手漕ぎ船の男
どこまでも広がる紺碧の空の下には、見渡す限り一面、空の彩りを映す濃藍の水があった。
しっとりと白霧の立つ水の上には、一葉の手漕ぎ船。
船尾には、細く長い棹を携える、ひょろりと背の高い男の姿。
ゆるやかに流れる水には細やかな漣が立ち、たぽん、ぴしゃん……と、船側にあたる。
漣の唄に合わせて、男を乗せた小舟は、ゆらゆらと揺れる。
すぃ……と。
透明な濃藍の水に棹を差し込んだ男が、船の軌道をわずかに変えた。
船首の定められた先には、水面を浮き沈みする、ほのかな光を湛えた円いものがあった。
ほんの少し先を流れる小さな灯りに向かって、男は、するすると舟を進めた。
灯りのそばに船を近づけた男は、棹を使い、水面に浮かぶ円いものを手繰り寄せる。
それはまるで、光を灯す洋燈のような……。
薄硝子にも似た、小さな球体だった。
球体の放つ光がやんわりと水面を照らすと、水面に立つ漣がそれを散らし、幽かな水光が船側に映し出される。
男は屈んで手を伸ばすと、光の珠を掬い上げた。
両掌に乗せて、そぅっと覗き込む。
目を射ることのない儚い光の中に見えるのは、くたびれて薄汚れた、茶色の犬のぬいぐるみ。
迷子の子供を相手にするように、優しく。
「みせてごらん」
男は囁く声音で、ぬいぐるみに語りかけた。
声に呼応するかのように、ぬいぐるみを包む光が一度、強い輝きを放つ。
光に浮かび上がるのは、綺麗な青色の細いリボンを掛けられた、ふわふわの真新しい犬のぬいぐるみ。
色鮮やかな絵が、次々と移り変わってゆく――。
笑顔を弾けさせた男の子が、ぬいぐるみを胸に抱きしめて、頬ずりをする絵。
男の子が躓いて転び、腕に抱えられたぬいぐるみが、ぺしゃんこになる絵。
食事を摂る男の子の食べこぼしが、男の子の膝に座るぬいぐるみの頭上に降ってくる絵。
男の子のお気に入りのバックパックに詰め込まれて、一緒に遠くまでお出かけする絵。
並んでベッドに入り、眠りに就いた男の子の、安らかな寝息を間近に感じた時の絵。
一枚、また一枚と浮かび上がっては消えてゆく絵は、どれも、ぬいぐるみにとって、ひどく懐かしいもの。
かけがえのない、大切な思い出だった。
絵の中で、男の子は段々と大きく成長してゆき、ぬいぐるみは少しずつ汚れて、ぼろぼろになってゆく。
そして、男の子がぬいぐるみと遊ぶ絵は、徐々に減ってゆく。
けれど、ぬいぐるみは、常に男の子の近くにあった。
最後の絵は、机に向かって勉強する少年を、少し離れた棚の上から見守るもの。
すべての絵を見終えた男は、ぬいぐるみの収まる球体を慈しむように撫でて、頷いた。
「ああ……、大事にしてもらったんだね」
涙の海から掬い上げてもらい、ぬいぐるみは、男から言葉の魔法をもらう。
……そう。
成長した男の子のそばに、居られなくなっても。
ぬいぐるみは、男の子に話しかけられた時の声や、撫でてくれた小さな手。ぎゅぅっと抱きしめてくれる腕の感触も、ぜんぶ覚えている。
自分が役を全うしてここに来たのだと、ぬいぐるみは誇らしくなった。
胸を締めつけていた切なさや悲しみが、するりとほどけて、布と綿でできた身体が、あたたかな空気で膨らむように感じた。
たっぷりの愛情をそそがれて、たくさんの思い出をもった『もの』には、心が宿る。
たとえ形を無くしてしまっても、幸せな想いに包まれて空へと昇ってゆける。
男はゆっくりと立ち上がり、ぬいぐるみを包む光の珠を、紺碧の空へと高く差しだした。
「おゆき」
男の言葉に翅をもらい、光の珠は、ふわりふわりと軽やかに空へと昇ってゆく。
空の遥か高いところに留まり、きらりと瞬く。
ぬいぐるみは、紺碧の空を彩る小さな一番星になった。