誰も居ない教室
昔からそこには居ないはずの者が見え、周りから変人扱いされていた。
姿は普通の人間。優しそうなお爺ちゃんやお婆ちゃん、スーツ姿の若い男性だったり綺麗に着飾った若い女性。中には同い年くらいの子供も居たと思う。会った人には挨拶をすると両親から教わっていたせいか、僕は特に違和感もなく目の前に居る人に向かって挨拶をした。相手は勿論ニッコリと笑って返事をし、僕もニッコリと笑いちょっと嬉しい気分になったが、少なくとも周りの人々はその光景を微笑ましい光景とは捉えていなかった。
この世に生まれて物心がついた頃から当たり前だったその光景に対して、成長していくにつれて徐々に違和感を感じるようになり、まだ小学校に上る前に子供にとっては重すぎる悩みとなった。
彼らには悪気はない。ただそこに居るだけなのに。
どうして僕はこんなに辛いんだろう。
「おはよっ!なーんてね。どうせ誰も返事してくれないんだけどね」
朝の7時を少し過ぎた辺りの県立津久浜高校一年一組の教室内から、盛大な独り言がまだ殆どの生徒が登校前の教室内を響かせていた。うるさいという言葉が思わずこぼれそうになるが、グッと堪えてカバンの中から寝台特急が舞台の一冊の推理小説を取り出した。別に読書が好きという訳でも、推理が大好きというわけでもない。推理小説は時々映像化された物がテレビで放送されそれを見るくらいしかかじったことが無い。友達とドラマを見つつ、あれが犯人だなと友達が小さく呟く姿を見て、何故犯人がわかるのかと毎回悩んでしまうほどの凡人だ。そんな言ってしまえば推理小説に向いていない人間が何故こんな物を読んでいるのかと言うと、単なる暇つぶしでしかなく深い意味は特段無い。もしも学校にノートパソコンを持ち込めるのであれば喜んで持ち込むし、暇つぶしの道具は勿論そっちを選ぶだろう。本は記載されている情報が全てだが、ネットは無限と言って良いほどの情報が溢れている。昔は図書館に通って調べなければいけない情報も、今は手元で完結してしまう。そんな情報の海が誕生したこの時代でも、僕のこの状況の解決法はどこにも記載されていない。
「ねぇ、君はそんなに朝早くから学校に来て楽しい?他のみんなみたいにゆっくり登校してくればいいのに」
「……」
「まぁ聞こえるわけないよね」
わかりやすくトーンを下げる彼女の姿に、若干の心苦しさは感じるが何時も通り本の世界に逃げ込むようにページを一枚めくった。
「あーあ、暇だなぁ。折角高校に入学したって言うのにこんな毎日だともう嫌になっちゃうなぁ」
「……」
「君はもう少し青春を謳歌するべきだよ?過ぎ去ってしまうと誰もが羨むような薔薇色の青春の真っ只中なんだから本とか読んでないで彼女とか作って楽しく生活しないと」
怪談話で学校が舞台になるのはよくある話だ。女子トイレに現れるトイレの花子さんを始めとした音楽室や理科室、階段や旧校舎に幽霊が出るというのも定番中の定番だ。何故学校で怪談話が多いかは様々な説があるが、現代のこの国において数少ない共同体だからという説もある。勿論そんな話が生まれるからと言ってそこに幽霊など存在するわけもなく、夢を壊すような事を言うかもしれないがそれらは単なる娯楽でしかない。しかしこの学校では幽霊を始めとする様々な噂話が一切無いにも関わらず何故だか幽霊という部類のものが実在している。その幽霊こそが今しつこく話しかけてくる彼女。
「なんだったら私が彼女になってあげようか?なんて今は無理か。君は私の存在すら気づいてないよねきっと」
幽霊は不幸で人間に対して災いを齎すとどこかで読んだような気がするが、そんな事を言った人物がこの近くに居たとしたら今すぐにでもここに呼び出して彼女の姿を見せてあげた。
「学校帰りにみんなでオシャレな喫茶店でコーヒー……なんて今の高校生はしてるんでしょ?私もそういうのやってみたい!」
彼女の姿を見ているだけではとてもとても人に災いを齎すような存在には見えない。正確に言うと読書をしてる横でここまで喋られている時点でそれなりに迷惑な存在ではあるが、別にそれは災いというほどでも無い。
「ねぇ、こんど一緒にバックスコーヒー行こうよ!聞こえてないのはわかってるけど誰かと一緒に行きたいの。」
ブレザーの袖を引っ張ってくる相手に我慢の限界も近かった。
「あの、すみませんがもう少しだけ声のボリュームを下げて頂けませんか?」
「……ほへ?」
驚いてきょとんとする彼女におーいと顔の前で二、三回手を振る。驚くのも無理はないだろう。相手は言ってしまえば透明人間のような存在だ。透明人間になった人が様々ないたずらをするが、それが全部丸見えだった時の事を想像してみれば彼女の今の状況は簡単に理解できる。背筋が凍るほどの恥ずかしさを彼女は今経験している。
「見えるわけが無い。後ろにもしかしたら――」
「後ろには誰もいませんよ」
静寂が数秒間この教室を支配した後、ふと彼女の顔を見てみると真っ赤になっていた。
「やっぱり?」
「やっぱり」
「どうしよう……」
「知りませんよ。別に誰にも言わないので普通に静かにしてもらえませんか」
伝えたい用件は伝え終わったので、開いたままにしておいた小説を再び手に取る。ページは丁度百ページだったが、今まで読んだストーリーが一切入ってきていない。つまらないという訳ではないのだが、自分でも驚くほどこの小説のストーリーが頭の中に入ってきていなかった。
「あのさ……君って私のこと見えるの?」
「見えますけど」
「はっきりと?」
「はっきりと」
うざいし面倒くさい。寝起きは大概機嫌が悪いものだと思うが、それは僕だって例外ではない。別に好きで朝から学校に来ているわけじゃないのに、朝っぱらからこんなに話しかけてこられたらうざいし面倒。しかし顔に出すまいと必死にその感情を押さえつける。
「私見える人って初めて会った」
「そうなんだ」
「だって凄くない?私って死んじゃってるんでしょ。もう死んじゃってる人が見えるって凄いことじゃない?」
「少なくとも良いことばかりではないよ」
「そうなの?」
「そりゃあね。良いことって場合は殆ど無いね」
「ふーん、じゃあ今私と話している事については?」
「良いとは言えないんじゃない?」
そっかと彼女はわかりやすくテンションを下げた。
この返事の仕方が正しかったのかどうか、彼女の表情を見てしまった僕の中ではちょっとした反省会が行われていた。反省会の結論は、人付き合いの苦手な僕にしては上出来という結論だった。
「私、涼宮美咲って言うの。君は?」
「阿久津悠斗です」
「悠斗……OK、それじゃあよろしくね。私にとっては唯一の友達なんだからたまには話しかけてよね」
友達……なった覚えのないと一言口に出してしまえば彼女との関係は断ち切れただろうか。だけど彼女のあの嬉しそうな表情を壊す勇気は少なくとも僕は持ち合わせていない。だけど冷静に考えてもこの状況はあまりよろしくないのかもしれない。
「どうしようかな……」
その疑問から逃げるように小説の中に逃げ込んだ。