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【短編集】私の知らない隣人は  作者: 渦峯ちやほ
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夢のような女

 あるところに普通の男がいた。

 男は普通に義務教育を受けて、まぁまぁの高校に入り、そこそこの大学を出て、ほどほどの会社に就職した。

 可もなく不可もなく会社を務め数年が経ち、そろそろ家庭を持った方が良いと考えた男は婚活サイトに登録した。


 男が少し普通より外れたところはその運の良さだったのだろう。

 これまでの人生は順調で、婚活サイトでもすぐに条件の合う女性に出会った。


 女は男好みのたいそうな美人だった。

 しかも美しさを鼻にかけたり、相手を小馬鹿にした様子がまったくない。

 会うといつもロングスカートで、清楚な装いであることにも好感が持てた。

 女は男の趣味嗜好を肯定し、会話は弾んだ。

 どんなことにも怒らず、彼女はいつも微笑んでいた。

 まるで穏やかな海のようだ。

 男にとってはまさに理想の、夢のような女だった。

 しかしその話を友人にすると、みな口々にこう言った。


「お前は騙されている」

「何か裏があるに違いない」

「いつか本性を現すぜ」


 男は心配になった。

 昔話にも食わず女房というのがある。

 飯を食わない金のかからない女だと思っていたら実は妖怪で最後はバリバリと頭から食われてしまうアレだ。

 化け物ではなくとも、あとからヤクザのような男が現れて金をせびられる美人局(つつもたせ)の可能性だってある。


 疑いだした男は慎重に女を観察することにした。

 しかし女は一向にボロを出さない。

 友人関係も、薄暗い世界とはまったく繋がりはなさそうだ。

 ただ一つ、女にはパッチワークの趣味があるようだった。

 色とりどりの生地の切れ端を組み合わせて一つの布を作り上げていく。

 器用に針と糸を繰っていく女はいつ見ても楽しそうだった。

 もしかしたら趣味が充実しているからいつも穏やかでいられるのかもしれない。

 一応女にも、何故いつも穏やかでいられるのか聞いてみた。


「そうですねぇ……ストレスをすぐになくすことでしょうか」


 女は少し考えたあとそう答えた。

 やはり趣味がストレス解消になっているようだ。

 男は納得して女との交際を続け、1年後に結婚した。

 しばらくの間、結婚生活は順調だった。


 しかし波風の立たない海というのはひどく退屈なもので、次第に男は女に飽きてきた。

 飽きると勝手なもので、女がいつも微笑んでいることに対しても腹が立つ。

 男が取引先で失敗をし契約が破棄になったときも、上司に理不尽な仕事を押し付けられたときも、女はいつでもにこにこと微笑み、男を受け入れる。そのことに男は、なぜ自分ばかりがこんな目に合うのかとイライラした。


 次第に男は家に帰るのが嫌になり、夜は遊び歩くようになった。

 どうしても帰らなければならないときは女が寝ているであろう深夜にそっと忍びこみ、着替えや入り用なものを持ち出した。


 その日も深夜、男はひっそりと日付が変わったあと家に戻った。

 月も出ていない真っ暗な夜だった。

 マンションの廊下は明かりがついているにも関わらず薄暗く、どこからともなく吹く風は男の背中を冷たく撫でていく。

 なるべく音を立てないようにそろりそろりと鍵を回し、静かに家のドアを開ける。

 と、家の中から今度は生暖かい風がふわりと男を包む。


 見慣れた我が家のはずなのに居心地悪く思うのは、妻への罪悪感だけなのか。

 一歩部屋の奥に進むたび、空気が肌にまとわりつくような不快感に襲われる。

 生ゴミでも捨て忘れているのか、肉が腐ったような異様な生臭さを感じた。


 この場所にいてはいけない。


 わけも分からず男の身体に緊張が走った。

 どくどくと鼓動が早くなる心臓は男に警鐘を鳴らしているかのようだった。

 妻に見つからないよう灯りはつけず、リビングを抜けて寝室へ。


 男はベッド横のチェストの引き出しに手をかけて、そこで、ふと妻の気配がないことに気がついた。

 見ればベッドはもぬけの殻。

 

 妻はどこだ。

 この時間、寝ているはずの妻がいない。

 あまり広くない家だ。どこかにいればすぐにわかるはずなのに、こんな真夜中にどこかへ出かけているのだろうか。


 気味が悪い。


 男はさっさと退散しようと必要なものを取るとすぐに玄関へと急いだ。


「おかえりなさい、あなた」


 リビングを通ったときだ。

 背後から、そう声をかけられた。

 振り返ると暗闇の中、妻がソファーに座っていた。

 男が先ほど通ったときは影も形もなかったはずだが、いつからそこにいたのだろう。

 妻はあのいつもの海のような包み込む微笑みで、男を見つめていた。


「た、ただいま」


 かすれた声が出た。

 最近の後ろ暗い行動と家の中の不可思議で異様な空気に冷や汗が出る。


「まだ起きてたのか」

「ええ、パッチワークがちょうど良いところだったので。夢中になって縫っていたらこんな時間になってしまいました」


 テーブルには確かに布が広げられていた。しかし、細かい手作業なのに灯りもつけないとは、どういうことだろう。


「そうか。俺はまだ会社でやらねばならない仕事があるから戻るよ。いやぁ、困るよな。こんな時間まで残業させられるなんてさ」


 やらねばならない仕事なんて本当はない。

 ただこの場を去りたい故の適当な嘘だ。


「そうですか」


 妻の海は穏やかだった。

 このときばかりは男はホッとして、妻に背を向けた。


 しかし妻は男がリビングを出ていこうとドアに手をかけたとき、こう話しかけてきた。


「いつだったか、あなた質問してきたことがあったでしょう? 覚えてます?」


 唐突な質問に男は眉をひそめた。


「な、なんのことだ?」

「何故いつも穏やかでいられるのか、って」

「そうだった、かな」


 そういえば、結婚前にそんな話もした気がする。


「私、あのときストレスをなくすことだって言いましたでしょう」

「あ、ああ。そうだったかな」

「私ね、そろそろストレスをなくそうかと思って」


 女はうっそりと笑った。


「やっぱり、心穏やかでいられることってすごく大事なことですからね」


 光源は窓から射す外の街灯と、遠くのマンションの無数に瞬く小さな窓明かりだけなのに、妻の目が仄暗く赤く光ったような気がした。

 まるで深海の底から得体の知れない生物に見つめられているかのようだった。


「ああ、そうそう。私がパッチワークが好きなことは知ってらっしゃるでしょう?」


 ソファと自分の足元の間を行ったり来たり、何かが蠢いている気配がする。

 何が動いているのか見なければと思うのに、恐怖で足元を見ることができない。


「パッチワークの醍醐味は好きな柄を好きに組み合わせてお気に入りの布を作っていくことなんですけどね」


 ぴちゃぴちゃと水もないのに水音がする。

 生臭い腐肉のような匂いが濃く、鼻を突いた。


「私、あなたのその薄い唇と、無骨で出っ張ったところの下にポツンと黒子がついた手首が好きだったのよね」


 何かが男の爪先を掠め、男は咄嗟に床を見た。

 そこには青黒い色の人の腕のようなものが何本もうねりながら這いずっていた。

 足のようなものや細長い舌のようなものもある。

 足首から継ぎが当てられ赤いペディキュアをされた右足。日に焼けたごつごつとした左手。赤赤とした長い舌先には耳が埋め込まれている。

 

 手足は、腕もしくは脚の部分が異様に伸び、ぴちゃぴちゃと音を立てて男に迫る。

 もとを辿ると妻の足元へと続いていた。根本は妻のいつもはいているロングスカートの裾に隠れていてどうなっているのか分からない。


 逃げなければ。


 男は手にかけていた扉の取っ手を引き、リビングを出て行こうとした。

 が、妻から伸びた一本の手に足首を捕まれ、そのままものすごい力で引き倒される。

 這ってでも逃げようとする男に、無数の手が腕が舌が足が脚が、逃すまいと男の身体にまとわりく。

 必死で、すがる手たちを払いのけようとしても一本外すたびに二本、三本と胴にしがみつかれる。

 まとわりついた腕の一本が男の顔に近づいた。

 手のひらに縫いとめられた目と、目が合う。

 もう、逃れられない。

 男の断末魔が暗い部屋に響いた。


「さて、あなたの隣りには何を組み合わせてみましょうかしら」


 そう言って、女は夢見るように微笑んだ。

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