをよく見ると、人が入れるぐらいの大穴が空いていた。
「この穴の中に隠れているムキ?」
マッスルくんは白兎を追うために大穴へ飛び込んだ。
闇に落ちる筋肉。
白兎を喰らうために果ての果てまで追う。
先ほど見た白兎が、筋肉に適合する最高の肉なのかもしれないのだ。
どのぐらい時間が経ったのだろう。
30秒も経っていないとは思うが、筋肉に変化が起こり始めていた。
加えて薄っすらと明るくなってきた。
「スカイダイビング筋トレの先駆者を目指そうかな」
目が慣れた頃、周囲には複数のホログラムで様々なボディビルポーズが映し出されていた。
「これはサイドチェスト、モストマスキュラーにフロントラットスプレッド……
それに、映っているのは誰だ…肉体の完成度が規格外だ……」
視覚にばかり気が取られていたが、微かな掛け声も聞こえてきていた。
「…肩に………ス………乗ってる………」
よく聞き取れない。
男性の声のように聞こえるが、性別がどちらなのかはさほど重要ではなさそうだ。
聞こえてくる声が段々と大きくなってきた。
「上腕二頭筋ベン・ネビス山!!!」
「なんだ。掛け声が聞こえてきていたのか。確かベン・ネビス山って近所で一番高い山だったわね」
「デカすぎてウィケット見えないよ!!!」
「ティーが飲みたいよ!!!アフタヌーンマッスル!!!」
ホログラムのボディビルポーズに、聞き馴染みのある言葉の掛け声。
下を向くと地面が見えてきた。
地面に近づくにつれて落下速度が弱まり、
羽が落ちるかのごとくゆっくりとした速度まで減速した。
床との激突の心配が取り除かれ、周りを気にする余裕が生まれた。
「!?!?なんだ……ここは……」
そこは、筋肉柄の絨毯や壁紙が敷き詰められた広間だった。
白兎の姿はどこにもない。
備え付けプロテインもどこにもなさそうだ。
「1……2……3……4……5……6……7……8……9……10……11……12……13……14……15……16……17……18……19……20……21……22……23……」
マッスルくんには困った時についしてしまうスクワット癖がある。
今の実力ならば1秒に10回は余裕だ。
スクワットを5000回終えたところで広間の隅に、小さな扉と小さな鍵を見つけた。
その扉はマッスルくんの小指の第一関節ほどの大きさだ。
パンプアップ前でも小指の第一関節ほどの大きさだ。
小指のパンプアップは、相当熟練した筋肉でないと不可能だ。
人間にはたどり着けない領域に達している。
マッスルくんは筋トレを終え、本能が甘味を欲する。
「筋肉が栄養を欲しがっている……!?!?!?!?!?!?」
振り返ると先ほどまで存在していなかった、お皿に乗ったケーキが目に入った。
ホールのショートケーキだ。
ケーキの上にはイチゴではなくササミが隙間なく敷き詰められている。
マッスルくんは音速で食らいつく。
直後。
増帽筋を始め、大胸筋、三角筋、最長筋、上腕二頭筋、広背筋……
肩から太ももにかけて、筋肉が順に肥大化していく。
「あ゛ッッッッッッグッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!」
筋肉の肥大化が止まらない。
それはもはや広間を筋肉で埋め尽くす勢いだ。
マッスルくんは服を着ていないので、服が破けたりする心配はない。
急激なマッスルの成長に筋肉痛が止まらない。
「あ゛ッッッッッックソ!!!!聞いてください。肥大化する筋肉痛」
(曲名:肥大化する筋肉痛 / 作詞:マッスルくん / 作曲:謎のプロテイン精霊)
「筋肉は裏切らない…そう信じていた……だが、この痛み……そして、この異常な肥大化は……何だ……?」
「胸が……張り裂けそうだ♪」
「肩が……石みたいに固い♪」
「太ももが……動かない♪」
「それでも鍛えたい……♪」
「呼吸するたびに膨らんでく♪」
「筋線維が……叫んでる♪」
「こんなはずじゃなかった♪」
「私は……どうなる……♪」
マッスルくんが歌っていると、いつの間にか周りに動物達が集まってきていた。
「デカい、デカすぎる……!♪」
「痛い、痛すぎる……!♪」
「でも…もう引き返せない……ッ!♪」
「筋肉が…まだ成長してるッッッ!!!♪」
動物達も歌いだす。
腰を低くし、秒速5回の勢いでコサックダンスをしていると、一匹の動物がプロテインを持っていることに気が付く。
(あのプロテインを飲めば、身体が小さくなるかもしれない!!!!!)
マッスルくんは物凄い勢いで両手を合わせる。
すると、地響きがするほどの大きな音と共に、マッスル・ブラックホールを生み出した。
マッスル・ブラックホールは全てを飲み込む。
ケーキを載せていた皿に、周囲で踊っていた動物達。
プロテインも小さな鍵も何もかも吸い込み、自身の筋肉でさえもマッスル・ブラックホールに吸収されていった。
ある程度吸収したところで筋肉が不足し、マッスル・ブラックホールが消滅した。
「ハァ……ハァ……ハァ……ハァ……何とか……収まった……」
マッスルくんの筋肉は平常時から99%も減ってしまった。
身長も3cmほどにまで縮まり、広間がとても広大に見える。
先ほど見かけた小指の第一間接ほどの大きさの扉へ向かうマッスルくん。
今の身長であれば、扉を通り抜けることができそうだ。
しかし、扉の鍵もマッスル・ブラックホールにより吸収されてしまった。
……扉を開ける手段がない。
「こうなれば、腕尽くで扉を壊すしか……!!!!!」
力いっぱいドアノブを握る。
そして思い切り押そうとしたその時、聞き覚えのない声が響き渡った。
「いやいや待ってキミ!!駄目だよ!!ちゃんと扉に貼ってあるノルマをこなしてもらわないと!!!!」
「今の声……どこの筋肉だ!!」
「ドア!!ドアノブだよ!!!!」
「ドアの筋肉か」
先ほどから聞こえていた声の主は、握りしめていたドアノブだった。
扉に貼ってあるメニュー?
本当だ。
扉に筋トレメニューが貼ってある。
「このノルマをこなさないと扉は開かないんだよ」
「ノルマはベンチプレス10kg×10回……?簡単すぎる。私をなめているのか?」
「いいや、なめていないさ別に。キミ中心で世界が回っている訳ないじゃないか。
まあ一つ言っておくと、キミ小さいから力もなさそうだよね」
ドアノブがケタケタ笑う。
マッスルくんはドアノブが笑っている間にベンチプレス10kg×100回終わらせた。
「ほら終わったぞ。早く開けろ」
「え……え……?」
「早く開けろッッッッ!!!!!!」
マッスルくんは殺気を放ち、ドアノブに対して強制的に走馬灯を見せる。
障子に穴をあけるかの如く、横4×縦6の合計24連撃を繰り出し、その全てが扉を貫通した。
ドアノブの面影は既にない。
扉を通り抜けると、そこはシャトルランの会場だった。
特徴的な音楽と共にレーンを往復するドードー鳥達。
どの個体も羽が退化している代わりに上腕二頭筋と大胸筋がムキムキに発達していた。
足は普通に鳥で、走るのに実に不向きそうだ。
「シャトルランか……持久力型の筋肉の持ち主には向いているが、私は瞬発力型の筋肉……シャトルランには向いていないんだ……」
一羽のドードー鳥がマッスルくんに向かって呼びかける。
「おーいお前!ここに何しに来た!!!!」
「丁度、大胸筋ぐらいの白兎を探していてな。ここらで見なかったか」
「さあ知らないね……お前がシャトルラン・マッスルバトルで勝ったら何か思い出すかもなぁ」
ドードー鳥に殺気を放ったが、びくともしない。
コイツは相当な手練れのようだ。
99%の筋肉を失った状態では倒すことは困難だと悟る。
「……良いだろう!!!!!」
マッスルくんが声を張り上げると、自身の筋肉がバラバラに動きだす。
数分のストレッチの後、マッスルくんはシャトルランに最適な肉体へと変化した。
それを認めたドードー鳥がルール説明を開始する。
「ルール説明だ!!!他のドードー鳥は観客席を整えろ!!!!」
周囲のドードー鳥が慌ただしく四方八方に走り出す。
「基本は普通のシャトルランだ。しかし、5往復ごとに『マッスルチャレンジ』を設ける」
「『マッスルチャレンジ』……?」
「そうだ。要するに5往復ごとにランダム筋トレイベントが発生するから、それにクリア出来ないと失格。即、負けだ。そして先に40往復した者が勝利だ」
「分かったわ。因みに審判はいるのか?」
「審判にはこの国の元首であるハートの女王をお招きする」
いつの間にかシャトルラン・マッスルバトルのレーンを囲うように観客席と実況席が完成している。
レーンの中央には、審判着を着たハートの女王が赤い旗と白い旗を持って立っていた。
……ハートの女王。
離れた場所から見ているだけで、押しつぶされそうなほどの筋肉圧を感じる。
ハートの女王の筋肉がデカすぎて距離感が掴めなくなり、めまいがする。
「準備は良いか!!マッスルくん!!」
ハートの女王が声を張り上げる。
何故私の名前を把握しているのかは些細な疑問だ。
恐らく私のマッスルメモリーを読み取り、個人情報をハッキングしたのだろう。
常人を超えて発達した筋肉は体外まで操作可能となり、他人に侵入する。
そして、実力差が激しすぎると他人のマッスルメモリーを読み取ったり、筋肉を爆散させたりできてしまう。
いや、今考えるべきは目の前の相手、ドードー鳥のことだ。
上腕二頭筋と大胸筋が、あのスターリング城を彷彿とさせるほどに発達している。
足はとても細く見え、走るには不向きそうではあるが油断は大敵だ。
開始位置に付き、大きく一度唾を飲み込む。
「ドードー鳥。よろしく頼むよ」
「ああマッスルくんよろしくな。お前が勝ったら白兎の場所を教える。お前が負けたら死んでもらうよ」
「構わん!!!」
二人は固い握手をかわす。
ドードー鳥のこの勝負にかける熱い気持ちがマッスルくんの筋肉に流れ込んでくる。
「聞いているか双方!!位置につけ!!!」
白線の手前に並ぶ。
会場中が審判の開始合図を静かに待つ。
こんなに緊張したのはいつ以来だ。
前にあったボディビルの世界大会でもここまでの緊張はしなかった。
全身で心臓の鼓動を感じる。
自身の血流が流れる音が聞こえる。
瞼を閉じ、クラウチングスタートでその時をジッと待つ。
「よおぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおい!!!!!!!!」
「バァアアアアアアアン!!!!」
銃声が鳴り響き、シャトルラン・マッスルバトルが開始した。
因みに今の発砲で撃たれたトランプ兵が1名処刑された。
マッスルくんとドードー鳥が同時に走り出し、最初の往復は普通のシャトルラン。
通常時のルールは簡単。
一定の間隔で鳴るドレミファソラシド音が鳴り終わる前に、20m先の白線を超えるだけで良いのだ。
そう、通常時であれば簡単という話だ。
クラウチングスタートを切ったマッスルくんがトップスピードで走り出すと、
初めの"ド"の音が鳴り終わる前に20m先の白線を踏み抜いた。
『音速の筋肉令嬢』の二つ名がこの不思議の国に轟いた瞬間だった。
「何ッッッ!!!!速すぎるッッッ!!!!」
湧き上がる会場。
観客席にはチェシャ猫・トランプ兵・白兎がおり、マッスルくんとドードー鳥のどちらが勝つのかを賭け事している。
「あの新入り……マッスルくんってのは何者だ!?!?」
「ドードー鳥!!!!!てめえに全財産賭けてんだ!!!!!行けオラァ!!!!!」
ドードー鳥はマッスルくんに続き、20mの白線を超える。
電子音が鳴り終わり、往復が始まる。
「マッスルくん……お前、何者だ?」
「私はただの筋トレ好きの令嬢さ」
マッスルくんは再びクラウチングスタートを切り、トップスピードで走り出す。
「……マッスルくん。ただの雑魚だと思っていたが、撤回する。正々堂々勝負だ!!!」
マッスルくんの後を追ってドードー鳥が走り出す。
1~4往復目は双方譲らず。
5往復目が開始する。
ハートの女王が大胸筋を振動させるとともに叫び出す。
「『マッスルチャレンジ』!!!」
レーンの端に突然ベンチプレスが出現した。
目視するに50kgサイズ。
扉のノルマの5倍の重さのベンチプレスだ。
「第一のチャレンジ!!!!ベンチプレス50kg×10回!!!!」
観客席から歓声が沸く。
ここからがシャトルラン・マッスルバトルの本番のようだ。
マッスルくんは例のクラウチングスタートを切るも、先ほどまでになかった違和感を感じた。
「何だ……?ドードー鳥が消えた……?」
「正直走るのは苦手なんでね。得意な方法でやらせてもらうよ」
マッスルくんは既にベンチプレスを開始している。
ベンチプレスを行うために空を見上げているのだが、視線の先からドードー鳥の声が聞こえる。
「まさか……!?空を飛んでいるのか!?」
「その通り!!限界まで上腕二頭筋と大胸筋を鍛え上げたドードー鳥は空をも飛べる!!」
ドードー鳥はマッスルくんのベンチプレスの上に着地すると、異常に発達した上半身をフルに発揮できる攻撃を放つ。
「くらえ!!ダブルスレッジハンマーだ!!!!」
両手を組み、ベンチプレスに向かって勢いよく振り下ろす。
ベンチプレスを真っ二つに折り、そのままマッスルくんの脳天目掛けて向かってくる。
「フンッッッッッ!!!!」
筋肉をパンプアップさせ、身体の上に載るドードー鳥を弾き飛ばす。
間髪入れず、ドードー鳥へ向かって真っ二つに折れたベンチプレスをぶん投げる。
「どこが正々堂々だ……マッスルチャレンジのベンチプレスは後2回残っている。もう一つのベンチプレスに移動しなければ」
ハートの女王が宣言する。
「ドードー鳥!!第一のチャレンジクリア!!」
一体何が起きた。
先ほどドードー鳥を空に弾き飛ばして、折れたベンチプレスを追い打ちで投げたはず。
空中にいるドードー鳥がベンチプレスを10回もこなせるはずがない。
困惑を抱えながら、もう一つのベンチプレスに移動する。
「マッスルくん。もう一度言うが、得意な方法でやらせてもらうよ!!!」
ベンチプレスを行うために仰向けになると、ドードー鳥が空中でベンチプレスを上げているのが見えた。
「まさか、空を飛びながらベンチプレスを……?」
「そのまさかさ!!!!」
上腕二頭筋と大胸筋を限界まで鍛え上げた結果、空を飛ぶのは分かる。
空を飛ぶだけならマッスルくんも可能だ。
空中でベンチプレス50kgを上げられるのは聞いたことがない。
マッスルくんは一筋の冷や汗を流しつつ、ベンチプレスのノルマを終えた。
「マッスルくん!!第一のチャレンジクリア!!」
すぐさま電子音が鳴り始め、5往復目折り返しのシャトルランが始まる。
「!?!?」
マッスルくんがクラウチングスタートを切ろうとした時、自身の身体に違和感を感じた。
「身体が……重い……!?!?」
走る速度がドードー鳥と同程度になってしまっている。
まさか、ドードー鳥が何かを仕掛けたのか……?
「マッスルくん。あたくせをジロジロ見ているようだけど、あたくせは何もしていないよ」
「何をしたッッッ!!ドードー鳥ッッッ!!」
「話聞いてる?あたくせは何もしていない。足が遅くなった理由を気にしてるんなら自分の筋肉に聞いてみな!!」
自分の筋肉を見て気が付いた。
先ほど自分でパンプアップしたのに加えて更に、大胸筋がムキムキになっている。
「分かったぞ……マッスルチャレンジのベンチプレスが原因か!!!」
「ベンチプレスでムキムキになって足が遅くなったようだな!!!脳筋馬鹿が!!!」
「私が脳筋……馬鹿……だと??」
マッスルくんの一番嫌いな言葉。
それは"脳筋馬鹿"だ。
何故嫌いであるかは、過去にとある事件に巻き込まれたのがルーツとなる。
--
1週間前。
国王から招待を受けたマッスルくんが、仮面舞踏会に出席していた時のこと。
この国の王子が仮面舞踏会に現れるとの噂を聞き、女たちはこぞって王子を探していた。
会場には100人ほど集まり、そのうちの1人が王子。
出席者は全員仮面を付けており、顔を見ることができない状況。
普通なら王子を見つけることは困難だ。
──常人を超えて発達した筋肉は他人の個人情報すらも読み取り可能となる。
マッスルくんは会場内にいる人間全員のマッスルメモリーを読み取ると、すぐさま王子の位置を特定した。
そして、王子までの最短距離間にいる人間を筋肉圧で吹き飛ばす。
「ヒッッッ……!!!!」
身長2m超えで、金髪のポニーテールをロープで縛っているマッスルくん。
そんなものを見てしまった王子は恐れおののく。
マッスルくんは淑女なので、貴族なりの所作は身についている。
だが、マッスルくんは使用人以外の男と話したことがなかった。
「……王子……」
「は、はい何でしょうか」
「………………………………………………」
マッスルくんは言葉が出ず、焦りで筋トレを開始した。
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
「王子!」
「は、はい……?一旦ダンベルフライをやめたらどうでしょうか……?
というかどこから器具を持ってきたんだ……?」
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふん!!!!!!」
「脳筋馬鹿!!!!脳筋馬鹿!!!!」
「!?!?!?!?!?!?!!?!?!?!?!?」
王子はきょとんとした顔をしており、状況が飲み込めていないように見える。
どこから"脳筋馬鹿"という声が聞こえたのだろうか。
「脳筋馬鹿!!!!脳筋馬鹿!!!!」
下の方から聞こえる。
「!?!?!?!?!?!?!!?!?!?!?!?」
──大胸筋が喋っている。
ダンベルフライにより成長した大胸筋が声帯を獲得し、マッスルくんを罵倒したのだ。
オーバーワークを理解したマッスルくんの心は、マリアナ海溝よりも深く沈んで絶望した。
マッスルくんは、オーバーワークによって成長した大胸筋から"脳筋馬鹿"と蔑まれるのが一番嫌いなのだ。
--
話はマッスル・シャトルランへと戻る。
「ベンチプレスでムキムキになって足が遅くなったようだな!!!脳筋馬鹿が!!!」
「私が脳筋……馬鹿……だと??」
大きく深呼吸し、空を見上げる。
「……いや、その通りだよドードー鳥。私は脳筋馬鹿だ」
マッスルくんは物凄い勢いで両手を合わせる。
……地響きだ。
両手の間に、空間の歪が現れた。
先ほどの広間で見せた、自身の99%の筋肉を代償に使用できる力。
「マッスルくん!!!!まさかそれは……!!!!マッスル・ブラックホール!?!?」
観客席から悲鳴が上がる。
マッスルくんは静かに言い放つ。
「……"脳筋馬鹿"と呼ばれるのが嫌いなのは自分の心の弱さを認めるのが怖かったからだ。
筋肉をムキムキに鍛えられても心は貧弱なままだった……ドードー鳥。キミとの戦いで心を鍛える大切さを学んだよ」
ドードー鳥は話を真剣に聞いているのか、無言でマッスルくんと並走する。
「だから……心の筋肉の成長の為!!”脳筋馬鹿”という、己を縛る枷を外さなきゃいけない!!!!」
──出現したマッスル・ブラックホールは万物の吸収を始めた。
反対側のレーンに到着したマッスルくんは、もう一度両手を合わせる。
両手の間に、2つ目の空間の歪が現れた。
「何ッッッ!!!!2つ目のマッスル・ブラックホール!?!?……死ぬぞマッスルくん!!!!」
「もうここで終わったって良い……心の筋肉……すなわち、Muscle Of The Heart!!!!」
「M!O!T!H!」
「M!O!T!H!」
マッスルくんの叫びに観客席が呼応する。
『M!O!T!H!』
『M!O!T!H!』
会場が、国が、世界が熱狂し、一体感に包まれる。
『M!O!T!H!』
『M!O!T!H!』
「マッスル・オブ・ザ・ハートッッッツツツツ!!!!」
マッスルくんは2つ目のマッスル・ブラックホールに吸い込まれた。
「マッスルくんッッッッッ!!!!!!!」
ドードー鳥は泣き叫び、会場全体は息を吞む。
マッスル・ブラックホールは依然として万物を吸い込み続けている。
吸引力に抗いながらなんとかシャトルランを続けるドードー鳥。
先ほどまでの熱狂は嘘のように静まり返っている。
そして、ハートの女王がマッスルくんの敗北を宣言しようとした時だった。
1つ目のマッスル・ブラックホールからマッスルくんが噴出した。
噴出した直後、空間の歪みへ再び吸い込まれていった。
「ナニッッッッッッ!?!?!?!?」
『M!O!T!H!筋肉馬鹿!!』
『M!O!T!H!筋肉馬鹿!!』
湧き上がる会場。
マッスルくんの生み出した2つのマッスル・ブラックホール。
それは対の性質を持っており、かつ、1秒に10〜50回程の間隔で性質が入れ替わっていた。
要するに、片方が吸い込み状態の時、もう片方は吐き出し状態となる。
マッスルくんはその性質を用いて、超高速で2つのマッスル・ブラックホールを往復し、3秒で40往復のシャトルランを終えた。
「ブラックホールに吸い込まれた物は……一説によると、ホワイトホールから出てくると言われている……つまりは宇宙空間を通るショートカット……!!」
事象を解説しつつ、感涙にむせぶハートの女王。
「……マッスルくんが40往復のシャトルランを終えたので、シャトルラン・マッスルバトルは終了だ」
マッスル・ブラックホールにマッスルくんが吸い込まれた時とは違う静けさ。
熱を帯びた静けさだ。
マッスルくんとドードー鳥が横に並ぶ。
モストマスキュラーで、アピールするマッスルくん。
悔しさからドードー鳥は涙を流している。
「勝者!!!!!!!!」
「………………………………………」
「ドードー鳥!!!!!!!!!!」
「……………………ムキ??????????」
「あたくせの……勝ち……?」
ハートの女王が続けて詳細を語る。
「マッスルくんは10〜40往復目までの、計6回のマッスルチャレンジをクリアしていない。先ほども申し上げたが、マッスルチャレンジをクリア出来なかった場合は即失格となる」
「ムキッッッ!!」
「よって、マッスルくんは失格!!!!反則負けだ!!!!…………処刑執行!!!!」
「なぜ処刑なんだムキッ!!!!」
「ドードー鳥との約束『マッスルくんが勝ったら白兎の場所を教え、負けたら死んでもらう』に則り、マッスルくんが敗北したため処刑とする」
「!?!?!?!?!?!?!?!?」
マッスルくんはハートの女王からの全身雑巾絞りの刑を受け、筋肉を全て没収された。
更に名前も没収された。
名も無き令嬢は、自身が自身である存在証明を失い、不思議な国を追放されてしまう。
現実世界へ戻り、お屋敷の中庭を歩く。
憂いを帯びた目で彩り豊かな薔薇を見つめ、ため息をつく名も無き令嬢。