【睦永 猫乃】担当パート
薄青く輝くその瞳には、きっとなにか幽玄の魔力を宿しているに違いなかった。その双眸に見つめられると心も思考も吸い取られていくようで、どうしてか恍惚とした思いに捕らわれてしまう。
動けない――いや、動くことを忘れた私に囁きかけるミレナの声は、朝露が煌めく庭の緑のように明るく涼やかでありながら、朝もやの孕む秘密のようにしっとりと密やかだった。
「――……まなみ……」
首筋にそっと触れる羽根のような息づかいで名を呼ばれると、心の芯が勝手に甘やかな痺れを覚えだす。
「まなみって、やっぱり美味しそうな匂いする……」
けれど同時に耳穴を撫でる、その言葉のなかみ。
まだどこか正気を保つ私の思考の最後の砦が、動かない自分の頭と身体に警鐘を鳴らしている。
「まなみ、昨日ボクとなにをしたか、思い出してくれた? ちょっとボクの『お願い』が効きすぎちゃって、覚えてないとこもあるのかな?
――でもね、まなみはもうボクに名前を教えて、ボクと契約しちゃったから。
だから、にげられないよ……」
まって。お願い? 契約?
「なに、それ、は……」
「……だから『もらう』、からね?」
けれど話そうとした言葉は、ひなたの匂いを潜める笑みに唇ごと吸いとられて、それ以上は形を作れなかった。
こんなことが、あって良いわけがない。
彼女は、本当に、なに?
夢の現、酒に酔いしれ、私は、彼女と何を話した? なにを知った?
洩れる吐息のあわいに僅かに滲み出す甘さが、昨日の晩の出来事を、強い光が象る影の縁取りのように一際つよく蘇らせる。
でも、どういう経緯か彼女と『そうなる』前に、酔った私は確かにミレナの言う通りなにか――彼女となにか、言葉をかわしていた気がする。
――『カレナを探す………………ても必要……』
『だから……、……と契約……』
『ボクと契り……』
「――えへへへ、まなみ可愛い。まなみのこと、とっても気に入っちゃったんだよ、ボク。
……だからね、すごく好きだよ。カレナの次くらいに……」
ああ、でも、干し草のような柔らかな獣臭と、優しく囁かれる声に痺れてふわつく頭では、正しく思い出すことなど、考えることなど、なにもできそうにない。
回される白銀の毛並みの腕が、私の寝起きでボサボサの頭を優しく漉きながら撫でてくる。
けれどその、薄い繻子幕の内に囚われたような閉塞感は、突如その内側に反響した、安っぽい鐘の音が打ち崩してくれた。
――キン コーーン!
「真波ちゃーん! いるー?」
部屋の静寂を破るチャイム。声も聞き馴染んだもので、とっさにその声の主の顔が思い出された。
「はっ?!」
そしてその瞬間、まるで夢から醒めるように、私を絡め取っていた見えない鎖は、融けるように消えてなくなる。
「あっ、残念……」
動き出す身体。回りだす頭。
小さな呟きを描き消しながら、閉じた扉の向こうから声はまだ響く。
「ほらー、昨日あなたと飲み明かした竹馬の友が遊びにきましたよーっと?
……うん?
休みだからってまだ寝てんのかねー? にしてはなんか、魚の焼ける匂いがするな……。……ねーえー! まーなみちゃん! きいてよー、親戚の集まり、うちのお母さんの勘違いで今日じゃなくて明日だったんだよーー?! 杜撰だとおもわない? ひどくないー?」
このログハウスは1DK。ドアが薄いのと声の主が良く通る声質をしているせいなのとで、ドア越しでもなにを言っているのかよく聞こえてくる。ふざける彼女――幼なじみの玲奈が子供の頃からよくしてきた、変わらずに無邪気なウザ絡みだった。
耳をすませば、まだなにか喋っている。
「それになんか、私の朝ごはんもお魚だったんだけどねー、私とお父さんの分だけお皿ごと全部消えちゃってさー、いいシャケだったのに朝から散々……、ってそれはさすがに信じないかー……。
ねー、早くドア開けてよ真波ちゃーん」
きっと向こうは与太話として語っているだけなのであろう言葉の群れ。
けれど私は食卓のうえに取り残された朝食に目を落として、寒気のようなものを覚えていた。
それから狩人に気づいた鹿のような素早さで一瞬ドアの方へまた首を回し、ついで目前のミレナへと視線を戻す。
彼女に聞きたいことができてしまった。
しかし青い瞳をした白銀の美しい彼女を視界に納めると、私はそれよりもやはり優先しなければいけない問題があることにも気付いてしまう。
見ればミレナは、突然入った邪魔にひどく恨めしそうな顔をしている。
「んもーう。ねえ、お客さんだよ、まなみ……?」
それでも小声でそう話しかけてくる所をみると、解放してくれる意思はあるようだ。
それにはホッと安心する。私はおずおずと口を開いた。
「み、ミレナちゃん、ちょっと隠れててくれないかな……?」
喉からのぼってくる声は、私が思うより怯えて引き攣っている。すると当の本人は、不思議そうに首をかしげて、細めた瞳孔で私を射抜いてきた。
「なーに? 何でなの?」
「それは、そのね。ミレナちゃんみたいな生き物は、すごく珍しいから……」
だって、冷静に考えたらこんな訳のわからない生き物、正常な思考の人間が目にしたら腰を抜かすに違いないのだ。酔った勢いで受け入れてしまった私が言えた義理ではないのだけど、
「お願いっ、ちょっとの間でいいから向こうの部屋に……」
するとミレナは静かに私から視線を外し、開きっぱなしの寝室とを隔てるドアの向こう、部屋の隅に立て掛けられているイーゼルへと目を向けた。
私は趣味で油絵を描く。写実性の高いその絵は我ながらなかなかの出来映えで、一昨日描き上げたばかりの青い画面のなかでは、私が空想で描いた幼い少年が一人、セーラー服に半ズボンを履いてこちらに楽しそうに笑みかけていた。
「……わかった。じゃあ、ボクがこの姿じゃなければいいんだね?」
「……えっ……?」
そこで私が声を上げたのは、その瞬間に彼女の視線を追って目を向けたそのイーゼルの中から、私の描いた少年の姿だけが白く切り取られるように抜けて消失したからだ。
そして同時に、私のすぐ横にその絵と同じ服、同じ顔立ちをした少年が、どこかまぶしい光を孕みながら佇んでいたからでもあった。
「これなら、大丈夫だよね!」
その澄んだ声は、確かに今まで耳にしていた彼女の響きそのもの。
「真波ちゃーん、返事ないと空けちゃうよー??」
同時に、ついに玄関扉の鍵が空いていることに気づいたらしい玲奈が、軽妙にノブを回して家に上がり込んでくる。
しかし私にはその声すら遠く、セーラー帽を戴くその幼気な上背に目を見張ったまま、彫像のように固まってしまっていた。