【ウィズ】担当パート
「っ! ……違、う……帰るところはそんなんじゃ……ない!」
必死の抵抗の様な叫びを最後に、目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。
いや、違う。現実の音という音が急速に遠のき、景色はそのままに、私の意識だけが、まるで渦の中心へと吸い込まれるように、空間の裂け目へと引きずり込まれていく。抗う術もなく、私は名もなき奔流に身を任せるしかなかった。
ふと気づくと、感覚がない。まるで温度という概念すら無いかのようだ。
気がつくと、視界に広がるのは、知らない部屋だった。
窓も、家具も、何もない。ただ、鉛筆の線だけで描かれたスケッチのような、灰色の空間が無限に広がっている。粗いデッサン紙の上に描かれたような壁は、ところどころ線が途切れ、まるで誰かが途中で描くのをやめてしまった試作品のようだ。その部屋の隅で、ひとりの少女が膝を抱えていた。歳は十代半ばだろうか。色素の薄い髪が、その痩せた肩にかかっている。
「あなたは……誰?」
私は少女に問いかけ、触れようとした。しかし、私の口から音は出ず、触れようとした手は、少女の肩をすり抜けてしまう。そもそも、ここにいるのは私の身体ですらなく、ただの「視点」だけのようだ。少女がこちらに気づいている様子はまるでない。
彼女からは、底なしの孤独の気配が痛いほどに伝わってくる。
それは、昨夜の私自身が抱えていたものと、よく似ている気がする。まるで自分の事のように孤独を感じてしまう。
どうしてだろう。喉が、胸の奥が、締め付けられるように感じられる。
私はこの子を知っている……?
そんなはずはないのに、思考とは無関係に、一つの名前が脳裏に浮かんだ。
(……カレナ?)
その瞬間、少女が顔を上げた。
まるで私の心の声が聞こえたかのように。しかし、彼女の瞳は私を捉えてはいない。ただ、虚空を見つめているだけだ。不意に彼女はその小さな両手をゆっくりと前に差し出した。その動きは助けを求めるように、誰かを求める様に空中へと伸びる。
次第にカレナの体からにじむように小さな光の粒子が煌めいた。最初は、ほんの小さな光の粒だった。それはカレナ自身の胸元から、魂を削るようにして滲み出した光。
「寂しい、誰かと共にありたい」という純粋な祈りだけが集まってできた、か弱く、温かい光。
その光は、カレナの手の中で次第に形を成していく。
やがて生まれたのは、一匹の、白い子猫だった。ふわふわの毛並みを持ち、宝石のような青い瞳をした子猫。デッサンの中の世界に、初めて生まれたたった一つの「色」を持つ、生命。
――自分で生み出した、たった一人の友達。
カレナは、生まれて初めて見せるような、はにかんだ笑顔で子猫を抱きしめた。
子猫が「みゃあ」と鳴くと、灰色の世界に初めて音が生まれた。子猫が頬にすり寄ると、初めて温もりというものが生まれた。
そこからの光景は、まるで早回しの映像を見ているようだった。
二人はいつも一緒だった。
デッサンの中の、がらんとした部屋の中で、子猫はカレナの足元を駆け回り、カレナはそれを優しく見守る。カレナが指で床に絵を描くと、子猫はそれを不思議そうに追いかける。食べるものも、飲むものもない世界で、二人はただ互いの存在だけを糧に、時を重ねていく。
子猫は次第に成長し、その姿は少しずつ人の形へと近づいていった。猫の姿から、少しずつ手足が伸び、輪郭が人のそれへと移り変わっていく。
やがて、それは白銀の毛並みと獣の耳を持つ、美しい少女の姿になる。
少女は、まだ言葉を知らなかった。
ただ、カレナのそばに寄り添い、彼女が笑えば共に笑い、彼女が泣けばその涙をそっと舐めた。
ある日、カレナは、自分とほとんど同じ背丈になった少女の手をとり、その青い瞳をじっと見つめて言った。
それは、この世界で初めて交わされる「名前」だった。
「あなたの名前は、『ミレナ』よ。古い言葉で、『白のお姫様』っていう意味」
ミレナと呼ばれた少女は、その言葉の意味を理解したかのように、青い瞳をきらきらと輝かせ、初めて声を発した。
「みれ……な……ぼく……は……みれな!」
カレナは、そのたどたどしい響きを愛おしむように、ミレナを強く抱きしめた。
灰色の世界で、二人は確かに「家族」だった。