【睦永 猫乃】担当パート
「っ!?」
その言葉は、首筋に這わされたナイフのようだった。私の背筋へ、白霜のような冷たさを細く走らせていく。
「ま、待って……?!」
だからとっさに叫んでいた。
くる、と再び私を見た彼女。
その瞳は期待にか見開かれ、口元に佩かれる笑みには悪戯っぽささえ滲む。
可愛いというよりは愛嬌のある、玲奈の顔立ち。なのに、その顔に笑みかけられる事が、こんな薄ら寒い感情を喚び起こす日が来るなんて、誰が思っただろう。
「……なーに、まなみ。もしかして、やっぱり描いてくれるの?」
藍色の靴下を履いた足がとてとてと近づいてくる。
私はどうにか時間を稼ぐつもりで、なにを話せば目前の化け物がこの小さな丸太小屋にとどまってくれるのか、小刻みに跳ね回る鼓動の隙間で考えていた。
「ね、ねえ、名前を教えてよ」
「え? ボクは玲奈だよ?」
「っ! それは、私の……」
幼少期から、昨日の晩まで。そして今しがたの、彼女の最期。
玲奈と過ごした時間が走馬灯のように走り、私の胸には悲しみとも絶望ともつかないやりきれなさが去来する。
「……私の、幼なじみの名前よ。そうじゃなくて」
震える声の裏には、苦い怒りも潜んでいる。あの子の名を、存在を、これ以上穢さないで欲しい。
その気持ちは、いつの間にか私を奮い立たせていた。少しでもこの化け物と対等の立場に上がりたくて、片ひざをつきながらゆっくりと起立する。
「『あなた』の、名前は? さっきまでミレナでいたのも、さっきの口ぶりだと本当はあなたの姿ではなかったんでしょ。かと思えば、今度は私の幼なじみを殺して摂り込んで、玲奈だって言い張ってる……。
……どっちも本当の名前ではないのでしょう?」
目を上げれば、同じ視線の高さには友人を模した何かの顔。
私が問うと、そのかんばせは言葉を発する代わり『まあ、確かにそうだね』とでも言いたげに肩を竦め、ゆるく微笑い返してくる。
形にならないまま押し寄せる感情で泣きそうになりながらも、私は続けた。強い思いだった。
「……ねえ、あなた、私が望んだら家族になってくれるって言ったよね。
――なら、お願い。私と家族になってよ」
「かぞく、に?」
とたん、化け物は急に見開いた目の中へほころぶような笑みを浮かべて、ぐにゃりと身体を波打たせる――――そうして生まれた波紋の境目からざわ、と生え出した白毛で、彼女は唐突にミレナの姿に戻った。
「……ほんとう? ほんとうに言ってるの?」
転がる鈴の音は面白がるようで、しかしどこか無邪気に喜んでいるようにも聞こえる。
「ええ、本当よ」
私の声は、涙声のようにゆるく震える。その揺らぎの裏に心にもない嘘を秘めて、大きく頷いた。
「……でも、きいて? 二人きりの家族なのに、あなたばかり私を『真波』って呼んで、私はあなたの名前を知らないなんて、おかしいじゃない―――」
知ったところで、まだ何の役に立つかはわからない。けれどここまでの言葉は全部全部、この質問に答えを貰うためだった。
「―――だから、おしえて? あなたの本当の名前……」
この化け物は、『私の名前をおしえてもらったから契約をした』と言っていた。つまり彼女の流儀で言うならば、相手の本当の名前を握ることには何か特別な意味が潜むに違いないのだ。
それは、あるいはこの化け物への対抗手段となり得るかもしれない。
「まなみ……」
すると彼女は生えてきた尻尾をはたり、はたりと左右に揺らしながら、私の耳元に息がかかる位置まで頬を寄せにくる。お日様の匂いのする毛皮に抱き寄せられると、怒れる意思に反して、私の身体の芯はまたざわりと甘い痺れを抱えだす。
これは、『契約』のせい?
それとも、この生き物のもつそういった能力のせい?
どちらにしても今はまだ耐えられる程度だ。
けれど、長く包まれていれば理性も忘れてこれの言いなりになってしまいそうで、やはり恐ろしい。
ぐっ、と奥歯をかんで耐えていると、耳許で囁きだした澄んだ響きには、どこか感極まったような震えが見え隠れしていた。
「まなみは……、まなみは、いい匂いがするだけじゃなかったんだね……」
肩まである私の髪を愛撫のように指先で漉きながら、愛おしげに顔を擦り寄せてくる。
「不思議だね。
カレナも同じことを言ったよ。
それでね、ボクに名前をくれたんだ。ボクの、ボクだけの名前」
――なんの色もない世界から来たボクに、あの子がつけてくれた、最初の『色』……。
続ける声でそう囁いてから、彼女はパッと身体を離した。両手はまだ肩を掴んでいる。
そうやって私の瞳を覗き込んでくる、薄青い二つの燐光。三つ口の口元は、狂気的にも思える幸福の表情に歪んでいた。
「……ああ、まなみはやっぱり、カレナの次にとくべつだよ……」
それを耳にした私は微かに顎を上げて、彼女に囁き返した。
「……私にも、そうだよ……」
紛れもない嘘だった。けれどいつの間にか、返した言葉には甘い疼きが染み込んでいて、自分でもどちらが本心なのか、一瞬わからなくなってしまう。
それでも、本懐だけは確かに忘れなかった。
「ねえ、だからお願い、名前を教えて……?」
二つの瞳をじっと見つめると、ミレナになった白くて細い指先からは、きゅっと甘えるような力が伝わってくる。
「いいよ、教えてあげる。ボクたちこれから、二人きりの家族だもの」
でも、と、彼女は……――いや、彼は続ける。
いつの間にかその上背は縮み、私が描いた白いセーラー襟の上から、幼気な瞳がこちらを見上げていたのだ。
その双眸の奥に潜む光が、闇にともる灯のようにぼうっと輝きを増しはじめる。
「その前にボク、もう一回まなみと"寝たい"なあ……。玲奈を描いてくれるのは、そのあとでいいからさ……」
しどけない、その吐息。聞こえてくる声は玲奈でありながら、けれど響く音の縁取りに、ミレナの声の涼やかさがノイズのように混じる。
「ああ、大好きだよ、まなみ……。
カレナには、勝てないけれど、それでも――」
直後再び、私の身体は主人の命令に従うのを忘れだす。
思考はうっとりと痺れ、手足を捥がれるかのように動きを止めはじめる。
それでも私は、最後まで残した人の尊厳で、気高く彼女を睨み付けた。
(……この、化物……め……――!)
――――"カレナ"。
昨日の夜も、さっきも耳にしたその名前。
彼女が放つ妖しい色香に身を委ねるほか道をなくしながらも、私は目前のこれが、その存在に特別な感情を抱くことを、確かに感じ取っていた。