credit 37 屈折学
疾走中、ガードレールの角に衝突し、脚を擦り剝いてしまった。怪我をするのが怖くなるように仕込まれていて笑える。幼い子どもみたいだ。
惟は身を屈め、膝横に滲む血を上着の袖で拭った。
植物園から発信された情報を鑑みると、やはりあの女が隊長なのか。距離はあるが、敵影は今も視界に入っている。残存兵に狙撃されるとまずいので、しばらくは枝の鬱陶しい木立を進むしかなさそうだ。
「この服……」赤い布地に白のペイントが過激なマウンテンパーカを、4人でお揃いにしようと言い出したのは右クリックだ。理由はたぶん、死なないから。姿を隠す必要もなく、命を雑に扱えるので、『sakebou midnight』の派手な上着を選んだ。そうだとすると彼は、悪夢を怖れていないことになる。もう諦めてしまったのだろうか。
深手を負った一部の不具合品たちに、魔女はとても冷酷でやさしい。
微かに無線の交信が聴こえる。前と後ろだ。追跡がばれて挟まれたらしい。早く終わらせたい一心で、自覚以上に気が逸っていた。
大樹の陰に屈んで辺りを見回す。自分の内面に似た、物憂い黒の配下だ。マスクの捕吏が援護の名手でも、枝葉の覆いが邪魔で、あの丘からは撃てない。
草を踏む音が近づいてきた。半身に等しいナイフを握る。
先に間合いに入った方を仕留めるべきか。ここで戦闘不能になったとしても、その時点でレザール島が終わるわけではない。どうせ些末な士官学生だ。捕吏の仲間に加えて貰えただけでも感謝しなければ。
左右から挟撃される、と覚悟した直後、徐に髪を掴まれた。
スキンヘッドの男が至近距離で怒鳴ってくる。「何をしている! 殺されたいのか!」
「おい、乱暴に扱うなよ」と別の兵士。「お嬢さん、捕吏に憧れてるのかい? ばかだね」
忽ちおぞましい力で地面に引き倒された。身体の重みと草の匂いで気分が悪くなる。すぐに致命傷を与えてこないのは、自分たちに害を為すことのない生きものだと侮っているからだろう。「『放して!』って叫んでほしい? 断るけど」
「島の学生か? 貧弱なくせに人殺しより冷めた目をしてるな」
スキンヘッドに髪の根元を握られているせいで自由が利かず、判定は窮地だ。
「レザールじゃなくてハロルの学生。殺ってることは否定しない」
せめて手首を切りつけてやろうと意志を固めた刹那、スキンヘッドが屈んだまま頽れた。原因は不明だが、残る敵は1体のみ。咄嗟に身を起こし、驚愕の面持ちで突っ立っている男に肉迫する。素早く顎の裏に刃先を叩き込んで乱暴に抜いた。
相手は無駄な反撃を試みているのか、こちらの襟元に手を伸ばしてくる。それを左腕で払い除けた。「『こんな小娘に……!?』みたいな顔しないで。戦ってるのはわたしも同じ。ばかはあなたたちの方。いい加減にして」
兵士は草叢に仰臥したきり動かなくなった。殺したので当然だけれど。
周囲は無音だ。雲が流れ、僅かな明かりが射したせいで、遠く走り去る男の背中が見えてしまった。大学の敷地内で逃がしたアルジラ兵だ。こちらは謝恩など求めていないのに、人間っぽい義理堅さが疎ましくなる。そう感じるのは、惇い生き方をしている者を見て、先を越されたような気分になったからだ。彼が先輩に会えても、会えなくても、どこかで平凡に暮らしてくれたらいい。二度と話をすることはないだろう。これからはきっと、別れの合図ばかりになる。
横臥したスキンヘッドを観察する。後頭部に深々と刺さったアイスピック。民家もしくは店の厨房から盗んだようで、随分と古く擦り減っている。「助かった。ありがとう」
距離があいてしまったが、再び木立を駆けた。
丘ではない方角から、ライフルの高らかな笑声が響いてくる。覗いたアロゥの画面には、『退屈だから参加するね』と右クリック。
なぜか普段より、腕の立つ仲間の存在が心強く感じる。通信内容に目を通すと、ミシェルと良嘉は西の拠点に戻って巡回に加わったらしい。
『リーダーっぽい女は残しておく? 仕留めたら単位貰えるかも 惟に任せるよ』
返信は必要ないようだ。アルジラの重役を始末すれば、中央司令部への特攻も防げるだろう。昼頃までにはハロルに帰れるかもしれない。精神の余力は2%以下だ。
額の汗を拭いながら変な枝のあいだを抜けると、断崖の上からレザールの海を一望できた。まだ水平線の辺りしか明るくないが、波も少しずつ凪いでいる。しかし応援の到着を待てるような状況ではなく、放棄&離脱を選択するつもりもない。
進行方向の路上に、頭部の欠けたアルジラ兵が横たわっている。ほぼ間違いなく右クリックの仕業だ。パジャマ姿の甘えた声からは想像しにくいが、戦場では独特のセンスを発揮していて面白い。周りと違っても、命にはそれぞれのよさがある。
遠方に佇んでいるのは聖堂だろうか。岬に似た地形で、他に目立った建物はない。現在走っている車道は、右も左も傾斜のきつい密林だ。下へ向かう鋭利な谷のようになっていて、身を潜められる勾配ではない。
葉の群れが途切れ、景色がひらけてきた頃、風の不穏さに自ずと足が止まる。
どこからか狙われていることを察した瞬間、枝の軋みで位置がわかった。敵は前列の喬木に登ったらしい。強い緊張下で発砲した銃弾と、上から放たれた何かが交わる。曖昧な夜の縁に閃光が散った。「もう1回……」
体得していなかったはずの追撃で、敵は幹に凭れたまま死んだようだ。
こちらは残念ながら、砕けた金属片か何かで腕の上部を引き裂かれている。蹲って救助を待つほどの傷ではないが、右肩に近い場所から温い血が湧き出した。
くだらない命だ。自分の中に取り留める価値を見つけられない。
次はグラタンか入浴剤にでも生まれたかったのに、それすらも叶わないらしい。
あのとき、魔女に出会う前に殺してしまえばよかったと思っている。前を向けず、些細なことで灯りを消す自我のすべてを。
暗闇に死の面影を晒したとき、手の平に置いた憬と跋が正しい重さになる。
credit 37 end.




