【ウィズ】担当パート
玲奈の顔をした「それ」は、うふふ、と子供が悪戯を思いついた時のように無邪気に笑う。
「まなみに、ひどいことしちゃうかも」
その言葉が、凍り付いた思考を砕く引き金だった。
脳裏に焼き付いて剥がれない、先ほどの光景が鮮烈に蘇る。ぶくぶくと泡立つ肉塊、骨の軋む音、友人が命を終える最後の息遣い。床に転がった、見慣れた髪飾り。
次は、私が。私も玲奈みたいに……。
全身から急速に血の気が引き、まるで冷たい水に沈められていくように手足の感覚がなくなっていく。
それよりも、約束……。約束って、なんだった……?
思い出せ。この悪夢から逃れるための唯一の糸口かもしれない。思い出さなければ、私は……。
「思い出せない?」
玲奈の姿をしたミレナが、私の頬にそっと触れる。生きている人間とは思えない、ひんやりとした指先。その冷たさが、肌を通して魂まで凍らせるようだった。
「まなみは昨日の夜、すごく寂しそうだったよ。ずっと泣いてた」
その言葉と、すぐ間近で香る、あの抗いがたい干したての布団のような匂いに、意識がぐにゃりと歪む。視界が暗転し、昨夜の記憶が奔流となって、私の内に流れ込んできた。
◇◇◇
……薄暗い部屋の中。テーブルの上には空になった酒瓶が数本転がり、窓から差し込む冷たい夜気が、部屋の空気を静かに揺らしている。私は、そのテーブルに突っ伏して、声を殺して泣いていた。そんな私の髪を、月光を浴びて淡く輝く銀色の毛並みのミレナが、優しく、壊れ物を扱うように撫でている。
『……うぅ……ひっく……』
『どうしたの、まなみ? 苦しいの?』
『さびしい……っ。玲奈と会って、あんなに楽しくても、家に帰れば結局一人で……。この絵を描いてるときだけが、誰かと話してるみたいで……でも、完成したらまた一人になっちゃう……。この子みたいに、誰かが本当にそばにいてくれたら……なんて……馬鹿みたいだよね……』
私の嗚咽を聞きながら、ミレナは静かに微笑んでいた。その青い瞳が、暗闇の中で燐光のように妖しく光る。それは、こちらの心の最も柔らかな部分を見透かすような、不思議な光だった。
『……じゃあ、ボクがまなみの『ほんとう』になってあげる』
『え……?』
『ボクがずっとそばにいてあげる。もう二度と、寂しいなんて思わせない。まなみが望むなら、ボクが、まなみの家族になるから』
その言葉は、アルコールと孤独に溺れた心には、あまりにも甘美な救いの響きだった。まるで、乾ききった砂漠で差し出された一滴の水のように、心に染み渡っていく。
『……ほんと……? ずっと、一緒にいてくれるの……?』
『うん。でも、その代わり……』
ミレナの指が、私の涙で濡れた頬をそっと拭う。その仕草は、ひどく優しかった。
『まなみも、ボクだけのものになって? 他の誰も、もういらないよね?』
『……うん……』
『それから、ボクのために、ずっと絵を描き続けて』
『絵……?』
『そう。ボクね、まなみの絵が一番好きなんだ。だって……』
ミレナはうっとりと目を細め、まるで世界で一番大切な秘密を打ち明けるかのように、私の耳元で囁いた。
『まなみの描く絵は、すごく『美味しい』から』
◇◇◇
「——っ、ぁ……!」
思い出した。
そうだ、私は、そんな途方もない約束を、この化け物と交わしてしまったのだ。
目の前では、玲奈の顔をしたミレナが、まるで答え合わせに正解した子供のように、満足そうに微笑んでいる。
「ぜーんぶ、思い出してくれたんだね? まなみ」
絶望的な契約の全貌を思い出し、恐怖に染まる私の顔を見て、彼女は心底嬉しそうに続けた。
「じゃあ、さっそく始めよっか。ボク、ちょっとお腹すいちゃった」
彼女は寝室の方へ歩いていくと、そこに立てかけてあった真新しいキャンバスを指さす。
「まずは……玲奈ちゃんを描いてよ。さっき食べたばっかりだけど、あれはただの『素材』だから。まなみが描いた玲奈ちゃんなら、もっともっと美味しいはずだから」
彼女は玲奈の顔で、これから極上のご馳走にありつけるかのように、恍惚とした表情を浮かべる。
「ねぇ、まなみ。ただ描くだけじゃダメだよ」
「玲奈ちゃんのことを、いーっぱい考えて。初めて会った日のことも、一緒に笑った時間も、くだらないことで喧嘩した思い出も。嬉しかったことも、辛かったことも、ぜーんぶ、ぜんぶ、その絵に込めるんだよ」
「そうすれば、もっとに『ご馳走』になるから。もっと、美味しくなるから……ね?」
そう言って微笑む玲那の顔は、心の底からそう信じて疑わないような、無垢で、純粋な笑顔そのものだった。
恐怖に支配されながらも、私は生きるために、契約に従うために、イーゼルに向かわなければ、とぼんやり考えていた。しかし、腰が抜けて動けない。指一本、自分の意思で動かせないまま、ただ呆然と、友人の顔をした化け物を見つめることしかできなかった。
そんな私を見て、ミレナはつまらなそうに、ぽつりと呟く。
「あーあ。まだダメかぁ」
彼女はこてん、と首を傾げると、にこりと笑って言った。
「仕方ないなぁ。じゃあボク、ちょっと小腹もすいてきたし、お散歩してくるね。ちゃんと『ご馳走』、描いて待ってるんだよ?」
彼女は軽やかな鼻歌まじりに、玄関の扉へ向かう。そして、ドアノブに手をかけたまま、残酷な一言を付け加えた。
「何かおいしいの、他にいないかなぁ♪」




