【白蛇】担当パート
「——家族になるってね、“分け合う”ことじゃないんだよ、まなみ」
滲む朝の光が、輪郭さえも曖昧に溶かす。
足もとに広がる影は皮膚と光のあいだに滲んだ膜のようで、その一滴から、細く、冷たく、無数の糸が滑り落ちる。
それは体温を持たず、しかし呼吸の律に寄り添いながら、床へ、記憶の奥へと沈んでゆく。
糸は呼吸の拍で震え、板目をたどり、椅子の脚を舐め、私の足首に触れず、触れた幻だけを残して退いた。糸の先端で、私が昨夜、たしかに自分の名を名乗った瞬間の音が——かすかな応答の反響として、舌裏に戻ってくる。
「ボクらにとっての家族とは、“混ざる”こと。もっと正しく言えば——“収める”こと、なんだよ」
その語尾のひと撥ねと共に、室内の温度が下がった。
酸素すら薄くなり、鮭の朱は輪郭を滲ませ、味噌の香は、どこにも属さない匂いへと退化する。
代わりに、干した布団と獣毛の、あの温度だけが舌の奥に戻り、甘い——応諾の味がわずかに満ちる。
怖い。けれどなぜか、美味しい。
ミレナ——いまは“何か”と言うべき存在——は踵を返し、寝室と居間の境へ膝をついた。指先で床を一度撫でると、表面が海藻のように波打つ。
ぽ、と。
床から泡が生まれた。灰緑の泡は一呼吸で半透明に肥大し、内側に霞む影の貌を人に寄せる。肩、首、髪。薄膜がぱち、とひび割れて、湿った破裂音とともに——椅子が現れた。
それは、木でもなく、骨でもなく、言葉の外にある素材だった。
背凭れの線だけが、かすかに既視をなぞる。けれど表面には濡れた皮膚のような光沢を滲ませ、まるで誰かの鼓動が封じ込められているかのように、ゆっくりと波打っていた。座面に細かな孔が無数に開き、その縁々に微細な歯が並び、風もないのに一斉に擦れ合って砂の音を立てる。その歯擦りの律動が、私の呼吸に合うたび、胸の内側に契約の糸が軽く軋む。
「いただきます、は祈り。——でも“ボクたち”にとっては違う」
“それ”は席の横へ、もうひとつ泡を置いた。
泡が割れて、今度は低い卓が現れる。卓面は臓器じみた艶をもち、打ち寄せる潮のように厚さを変えた。卓の裏から、規則的なとくん、とくんという鼓動が上ってくる。
「“いただきます”は、分配の開始じゃない。回収の合図」
声が一段、低く敷かれる。
卓の上で、ひとつの輪が開いた。井戸の口のように暗く、その縁に糸が集まり、輪の内側へ降りる階段を編む。
階段は、喉だった。
喉は、家だった。
「ボクたちは、食卓で輪になる。ボクたちは、自分たちを分けて食べる。食べながら、互いを補修する。欠けたところは新しい誰かで埋まる。だから死なない。だから増える。だから——」
“それ”は笑った。玲奈のえくぼに、ミレナの唇を重ねる。
笑いの母音が、私の名の母音に合致した一瞬、喉奥の疼きが甘く跳ね、膝の力が半歩だけ抜ける。怖気と恍惚が同時に点る。
「家族になるってことは、ボクの中の“細胞席”に座って貰うってことなんだよ? まなみ」
席。
その語を合図に、寝室から血の匂いがまた、わずかに濃くなる。
床に転がる髪飾りが、誰の手でもない指に摘まれ、操られるように卓へ載った。飾りの金具に付いた血が、蜜のように糸へ垂れ、糸はそれを啜って、指の節へと変換する。節が生まれるたび、室内のどこかで「おかえり」という声が微かに響いた。その声は、名を呼ばれた者の反射に似ていて、私の舌根が「ただいま」と形を作りかけ——私は歯でそれを噛み潰す。
喉の奥の熱が、逆流した。
吐き気ではない。もっと質の悪い、懐かしさ。
『ただいま』——子供のころ、夏の夕方に何度も聞いた声。母のものでも父のものでもない、家という抽象の声。あれに似ている。あんなものが、どうしてこの悪夢の中心にいるのか。
「やめ……て」
かすれ声で、私は言った。
喉がひりつく。膝が笑う。けれど立つ。
イーゼルの前、乾きかけのキャンバスが一枚、白い腹をこちらに向けている。その白が、卓の輪と同じ“口”に見える。吸いこもうとする白。
私は、白から視線を剥がすように、“それ”を見据えた。
「——“家族”って、吞み込むことじゃない……」
言葉を発した瞬間、舌の裏に金属の痺れが灯る。
それは契約の名残が、未だ私の中で抵抗している証。言葉を拒む歯が、内側から私の舌を裂こうとしているようだった。
“それ”は片眉を愉快そうに上げる。
「じゃあ、まなみの家族ってなに?」
「……帰れること。帰りたいと思えること。名前を呼べば、返事があること。——“席”は、身体の中じゃなくて、食卓の、この椅子の上にあるの……」
自分の声が、意外にはっきりしていた。気の核心を、言葉にして初めて掴めたみたいだった。
私は、卓の横に産み出された、脈打つ椅子から半歩退く。
“それ”は、私の退避を責めもせず、ただ糸を編んだ尻尾を机の脚へ巻く仕草を真似て、微笑んだ。微笑に合わせ、私の脈も一瞬だけ追従する。吸い寄せられる。怖い。離れがたい。
「わかった。じゃあ——お試し、しようか?」
その瞬間、“それ”の頬が玲奈から少しだけ外れ、ミレナでもない輪郭に、ふと戻った。
薄い氷の下の水のような素顔。名を持たない貌。
青の燐光が瞳孔の中で点り、それが合図になって、周囲の影から囁きが——正しくは、囁きたちの一斉の吸気が——立ち上がる。
「おかえり」
「おかえり」
「おかえり、カレナ」
「おかえり、ミレナ」
「おかえり、れいな」
「おかえり、おかえり、おかえり」
名前が混ざる。
どれが誰で、誰がどれに入ったのか判別できない。
ただ、その呼び声のたびに、“席”の孔がわずかに開閉し、微細な歯がぬらりと見え、板目が脈動に合わせて膨らんだ。返事をしたくなる衝動が波のように押しては退く。契約が舌を引く。理性がそれを押し返す。拮抗は甘い痛みになる。
「“席”は、痛いの?」
自分でも驚くほど素朴な問いが、唇を抜けた。
“それ”は、ほんとうに嬉しそうに目を細める。
「最初だけ。甘噛みだよ。ね、試してみる? ボクの中の家族たちが、まなみに席を空けてる。ほら——」
卓の輪が、ひとつ分だけ広がる。
その拡がりの縁に、玲奈の笑い癖が、柔らかな母音の色として泡立った。
泣きそうになる。
私は唇を噛んで、目を逸らさない。噛んだ血に、昨夜の口づけの味が重なり、怖れの芯に、小さな火が点く——近づきたい、という灯。
私はゆっくり息を吸った。吸気の終わりに、糸が柔く震え、目に見えない輪郭で私の“名”を撫でた。
怖い。なのに、呼ばれた場所へ戻りたくなる。
恐怖と引力が、同じ言葉で名づけられている。——“家族”。
輪の口が、呼吸のように開閉していた。
黒の奥からは、湿った風が吹き上がる。潮の匂いに似ているが、鼻腔の奥を撫でる甘さは血の味に近い。
膝が震えているのに、後退ではなく前進の震えになっていた。
一歩。床板の軋む音が、いつもより長く、深く耳に残る。——歪んだ気がした。壁の端、天井の継ぎ目。まるで吸い込まれるように、線が、輪郭が、少しだけ内へ沈んだような。
それは目の錯覚か、私の鼓動の拍に空間が寄せてきたせいか。確かめようと瞬きをしたけれど、次にはもう元通りだった。
けれど、部屋の気配だけが——少しだけ、違っていた。
家が、あらかじめ用意された器に戻っていくような感触。
契約の糸が、私の背骨をなぞりながら、静かに導きを強める。まるで、見えない誰かの手が、私の体の奥から“ただいま”を言わせようとしているみたいだった。
——お願い、止まって……
頭で叫んでも、喉から出るのは呼気だけ。返事をしたい衝動が、舌を裏返しに縛っている。
「……なまえ」
ようやく掠れた声が漏れた。自分でも意図が曖昧だった。呼ばせたいのか、呼びたいのか。けれど唇は勝手に続ける。
「名前を……教えて」
影の合唱が一瞬だけ黙した。
代わりに、目の前の“それ”が細く笑う。瞳孔の青白い光が収束し、私の瞳の底を照らす。
「まなみ——契約は、とっくに終わってるよ。
君が名を求めるのは、知りたいからじゃない。——帰りたいからだろう?」
輪の縁の歯が、いっせいに軋んだ。
その響きは「どうぞ」と言っているようで、私の足がさらに半歩進む。
床の板目が沈み、床全体が緩やかな喉の蠕動を始めていた。
「……名前を」
自分でも止められない。
穴に近づくたび、恐怖が甘く反転して、知りたいという欲に変わる。
“喉”も“席”も、すべてがひとつの“巣”だった。——帰るために編まれた、名もない容れ物。
“それ”は唇を寄せ、吐息を私の耳へ落とす。
「ボクの名は——“巣”。集めて、収めて、住まう、“巣”」
その囁きに孔が呼応するように吐息が吹き上がり、髪が吸い込まれる。
胸のうちで、何かが鳴った。胸の奥の鐘がひび割れ、そこから甘い熱が漏れ出す。背骨の奥で、微かな甘熱が芽吹いた。ひとつずつ、椅子の歯が私を覚えてゆく——そんな錯覚。
“席”の歯がいっせいに擦れ、「す」、「す」、「す」と囁く。
「けれど、まなみが呼ぶなら“住処”でもいい。帰るところ、という意味でね」