5 本当のことを僕に言って
別居して五年経った今、しっかりと月に二回の三人での外食は続いている。
妻のアトリエ兼自宅に着くと、彼女はパッと明るい笑顔を浮かべて僕たちを出迎えた。
この笑顔を見ると、自分はまだ好かれているのだと感じ、幸せな気分になる。
なにより、妻が元気に生きていてくれることが何よりも嬉しい。
「じゃあ、行こうか。いつものお店でいいんだよね?」
「そうね、お願い」
「了解」
僕の運転でレストランまで行く途中、息子の学校での話や僕の書いている小説の話などで盛り上がる。
妻の絵について聞くと、少し口籠った後、完成してからのお楽しみ、と濁されてしまった。
レストランについて食事をすると、どうやら妻の元気がないように思われた。
時折、ムッとした顔をすると、何かを言いかけて、止める。
そしてまた元気をなくすといったことを繰り返していた。
息子は顎に手をやり、何かを考え込むように視線を巡らせていた。
「なにかーー」
「こちら、山形牛のローストビーフでございます」
「ああ、どうも……」
妻に何か言いたいことがあるのではと聞こうとしたが、妻も食べる方に集中してしまい、切り出すタイミングを失ってしまった。
もう一度聞こうかと思ったが、妻はもう違う話をし始めており、なかなか良いタイミングが掴めなかった。
結局食べ終わるまで聞くことができず、妻のアトリエに着いてしまった。ここが最後のチャンスだと思い、勇気を出して聞いてみる。
「何か言いたいことがあるんじゃない?我慢しなくていいから、できれば僕に言って欲しい」
「え?いや、特にそんなことはないわよ。ありがとう、気を遣ってくれて」
言葉ではそう言っていたが、明らかに視線は彷徨っていたし、顔もうつむきがちで、嘘をついているのもバレバレである。
気を遣ったのか、息子も僕の手助けをしてくれた。
「思っていることは、口に出さないといつか爆発するよ。少しのことでも、言ったほうがいいと思う」
「本当に、何でもないのよ。ごめんね、ありがとう」
妻が隠そうとしていることを無理に聞き出しても悪いのではないか。そう思って、一瞬そのまま、そうかとだけ言って流そうとした。
しかし、それは自分が傷つきたくないだけの詭弁なのではないかということに気づいた。
明らかに妻は元気をなくしており、いつもだったら喧嘩でもしているところだったが、きっかけとなる妻の言葉がない。
そのことに気づいていながら、妻に嫌われたくないからと何もしないのは、自分のことが可愛いだけのただの臆病者だ。
妻のことより自分のことを優先してしまったことをひどく恥じた。押し付けがましいかもしれないが、その時は誠心誠意謝ろう。
「いや、やっぱり何か言いたいことがあるはずだよ。言ってくれるまで今日は帰らない」
「ほ、ほんとに何もないってば。今日も楽しかったよ、ありがとう。二人とも、また月末に。楽しみにしてる」
「待って。僕の目を見て、しっかり言ってくれ。本当に何もないなら、それで信じる」
「わ、わかったから、ちょっと落ち着いてよ。ほんとに、言いたいことはないです。こ、これで信じてくれる?」
妻の目は、言葉の初めは僕の目を捉えていたが、最後の最後で目を伏せるように右斜め下に視線を落とした。
「ごめんね」
そう口にしてから、妻の顎を持ち上げて僕の目を強制的に見つめさせる。
妻の目が潤みを帯びて、妻がえっ、と声を出したタイミングで妻の口を塞いだ。
妻の目がとろん、としたのを見て、しばらくしてから唇を離し、そっと優しく抱きしめた。
「これが最後のお願い。言いたいことを、僕に言って?」
「………ほんとは……ほんとはね?あんまり連絡がないのが、寂しかった。でも、小説の執筆とかに忙しいと思って、あまりこっちからも送ることができなくて。多分、あなたも同じようなことを考えてたんでしょうけど、でもやっぱり寂しいものは寂しいの」
「ごめんね、寂しい思いをさせて」
「あとは……えっと……」
「ゆっくりで大丈夫、言ってくれるまでちゃんと待つよ」
「……何か言っちゃうと、また、喧嘩になっちゃうなって。それと……もうこれ以上、あなたに嫌われたくないの……今更こんなこと言ってごめんなさい、今までずっと、酷いことばっかり言ってきたのに……うぅ……」
左肩が少し、暖かくなるのを感じた。
少しでも安心してくれるようにと、左手で背中をさすり、右手でよく手入れされていて触り心地の良い髪を撫でる。
妻の力がふっと抜けるのを感じた。
「酷いことだなんて思ってないよ。僕は勝手に、それだけ僕のことが好きなんだって思ってたから。それに、喧嘩なんて、学生の頃から数えきれないほどしてきたでしょ?それより僕は、言いたいことを言ってくれない方が悲しい」
「……でも、きっとまたきつい言葉を使っちゃうと思う。それがもう、耐えられないーー」
抱き締める力をちょっとだけ強める。妻が背中に回している手の力も、少しだけ強まる。
「君のそんなところも大好きだ。嫉妬深いところも、つい意地を張ってしまうところも全部が好きだ。きつい言葉も、君の言葉なら全て受け入れられる。無理して言ってるわけじゃない、本当にそう思ってるんだ。だから君には、安心してその気持ちをぶつけて欲しい」
「あり、ひぐっ……ありが、とう……ごめ、ごめん……」
「大丈夫だよ、大丈夫」
それから彼女は、声を出して泣いた。
僕は、泣き止むまでずっと彼女を抱きしめていた。
泣き止んでからも暫くはしゃっくりが続いていたが、いつの間にか規則正しく呼吸するようになった。
ゆっくりと体を離すと、完全に力が抜けてぐったりとした様子の妻が、安らかな表情で目をつぶっていた。
妻を起こさないようにベッドに寝かせて一息つくと、息子のことをずっとほったらかしにしていたことに気がついた。
スマホを見ると、『長くなりそうだから先に帰るね。今日はそっちに泊まってって良いから』と連絡が来ていた。
ここは駅前なので、電車に乗って先に帰ったのだろう。
息子には本当に頭が上がらないなと思いながら、綺麗な寝顔を見せる妻の髪に手をやる。
僕がどんなに苦しい思いをしても、愛おしくてたまらないこの女性を、絶対に悲しませないようにすると、心に固く誓った。
次が最終話です