credit 11 理想学
ミシェルは花壇に置いてきた保護タヌキを抱き上げて女性に向き直る。自殺未遂については触れず、任務の都合で南の哨戒塔を目指すと告げた。
「よければ一緒に来ていただけませんか? 頼りないかもしれませんが、シティ・ハロルにあるデルニエ士官傭兵学園の生徒です。ミシェルと呼んでください」
麻のワンピースを着た女性は「学生さん?」と驚いた顔をしたが、「ごめんなさい、ヒルデよ。職業は美容師。……夫が、警邏班の仕事で船に」と突然何かが決壊するように泣き出した。快活なショートヘアの印象とは異なり、綿菓子っぽい人だと思った。
慰めの言葉が見つからず、その上、海に出た捕吏の代わりに島を巡回していることを打ち明けるわけにもいかず、延滞される沈黙が重い。こういうとき、励まし上手の右クリックがいてくれると助かるけれど、単独行動の最中なので遭難しかけてしまった。
「彼、あたしのお客さんで、50日前に結婚したばかり。死にたくなるの、わかるでしょ?」
ここは中途半端に理解者ぶったりせず、社交界で培った会話の感覚を生かすべきだ。
「はい。でも、ヒルデさんは早まらない方がいいと思います。ご主人が無事だった場合、ロミオとジュリエットのような結末になってしまうかもしれません。どうしても耐えられないのでしたら、死が確定してから後を追っても遅くないのでは?」
ヒルデは絶望を露わにし、手の平で目元を覆った。「それが嫌なの。死んでる姿だけは見たくない……。怖いでしょ。初めてのことって。どれくらい悲しまなければいけないのか予測できないから。……ミシェルちゃんは、つき合ってる相手とか、いないの?」
彼女の涙声が胸に刺さる。しかし感情を無効化する薬ができれば人はきっと壊れていく。
「私ですか? いるのは仲間だけです。これから先も、誰かと恋愛関係になるつもりはありません。意外とドライで変な子だと思いました?」
ヒルデは穏やかに笑う。「世界のすべてをあなたのものにできるくらい可愛いから、童話のプリンセスみたいに生きてるような気がしたけど」
「そんなことありませんよ」とこちらも微笑んだ。「そういうの、向いてないんです」
2分ほど前に惟本人から、予め決めていた北の塔へ行くと報せがあった。アルジラ兵の件は問題なく片づいたらしい。風貌は怪しかったが、おそらく悪者ではなかったので殺さずに済んで安堵している。
惟は部隊潰滅の責任を重く受け止め、自ら熱意を断ち切って不具合品に準じようとしていたけれど、指揮科に所属している生徒が無能ということは絶対にない。このまま仲間を続ければ、あの漆黒の髪に神秘を纏いながら敵を殲滅する瞬間を見られるだろう。
「タヌキ寝てるの?」とヒルデが覗き込んでくる。静かな歩道が貸切だ。
「そうみたいですね。パーティの帰りによく保護していたので、つい……」
ふと右クリックが自分を必要としている気がして心が揺れる。それが真実でも幻でも今は、チアリーダーの少女が彼にやさしく接してくれていることを祈るしかない。良嘉はたぶん、ゲームの荒廃エリアなどに親しみ深く置かれている、金属の円いあれに足を挟まれたりしていなければ大丈夫だ。
やがて遠い景色に塔の先端を捉えた頃、向かいから異様な速度で駆けてくる白衣の男に戦慄した。この状況下で、誰もいない路上に社会人が現れるのは不自然ではないか。目的がわからず緊張が走る。抱えていた小さなタヌキをそっとヒルデに渡した。
「何かあったら躊躇わずに逃げてください」
対象をまっすぐに見つめると、黒縁メガネの男性も明らかにこちらを警戒していた。雰囲気が勤勉そのもので、攻撃力は相当低そうだ。
短い横断歩道を挟んで問いかける。「失礼ですが、どうしてここに?」
彼は温いホットミルクに似た声で答えた。「勤務先に戻りたくて……」
夜風に靡く白衣が不審すぎて判断に迷う。「理由を訊いてもよろしいですか?」
「患者さんがひとり足りないんです」
ヒルデを留め、男性に近づいてみる。不測の事態に備えて早めに武器を調達しておくべきだったが、白衣はその場から動かない。やはりこちらに危害を加えるつもりはないようだ。胸ポケットのIDから、須磨という研修医であることが確認できた。袖に何度も折り曲げた跡が残っているので突発的な変装ではないだろう。
「私はハロルの士官学生です。仲間と話し合ってレザールに加戦しました」
普段の仕事でもそうしているのか、彼は自信なさげな面持ちで一度頭を下げた。
「研修医の須磨と申します。この地区の整形外科センターに勤務しています。警報が鳴ってすぐに、患者さんを連れて地下経由で南のシェルターに避難したんですが、骨折で入院していた初等部2年の男の子が行方不明に……」
若干首を傾げたくなる内容だ。「なぜ同じルートで引き返さなかったのですか?」
「センターが占拠されていた場合、アルジラ兵に攻め込まれると危険だからです。ぼくらが使った扉は直ちに封鎖しました。地下で繋がっているので、迂回してここに」
「患者の男の子は建物に取り残されているということですか?」
「その可能性が高いです。避難の前に、中庭で見かけたと聞いたので……」
「探しに行きましょう」と背後からヒルデが言った。「歩いて5分くらいよ」
気持ちは有り難いが、彼女と研修医をシェルターへ送り届けることが最優先だ。しかし、置き去りにされてしまった幼い怪我人を後に回すのはあまりに無慈悲ではないか。寮のメンバーが来てくれると心強いけれど、自分のせいで哨戒塔を墜とされるわけにはいかない。
「3人で手分けすれば速いでしょ。遠慮しないで」
「ありがとうございます。でも、巻き添えにはできません。私ひとりで行きます」
「いいえ、ぼくも参加させてください。センターの構造は頭に入ってます。こちらの都合で恐縮ですが、初めて担当した患者さんなので笑顔で退院してほしいんです」
断りきれず、無謀な編制をアロゥで鵺に伝え、承諾を得てふたりの申し出を受け入れた。この任務はおそらく連帯責任だ。惟の進級のためにも失敗は許されない。
掠れた白線の上で本心に触れてみると、外見の印象通りに愛らしく暮らすことは微塵も望んでいなかった。
形だけのアリストクラシー。金平糖とシロップ。儚い硝煙。
戦花と戯れる甘くリスキィな生き方に、もう少しで手が届きそうだ。
credit 11 end.




