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レッド・ポイント  作者: satoh ame
38/38

credit 38 硝子学


 精神の余力がゼロに近い。思考に纏まりがなくなっている。「浮遊病かも……」

 遠くに見えていた建物は、やはり聖堂のようだ。四角い外観に、ふたつの尖塔。花圃かほに彩られた庭。狙撃向けのバルコニーなどはなく、異質なほど美麗なステンドグラスは、おそらく嵌め殺しだ。

 ユイはそっと正面の大扉に歩み寄った。真新しい銃痕があり、鍵が壊されている。

 敵が中に入り込んでいることは想像にかたくない。どこから攻めるべきか。

 投げ遣りな覚悟で周囲をうろついてみたが、危うい感触はなかった。天井の高さから推測すると、目線の届く位置に窓がないのだろう。変な尖塔もあるけれど、相当身を乗り出さなければ、聖堂の外壁沿いに動いている者を狙いにくい構造だ。

 裏の通用口を確認した後、正面まで駆け戻り、庭で拾った煉瓦を扉に投げつける。

 敵は攻撃の気配に反応し、すぐさま手榴弾を放ったらしい。その流れが音でわかった。

 爆発を待たず、急いで裏口へ走る。ナイフの柄で激しく叩き、古びたドアノブごと錠を葬った。風に咎められても、信仰のない生き方を貫く胸には響かなかった。

 打撃の振動で右肩の少し下が痛む。利き腕を負傷したのはまずかった。肉の抉れた部分をハンカチで縛ってみたが、そう長くは抑えられないだろう。しかし今の段階で、移動経路に血痕を残すわけにはいかない。


「……涼しい」暗い館内には廊下が延び、左右に物置のような小部屋がある。

 不意に現れた厳つい扉を押し開けると、聖堂の中央部に出た。ステンドグラスから淡く光が射していて、静寂に映える青い影が美しい。慈悲深い雰囲気の像が佇んでいるけれど、流血沙汰を叱られたくない立場としては、ミシェルに縋った方が安全だ。

 吹き抜けの縁にあたる部分に、2階&3階の通路が見える。

 下にみはりを置いていないので、敵はひとりなのだろう。ささやかな靴底の軋みから、2階の東側に潜んでいることも予測がついた。

 ステンドグラスに透ける早い朝。音の余韻が重くしめやかで、遠い日の幻想みたいだ。ここではきっと、目に見えない何もかもが高らかな天井に溶け、やがて無になる。

 石造りの螺旋階段を上る途中、投擲に使えそうな鋭い燭台を見つけた。背伸びをしながら緩んだ螺子ねじごと揺らしてみる。

 刹那、楽譜にない倚音いおんが聖堂内に跳ねた。「冗談でしょ……?」

 嘆息するいとまもなく贈られる手榴弾。

 微妙に焦ったが、たぶん途中で秒限を迎え、階段の半ばまでは転がってこない。螺旋の渦に救われた。逃げれば高所から狙撃される。行くしかない。

 炸裂の直後、残りの段を一気に駆け上がる。敵は殺傷系を使い切り、硝煙手榴弾と契約したらしい。悪戯に発砲しないことから推測すると、弾薬を温存したいのだろう。余裕がないのはこちらも同じだ。

 2階に到達する間際、通路で銃を構えているはずのアルジラ兵に燭台を投げた。

 煙の奥に浮かぶ人影は、発砲体勢を崩して顔を庇っている。

 捨て身で価値のあるダメージを与えたい。少しでもレザールに貢献すべきだ。

 全力の疾走で間合いを詰め、乱暴に奪い取ったショットガンを手摺の外に叩き落とした。

 ナイフで急所を狙ったが、すでに薄い甲冑で守りを固めた女兵士に手首を握られている。

「貴様、レザールの戦員か? 答えろ!」

 偉そうな怒声の大反響に耳を塞ぎたくなる。「そっちが先に名乗って。誰?」

「私はアルジラの隊長、ハビだ」

「ハロルの士官学生。名前は惟。加戦したから殺し合いは想定内」

「子どもだな。まるで哀れな家出少女だ。降伏すれば見逃してやってもいい。どうする?」

 束ねた長い金髪にまで野性味を纏う大柄な女だ。見た目で舐められていることに微かな怒りを感じる。一方的に人を蔑むのはアルジラの習癖なのか。

「従うはずないでしょ。そっちが降りたら?」

 敵の指が腰の短剣に伸びる。

 咄嗟にマウンテンパーカのポケットから銃を掴み出した。

 次の瞬間、腹部を膝で蹴り飛ばされて意識が揺らぐ。手から離れ、石の床を転がるハンドガンは、彫像と壁の狭間で押し黙る黒いかげに食われた。

 これからとどめを刺されるらしいので、立ち上がらずに最後のチャンスを待つ。

「降伏しなかったことを後悔しろ。派手な格好をして、頭も悪そうだな。可哀想に」

 剣先を振り翳されたのと同時に身を起こし、隙のできた女の左脇にナイフをうずめる。装備が頑強で、首や胴は狙えなかった。「油断しすぎじゃない?」

 声なき悲鳴を上げ、致死の激痛を庇った敵の右手首を切りつける。

「学生に敗けたくないなら全身鎧で覆ったら?」

 反撃を警戒していたが、女はすべてを捨て去るように走り出した。

 深く抉ったので、左腕も、右の手先も不能に近いだろうが、ショットガンを拾うつもりなら阻止しなければ。自分の銃を諦め、螺旋階段を駆け下りていく後ろ姿を追った。

 乱れて響く、ふたり分の靴音。やはり女は己の武器を取り戻そうとしていた。規則的に並ぶ長椅子の隙間に身を屈め、苦悶の息を発しながら手を伸ばしている。

 装甲が邪魔で背後からは仕留めにくい。「今すぐ撤退して!」

 求めていたものを掴み、直立しかけた女に渾身の勢いで体当たりをした。横倒しになった甲冑を仰向かせる間際、唐突に開く正面の扉。軍用ブーツの独特な音でアルジラ兵だと察し、再び強奪した長銃の散弾を侵入者に射つ。聖なる魔法で偶然当たったようだ。

 女は上体を激しく暴れさせて拘束を逃れ、ショットガンを蹴って裏の扉へ駆けていく。

 僅かだが銃身が曲がっているので射殺は無理だ。暴発する。

 聖堂中央部を離れるまで、白い女性の像とは一度も視線が交わらなかった。

 向かう先は、照らしてはいけない血まみれの街路だ。

 自由を選んだ薬指から愛の文字列がほどけていく。

 それでも、悲しみを巡る出会いの中で、擦り傷だらけの脆い身体を抱き留めずにはいられない。

 胸に預かった温もりの儚さは、死処ししょす硝子の傘に似ている。



                                 credit 38 end.

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