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レッド・ポイント  作者: satoh ame
33/38

credit 33 人血学


 過去に戻れるはずはないので、夢だということは初めから理解している。これは前の寮のベッドだ。ユイは身を起こさず、指を伸ばしてサイドテーブルの置時計に灯りを点けた。横向きに外れ落ちた短針が、真下をさした長針に重なり、奇妙な十字架をえがいている。日付はあの前夜だ。

 実地訓練は理由をつけて欠席し、密かに待ち伏せて襲撃犯を襲撃すると決めた。上手くいけば部隊全滅の惨劇を回避できる。「どうせ夢だけど……」

 寒くはないが、Tシャツとショートパンツで眠るには心細い温度だ。嫌われ、拒絶されるために存在しているようなものだから、あたたかい方がおかしいことはわかっている。

 時計を消灯して目を瞑ったとき、手の甲に鋭い緊張が走った。部屋の空気に不穏な粒子が混ざり込んでいる。この寝室の他にはリビング&バスルームしかない。枕元に潜めているナイフを握った。異変と長く戯れていたら睡眠不足で辛くなる。

 耳を澄ませると微かな物音が聴こえた。感覚に従えば、侵入者の表は天井、裏はベッドの下。ふたりではなく、ひとりの肉体が前後に分かれているようだ。なぜそう確信したのかは説明できない。まるで不可思議の歪国だ。喩えるならトランプの表裏を、あるいは活動する命を、こわさず自由にわかつことができただろうか。

 気づかないふりをしていると、人影が窓の辺りでひとつになった。記憶に刻まれた忌まわしい輪郭。復讐に研がれた胸が襲撃犯の幻を見ているらしい。

「邪魔しないで。明日必ず殺す」

 動かない気配を訝しんで身体を起こした。それを待ち構えていたように、振り上げられた何かが左の大腿部を直撃する。斧かくわか。驚愕で声が出ない。

 おもむろに暴れ出す血の感触。暗闇で目を凝らすと、掛けていたブランケットごと左脚が切断されていた。急速に体温が低下していく。膝の0.1mうえを犯す氷点の極致。刹那、罵りながら突き飛ばしたくなるほどの痛みで思考が停止する。窮地だが、引っ張って変身するためのリングもない。

 痩せた男のシルエットが血に浸った布を払い除け、断ち切った左脚の足首を掴んで頭を殴りつけてきた。殺害目的なら、もっと確実な手段がある。ただの愚弄だ。

 迸る汗で貼りつくTシャツ。繰り返しの打撃を受けて、楯にした両腕が重く痺れ始めている。切断面の太い骨が当たり、ナイフを取り落としてしまった。

 夢があまりに鮮明すぎる。耐えがたい激痛で身が崩れそうだ。それでも、刺々しい教室や講堂に入っていくよりはましだと思えて、そのことがとても空しかった。

 額から伝う血が唇の隙間に逸れ、口内になまぐさい鉄の味が広がる。忘れてはいけない戦場の霜烈が脳裏をよぎった。敵の死体と硝煙の霧。陰鬱な傷痕。

 迷い込んできたグミ風の血塊を舌で押し出した。

「ここ、わたしの部屋……」唯一の安全基地を脅かされていることが堪らなく辛い。

 宿敵らしき者は凶器代わりの左脚を放り投げ、ひと言も喋らずにこちらの髪を握って廊下へと引き摺っていく。予測した通り、渾身の抵抗は容易たやすく無効化された。

 どこで判断を誤ったのだろう。夢だと軽んじたりせず、身体が無事なうちに仕留めればよかったのか。表裏、または前後に分離して壁を這う異形を始末する方法があったら教えてほしい。

 絨毯にこすれた肌が熱っぽく傷んでいる。止める術もなく、軽々しく失われていく自分だけの血液。脳に薄荷の入浴剤を注がれたとしか思えない清涼に寒気がした。たぶん今、死ぬという感覚を掴みかけている。

 深夜の寮は無口だ。状況は複雑だが、本来なら絶命確定の出血量にも関わらず意識は保たれている。脈打つ毎に左脚の断面で、手榴弾が爆発するような痛みは健在だけれど。

 しばらく引き摺られていくと、視界の奥にゆらめく橙色の輪を捉えた。誰かが階段を上っている。灯りを携えた学長が現れた直後、襲撃犯の影が再びふたつに分かれ、さほど厚くもない壁の中に消えていった。次にまみえたら、右脚もしくは腕のどちらかを切り落とされるだろう。悪夢から逃げ出さない限り、無能な敗残学生のままだ。

「惟……! 何があったのですか?」堅苦しいジャケットとタイトスカートを纏った学長が、目を見開きながら駆け寄ってくる。「まさか、自分で脚を? 狂ってるわ!」

「ご冗談ですよね……!? 違います! 明日の実地訓練は中止か延期に……」

「それはできませんよ。学園祭や発表会ではないのですから。あなたがその状態なら、『ふたりめの惟』に行って貰います」

「……どういうことですか?」

 学長が階段下を振り返り、高慢な仕草で手招きをした。「来なさい」

 音も立てずに登場した制服姿の自分に絶句する。まともな生きものには見えなかった。

「惟。脚を治療して、明日は調理室に。戦死した学生を細かく潰して人間ビスケットを作ります。あなたはその手伝いをしなさい。座っていてもできる作業です」

「いかれてる……」死者に対し、これ以上ないほどの侮辱だ。やめてと叫びたいのに、痛覚の刺激が強すぎて意志を笑納したくなる。開き直ってもいい頃合いではないか。

 唐突に、あの実地訓練に愚か者パラダイスの仲間が参戦してくれていたら、と思った。ifの展開が希望に満ちていて報われない。この夢ですべきだったのは、各寮にいる彼らと部隊員に未来の惨事を告げ、犠牲を防ぐために力を貸してと縋ることだ。

 こちらに歩いてきた『ふたりめの惟』が身を屈め、顔の近くにアロゥを置いた。

 意味は『誰も頼れない』。ささくれた心はいつも幻滅と減点に怯えている。

「現実に戻ったら、次は敗けない。それでいいでしょ」

 初めて敵を殺したとき、もう二度と子どもみたいに泣くことはできないと思った。

 幼い頃、命はやがて星になり、藍色の大きな腕に守られると信じていたが、そのようなものにいだかれる予定もない。無邪気さを失った今、素直とは真逆の、撥条ばねより捻じれた胸中が、偽善的な博愛を疑問視している。

 夢の寮にさえ居場所のない自分だ。夜明けの疎雨そうに打たれながら眺めていた、廃街はいがいかげを思い出してしまう。

 ひとりの戦いの中で、血を流さず世界を救う人たちに何度助けられただろう。

 明日は孤独な歌の、きずだらけの白い腕に包まれて眠りたい。

 どこかで作者に出会っても、『ありがとう』とは言わないけれど。



                                 credit 33 end.

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