蛾の女王
夏は死を身近に感じる季節。
湯気が上がりそうなアスファルトの上には干からびた蚯蚓と力尽きて生を終えた蝉の死骸が横たわり、公園の一角ではアゲハ蝶が蜘蛛の巣に絡まってもがいていた。この三つの中で、一番楽なのは蝉の死に方なのだろう。アスファルトの上で干上がるのも、逃げることのできない蜘蛛の巣に絡まって蜘蛛に捕食されるか餓死を待つのも、地獄だ。人間も生物であるなら、そもそも人間らしい死に方なんてあるのだろうか。
五十メートルほど離れた場所に崖が切り立っている。ここから見ると高さ五メートルくらいの土の壁。壁には五メートルくらいの間隔で、地面に接する高さで直径一メートルくらいの洞穴が三つ並んでいる。白いワンピース姿の彼女は僕には一瞥もくれず、身をかがめて一つの洞穴に潜りこむ。しばらくすると別の洞穴から外に出てくる。そしてまた別の洞穴に入る。その一連の動きを、笑みを浮かべながら、一心不乱に繰り返している。洞穴の中はつながっているらしい。時々白い動物が現れて彼女と同じように一つの洞穴から入り、しばらくすると別の穴から出てくる。
ジャッカルだ、僕は呟いた。
ジャッカルなんて、名前は知っているけど見たこともない。今思い返してみると、あの動物がジャッカルだったはずはない。獰猛な感じのない小動物だった。本当にジャッカルだったら僕はなぜ黙って見ていたのだろう? どうして彼女に声をかけて助けに行かなかったのだろう? 僕はただ彼女が戯れる姿を目で追っていた。
気がついたときには、土の壁と僕の間の中間地点よりもこちら側に大きな虎の姿があった。虎はゆっくりとこちらに向かって歩を進めている。逃げないと、でもどこへ? ここはどこ? この後ろはどこにつながるんだ? 僕は踵を返して走り出した。背後からから虎の気配が迫ってくる。匂いもしないし、足音も息遣いも聞こえないのに、気配だけが伝わる。距離は瞬く間に縮まり、ついに虎が僕にとびかかる。
「やめろ! 」僕は叫びながら虎を振り払った。
その瞬間、僕はベッドの上に座っていた。夢の中の虎を両手で振り払ったとき、僕は実際に体を起こして両手で掛布を振り払っていた。
その光景を、少しだけ開いた寝室のドアの上に座った女が見ていた。確かに人間の女の形をしてはいるが、大きさは十五センチもないだろう。顔は夢の中に現れた彼女だ。
「れい子」
僕は彼女の名を呼んだが、小さな女は思わせぶりに微笑むだけで、何も答えない。
「君は誰?」僕は平然と質問をしている。
「蛾の女王よ」女がそう言った瞬間、僕の目の前に(おそらく)彼女の視界が映し出された。画面一面に緑のフィルターがかかり、高い場所から僕自身を見下ろしている。時々緑色の粉がはらはらと舞う。彼女の言葉が止むと同時に緑のフィルターは消え、僕の目に見えるはずの視界が戻ってくる。
「蛾の女王? 蝶ではないの?」
「あなたは蛾と蝶の違いを知っているの?」再び目の前に緑色のフィルターがかかり、僕は自分自身を見下ろしている。またはらはらと粉のようなものが落ちる。その光景は蛾の女王の言葉とともに始まり蛾の女王の言葉が終わると終わる。
「今僕が見ていたのは君の目に映る世界?」
「そうよ」
「君が話している姿を見ることはできないの?」
蛾の女王は僕に表情を見せつけるかのようにまた思わせぶりに笑う。そして言った。「また、そうやってごまかす」
僕は緑色のフィルターを通して、自分自身のバツの悪そうな顔を見下ろしている。
「蝶は綺麗で、蛾は醜いくらいにしか思っていないでしょう?」蛾の女王は言葉を継いだ。「蝶は蛾の一種なの、その逆ではないわ。だから、蛾の女王である私は、蝶の女王でもあるのよ、基本的には蝶は昼間に飛んで蛾は夜に飛ぶ。夜の蝶なんて言葉があるけど、蝶は夜は寝ているのよ、蝶が派手なのは自己アピール、昼間だからできるの、蛾は暗い夜に飛ぶから見た目ではアピールしないの、今あなたの目に粉のようなものが舞っているのが見えるでしょう」
「うん」そういった瞬間に視界は戻り僕は蛾の女王を見上げている。
「あれはね」そしてまた画面が緑色に変わる。「フェロモンよ」
蛾の女王はまた思わせぶりに笑っている。
「蛾の女王なんて嘘だ、君には羽がない」
「あるわ、私の羽は美しくないの、だからあなたに見せないようにしているだけ」
その言葉が聞こえていた間、僕の視界には緑ではなく紫色のフィルターがかかっていた。僕はしばらく蛾の女王の顔を見つめていた。れい子にしか見えない。そう思うと、そのまま顔を見ていたかった。蛾の女王の声は甘くて耳にまとまりつくようだったが、僕が覚えているれい子の声とは違う、たぶん。
「どうして、あなたはれい子を捨てたの?」蛾の女王の突然に質問に僕は自分の表情が変わるのを緑のフィルター越しに見ていた。
「捨ててなんかいない、彼女が僕のもとから去ったんだ」
「別の人と結婚したのだから捨てたのと同じでしょう?」
「もう二度と会えないと思っていたから」
「愛していなければ結婚などしないでしょう?」
「そうじゃない」
「あなたが愛したのはれい子だけだと言うの?」
「そうだよ」
「それなら、けじめをつけてよ」
「けじめって?」
「今の生活か、れい子か、どちらかを選んで、…即答できるの? できないでしょう?」
「できるよ、もちろんれい子だよ」
「そう、楽しみね」蛾の女王は思わせぶりに微笑んで消えた。時計を見ると朝起きるためにアラームをかけた時刻の1分前だった。僕はアラームを鳴らさずに起きた。ベッドの横には妻がいた。妻にいつ別れ話を切り出そうか。少なくとも今じゃない。
それから毎日、僕は妻より先にベッドに入った。横になると同時に眠りについた。そして不思議な夢を見て目を覚ますと、蛾の女王が僕を見下ろしていた。
「こんばんは」その言葉が聞こえた瞬間、僕の目の前には緑色のフィルターがかかり、緑色の粉がはらはらと落ちて、ベッドの上に腰を下ろしている自分自身の姿を僕は見ている。蛾の女王をこちらをじっと見つめている。蛾の女王の顔は世界で一番かわいい顔。最初に現れた蛾の女王は首から下を包帯でぐるぐる巻かれたかのように全身真っ白で、顔以外の肌の露出が一切なかった。二度目に現れたときは手首から下、その次は足首から下の包帯が外れて色白の肌が現れ、それから長袖のワンピース姿になり、スカートの丈が短くなって、袖もノースリーブにかわっていた。
立ち上がろうとしてし両手に力を入れても、僕の手にはまったく力が返って来ない。手を使わずに、腰を上げてみようとしても、体が沈みこむわけでもなく、反発もない。蛾の女王と対峙している間は、僕はどうやっても立ち上がれない。
「いつになったら君にもっと近づけるの?」
「私に触れたい?」
「もちろん」
蛾の女王はもはや自分のことをれい子とは呼ばない。あるいは自分が蛾の女王を勝手にれい子だと思い込んでいるのか? 「君はれい子だよね?」と訊いても蛾の女王は思わせぶりに微笑むだけ。
「けじめをつけると約束してくれたら、私があなたの近くへ行くわ」
「約束する」
「私を裏切らないで」
「もちろんだよ」
「約束よ、また明日ね」
紫色のフィルターの向こうで恥ずかしくなるくらい嬉しそうな顔をしている自分自身が見える。紫の粉がはらはらと舞った。
時計を見ると、またアラームの鳴る1分前。妻は隣で寝ている。
蛾の女王と向き合っているときは意識さえしないのに、姿が消えてからいつも気がつくことがある。蛾の女王が話をしている間、僕の視界には緑か、時には紫のフィルターがかかり、蛾の女王の目に映る光景を僕は見せられている、僕はそう思い込んでいる。彼女はいつも少しだけ開いた寝室のドアの上から僕を見下ろしている。それなのに、僕の隣にいるはずの妻の姿はなく、蛾の女王がいなくなって初めて僕はそれを思い出す。
妻は夫の異変に心がざわついていた。
それまで帰宅は妻の方が早かったのに、近頃は妻が家に戻ると、夫はすでにベッドで寝ている。
「病気じゃないの? 病院にいったら」妻がそう言っても、夫の方は「自分の体のことは自分が一番わかってる、疲れがたまっているだけだ」と言って取り合おうとしない。夕食の用意ができたと起こそうとしても「ごめん、もう少し寝かせて」と言ってそのまま朝まで寝てしまう。体のことも心配だが、仕事の方は大丈夫なのだろうか? 毎日私よりも早く帰宅して会社でまともに働けているのだろうか? まさか会社でもこんな調子ではないのだろうか?
妻はただただ夫の身体のことが気がかりだったが、心配で自分が眠れないほどではなかった。とりあえず夫は朝は今まで通りの時間に起きて会社に出かけていく。季節の変わり目で調子を崩しているだけなのか、あるいはただの夏バテか。夫がこんな調子では家事の負担はすべて自分にかかってくる。仕事をして帰宅してすべての家事をこなせば、体は嫌でも疲れる。一日が終わり、夫が先に眠りについているベッドに潜り込むと、妻も気絶するように眠りについた。
ある晩、妻は理由もなく夜中に突然目が覚めた。上半身を起こしてしばらくぼうっとしていたが、水の一杯でも飲もうかと、自分の右側のナイトスタンドの電気をつけた。ふと左側で眠っている夫のことが気になった。この人は大丈夫なのか? 妻は夫の顔を覗きこんだ。夫はまるで自分自身を抱きしめるかのように両腕を組んで、陶酔したような表情を浮かべている。その表情があまりにも気持ち悪くて、彼女は今まで出したこともないキャーという叫び声を出すと、夫の体を両手で押した。突き飛ばすつもりなどなかったのに、夫の体はベッドから滑るようにフローリングの床に上にドンと音を立てて落ちた。まさか、落ちるなんて、思いもしなかった。
「痛え…」彼女が覗き込むと、夫はうめき声をあげ、苦痛に顔を歪めていた。
「大丈夫?」彼女は慌ててベッドの足元から降りると、床にひざまずいて夫に触れた。
「ダメ、救急車呼んで」
「嘘でしょう?」
「嘘じゃない、動けない」
「ごめんなさい」
「いいから、早く電話して」
夫は臀部から落ちたのだと思う、頭は打っていないだろう。レントゲンを撮ってもらったが、骨には異常がなかった。診察が終わり、夫は立ち上がることはできたが、腰が痛くて歩くのがつらいと何度も口にして、少し歩いては止まるの繰り返しだった。
「今日は一日休むよ」帰りのタクシーの中で夫は言った。
「その方がいいわ、私、午前中だけどうしても出社しないといけないの」
「大丈夫だよ、一日仕事していいよ」
「でも…、ごめんなさい、こんなことになるなんて」
「気にしなくていいよ」夫の口から彼女を責める言葉は一言も出てこない。なぜ押したのかも訊かない。訊かれても「あなたの寝顔があまりにも気持ち悪くて…」と本当の理由は言えないけれど。それどころか、今から丸一日眠っていられることを楽しみにしているようにさえ見えた。
病院からタクシーで戻ると、僕はそのままベッドに仰向けになり眠りに落ちた。
蛾の女王が少しだけ開いた寝室のドアの上から僕を見下ろしている?
「どうして今日は側に来ないの?」僕は訊いた。
「けじめをつけくれないからよ」緑のフィルターの向こうの僕は自信満々の表情を浮かべている。緑の粉がはらはらと舞った。
「けじめはつけたよ、僕はこれでずっと寝ていられる、ずっと君の側にいられるよ」
「奥さんと別れてないじゃない?」
「僕はこれからずっとこのベッドで眠り続けるよ、君とずっと一緒にいられる、妻が働いてくれるから生活の心配もない、やっと理想の生活を手に入れたよ」
「私はあなたにけじめをつけてと言ったのよ、それなのにあなたは奥さんなしでは生きられない状況を作った、奥さんは恍惚の表情を浮かべているあなたの寝顔を気持ち悪いと思ったのよ、わかってる? もあし私があなたのうっとりとした寝顔を見たら、私の夢を見ていると思うわ、あなたの奥さんは夫が自分の夢を見ているなんて間違っても思わなかった、他の女の夢を見ていると思ってあなたを突き飛ばした、女の本能よ、そんな女を捨てることもできないなんて、あなたは私を愛してないのよ」
「愛してるよ」
「違う、…私は私だけを愛してくれる人じゃないと満足できないの、もう会うこともないでしょう、私はいなくなるわ」
「待ってよ」
「もう手遅れよ」僕の目の前が紫色に変わった。「私に会えないってどういうことかわかる? あなたはもう二度と眠れないということよ」
蛾の女王が消えた。僕はもう一度眠ろうと思ったが、目を閉じることができない。
僕の目の前が再び紫色になり、脅えた表情の僕が見える。蛾の女王の声が聞こえた。
「眠くて死にそう、とよく言うけど、眠くて死ぬ人はいないでしょう、眠くなったら寝てしまうから、でも、眠れなかったらどうなるのかしらね」
声が消えると同時に視界の色も消えた。蛾の女王はもうどこにもいない。