credit 25 涕涙学
ミシェルは『了解』とだけ返信したアロゥをポケットに仕舞った。歩調を緩め、南の捕吏から託されたボストンバッグを肩に掛け直す。中の医薬品を東の棟へ運んで、戦禍鬱を発症した島民の命を繋ぎ止めなければならない。海の近くから出発したけれど、今は草原っぽい丘陵風景に観光用の宿泊施設が点在している。
「私のせいだわ……」楽しいはずの旅行が酷い有り様だ。怪我は治ったが、何日も昏睡していたような怠さで気が滅入る。見た夢が許せなくても、勇敢に生きていくしかない。
途中、スポーツジムの駐車場に怪しい集団を捉えた。私服の非行系青少年が6名、灯りの下で輪になっている。迷ったが、彼らが殺されるよりはましだと思い、歩み寄って声をかけた。「危ないからシェルターに避難して。アルジラ兵に見つからないうちに」
少年たちが一斉にこちらを向く。好戦的な装いだが、所属はおそらく中等部だ。
信頼を得るべきと判断し、学生証を提示した。「状況は伝わってるでしょ?」
「顔すげえ。人形ですか?」
「ごめんなさい、話を聞いて貰えないかしら」誘導力がないのはきっと、気まぐれに講義を欠席しすぎて『説得術Ⅰ』の単位を落としたからだ。しかし簡単に諦めてはいけない。
「避難とかダセぇ。行かないっすよ」
「オレら地下では生きられないんで。すみません」
「さっきこいつ拾ったんですけどお姉さん飼ってくれませんか?」少年のひとりが、腕に抱いた小さな黒猫を紹介してきた。「やわらかくて育てやすいと思いますよ」
「その子も連れてシェルターに行って。自由に生きる権利は否定したくないけど、島の問題は捕吏と私たちに任せて身を守った方がいいわ」
彼らは頑なに拒否を続け、背の高い灯りの側から動かなかった。ここで別れるのは気が進まないが、頼まれた医薬品を東に届けなければ。
不良集団に手を振られて歩き出したものの、粘ついた不安が足首に絡み、配達が済んだら再び説得を試みようと思った。予定していた右クリックの見舞いは後回しだ。
なだらかな坂を下り、スポーツジムの建物から100mほど遠ざかった頃、徒事ではない悲鳴が静寂を引き裂いた。怒号に似た銃声が外気を震わせる。
驚いて半ばまで駆け戻ると、2名のアルジラ兵が先ほどの少年たちを殺害していた。
走っても間に合わない。叫びそうになる口元を手の平で押さえた。至近距離から撃たれていて生存は絶望以下だ。雑な動き方をした自分への失意で目蓋が冷えていく。
マウンテンパーカのポケットに、南の捕吏から貸与された銃の重みが。荒々しく芝生の斜面を上り、大きな血溜まりを見下ろしている敵の頭を激情に委ねて撃ち抜いた。
「地獄に堕ちて……!」仇を討っても報われないけれど、そうせずにはいられなかった。少年が抱いていたやわらかい猫も星になったのだろう。それを確かめるのが怖くて意識を遮断したくなる。少し前まで話していたのが嘘みたいだ。皆、瞬く間に死んでしまった。
隣の樹に縋って草叢に座り込む。やり直せない時間の流れは、憂いと過ちの製作機関だ。ささやかな幸せの欠片さえ、同じ温度のまま次の駅へ連れていくことができなかった。
殺伐とした世界の中で、撃たれたり、轢かれたり、病魔に滅ぼされたりしても、一度くらいは平等に復活のチャンスを与えてほしくなる。命はゲームの駒ではない。だから、運が悪かったという言葉を犠牲者への花に添えるのは違う気がした。
細々とした街灯の慈悲。草木の匂いに満ちた風は無音で、胸裡は無色に近い。
長く、精神的な衝撃で現実感を失っていた。車道を辿って東の哨戒塔まで行き、門番にボストンバッグを押しつけて早々に立ち去ったことすら思い出せなくなりそうだ。
冷めたパスタのように疲弊しているけれど、今すぐに西の棟で仲間と再会したかった。良嘉と惟は新たな任務に赴いたが、重傷らしい右クリックは医療ステーションにいるはずだ。昨日まではこの島に来るのが楽しみで燥いでいたのに、ハロルの寮に帰りたくて俯いていることが切ない。
西棟の下層を進むと、案内された部屋のベッドに右クリックが横たわっていて、その情景に酷く安堵した。額と耳下のガーゼが痛ましくて笑えない。彼のお気に入りだったパジャマはバイクの事故で力尽きたのか、淡い色の病衣に着せ替えられていた。
室内には、不意に眠ってしまいそうな、やさしい灯りのランプがひとつ点いている。
「寝てるの?」と前髪を指で梳いた。「起きてるでしょ。変な演技で弄ばないで」
彼は笑いながら目を開けた。普段より元気がないので悪夢に魘されていたのだろう。
「ミシェル来てくれると思って待ってた。お水飲ませて」魔女の血がなければ死んでいたかもしれない右クリックが、怪我人の余韻を感じさせる動作で身体を起こした。
「いつも側にいるわけじゃないのよ」テーブルに置かれていた瓶の水をグラスに注いでベッドに座り、彼の唇に押し当てる。「零さないように気をつけて。……上手ね」
右クリックは中身を半分ほど飲んでから顔を離した。暗がりでもなぞれるくらい目の下に隈が透けていて、真夜中に曲を創っている人たちみたいだ。
「ミシェル、泣くの我慢してるよね? 辛いこと忘れたいの?」彼は、華奢な割に大きな手をこちらに伸ばして頬を触ってきた。「メンタルは捧げるから好きに虐げていいよ」
「そうね。やってみる」悪戯でも叱りつけて叩いたりすれば、二度と正気に戻れないくらいに仲間の内側を切り刻むと知っている。「冗談よ。そんなことしない」
「本当?」右クリックが確かめるようにパーカの裾を握った。「狙撃失敗してごめんね」
「半分傷物だから気にしないでちょうだい」約束を思い出したので、彼の四角い肩を抱き寄せて、髪と首の境界を弱く撫でてみる。「疲れてるの? もう少し眠ったら?」
あたためるふりをしながら、血の通った人肌に縋っているのは自分だ。悲痛を避けて生きられるほどの、有り余る幸運を授からなかったことにも意味があると信じたい。
「僕は夢の中で泣いてたよ。可愛く死にたかったのに……」
「轢かれたって聞いて心配してたのよ」彼の額のガーゼを剥がしたけれど、存在していたはずの傷痕には会えなかった。再び回した腕で不安定な身体を包み込む。「私は紺かグレーの、ボタンがついたパジャマの方が好き。……大丈夫よ。指先で甘えてみて」
自分たちが悪いわけでも、他人が悪いわけでもなく影は深まっていく。
暖色の愛情は、心を救う唯一の魔法。迷路に散りばめられたロリポップキャンディ。
credit 25 end.




