credit 35 胸間学
中央司令部への招集に応じ、良嘉はスクラブ男の運転する車両で現場に向かった。医療スタッフとして呼ばれた彼にハンドルを任せたけれど、暗闇に閃く猛禽のような瞳と横顔からは、微塵も感情が読み取れない。
乱立する樹木の狭間に物憂い車道が延びている。捕吏の話によると、島の中央にある図書館の地下が司令部の本拠になっているようだ。
「止まらないんですか?」
「感染らねえよ。嫌なら降ろせ」袖で鼻血を拭っていたことに気づかれていたらしい。店の屋上で惟を抱えた際に食らってしまった。棟の職員が、徐毒液で洗った服を乾かしてくれているあいだにシャワーも浴びた。「走れる距離だ。好きにしろ」
預けてきた惟は無事だろうか。濡れたように潤った髪の残像が、腕の内側で素っ気なく揺れている。酷い血でわかりにくかったけれど、眠りながら死んでいたかもしれない。
道の左側に大きな川が流れている。右は崖の崩落を堰くコンクリートの壁。
しばらく進むと、対向車線に不自然な土嚢が積まれていた。こちらの行く先には奇妙な獣が横たわっている。「何だ、あれ。シカだよな……。アルジラ兵の妨害工作か?」
「動物パークはここからかなり離れていますよ。気味が悪いですね……。若干掠りますが、できる限り避けて通過しますか? 致命的な故障はしないと思います」
双方に1車線ずつの細い道だ。樹と壁で左右にも余白がない。「このまま行ってくれ」
呵責を払うように加速する車体と、視覚が捉えた違和感。
幻だったら笑えないが、薄茶色の胴の下から黒いプレートがはみ出している。汗の絶叫が警告に変わった。「訂正する! 停まれ! 地雷だ!」
やはり罠か。運転席に手を伸ばし、咄嗟に川の方へハンドルを切る。
「また事故かよ!」秒速約1.5mで斜面を転落していく衝撃に思わず目を閉じた。
ほど近い水面のせせらぎが死の序奏にしか聴こえない。スクラブ男の乾いた呻き声で、沈没を免れたことだけは確認できた。
「学生さん、意識はありますか……?」
「そっちは大丈夫か?」おそらくアルジラ兵の中に『罠の会』のメンバーが紛れている。気づくのが遅れたのは自分の責任だ。焦らず後退して、別の道を行くか徒歩に切り替えれば車両の犠牲も防げた。「申し訳ない。俺の判断が悪かった」
「そんなことはいいので脱出しましょう。車はもうだめですね」
回転したせいで、こちら側のドアが底部になっている状態だ。凹んだ扉と座席の暗がりに右腕が挟まっている。簡単には抜けそうにない。
「ひとりで出ろ。雑な動き方したら川に落ちるぞ。俺は無理だ。早く行け」
辛くはないが、運転席に背を向けた体勢のまま囚われ、振り返ることすら難しい。
男は医療用ペンライトと思われる鈍い光で車内を照らし始めた。
「それはできません。潤滑油の代わりになるものを探しましょう」
グローブボックスから野生の変なローションが飛び出してくるはずもなく、絶望一色だ。
鞄を開く不吉な音が生々しく響いている。
「腕切り落とせって意味か?」その通りですと刃物を握らされたら、自分は従うのだろうか。真人間ではないので、多少の痛みは喜べる感じでいたいけれど。
「学生さん。落ち着きましょう。投げ遣りになっても解決しませんよ。……上着の袖を切ったら抜けませんか? 試してみるので動かないでください」
「言われなくても動けねえよ。挟まってるだろ」
男が危うい車内で身を乗り出し、シザーのようなもので肘上の布を殺害している。続いて鋭利な指が、隙間に器具を強く挿し入れた途端に腕が抜けた。痺れている感覚が遠い。
「骨折はしていませんね? とにかく急ぎましょう」
解放された身体で振り向くと、スクラブ男の金髪が乱れ、医者というより手負いの豹のような有り様だった。礼を言うタイミングを逃したことを、いつか必ず後悔する。
切り離された袖はすぐに回収できた。「ハサミはいいのか?」
器具を引き抜こうとした瞬間に厳しく制止され、触れかけた手を下ろす。
「師の形見のペアンですが、余計な振動を与えてはいけません。置いて行きます」
「婉曲的に責めてるだろ」自分のささくれた暗い声に耳を塞ぎたくなる。「罵れよ」
乱暴な言葉で突き放したはずの男に導かれ、天井の位置にある運転席側のドアから這い出した。運よくフックに似た角度の樹に救われたが、車体が傾いでいて、今にも川の餌になりそうだ。
芝生の斜面を駆け上がり、鹿の地雷を越えた車道脇で立ち止まる。次第に足元のアスファルトが沈んでいくような不安に襲われ、枯木の傍らで跼った。
「縫合するので上着と袖を渡してください。……どうかしました? 西棟に戻りますか? 心療系は専門外ですが、複雑性のあれか広場恐怖でしょうね。掖に迎えを頼んでみます。手の施しようがないので1秒でも早くハロルに帰ってください」
器具のことで恨まれているのは確定だ。自分が弁償すれば『学生の形見』にはならないが、冷たく断られるだろう。「引き返さなくていい。人数増やさないでくれ……」
男が不意に、スクラブの上に着ていた白衣をこちらの背に掛けてきた。態度と行動の矛盾を警戒したくなる。肩に置かれた手は払い除けた。
「あなたはこれからも、他人と敵を同じ枠に入れて生きていくんですか?」
「知りたいなら切り裂いて調べろ。俺はもう、まともな人間じゃない」
夜の草叢から懐かしい匂いがする。誰かがゴミだと蔑んで捨てた花火を拾い上げたとき、そいつが無言のまま最後の力を振り絞るように光を放ち、闇の中で死んでいったことを思い出してしまった。憧れにも、悲しみにも振れない何かが胸の奥でざわめいている。
魔女に助けられた代償として、差し出したものがあまりに大きい。しかしあの日、悪戯で足首を撃たれた自分が、煮え滾るような怒りを抱えながら綺麗に終われたとは思えない。
学生になって以来、招かれた家で眠ったのは一度きりだ。本当は魔女に『救う価値がある』と励まされた気がして、勧められたベッドの温もりが嬉しかった。
記憶は命のすべてだ。
疎かではない夜を越え、またひとりで歩き出そうとしている。
credit 35 end.




