転:魔女は蘇る 2/3
◆
川から上がって、魔術を併用しつつ身を乾かして、新しい服に着替えて。
再び森の中を歩いて、草木を掻き分けていると少し身体が汚れて、でも自然のなかを進むことは楽しくて、けれど。
なんとなく、厭な予感がしたのだ。
森を抜けると、家の裏手に出る。そこから、裏口まではすぐだ。
けれど、どことなく、雰囲気が変だった。空気が悪いというか、嫌なにおいがするというか。きなくさいというか、なんというか──血なまぐさい。
「…………」
気のせいだろう、と一蹴して、改めて裏口から家に入る。
そこは台所である。魔術で出した水を用いて料理をしたり食器を洗ったりするだけの、雑多な区画。
隅に保管されている食料はそのままだった。洗い場を見ると、弟が食べた朝食の形跡と、……本来よりも数を減らしている食器。
友達でも、呼んだのだろうか。
嫌なにおいがする。
「…………」
奥へ進む。途中で寝室を覗くも、さして異常は見当たらなかった。いつものように、弟の寝具が散らかされている。私の蔵書は、見えるところには置いていないが。
少し、嫌なにおいを強く感じる。
「…………」
奥へ進むと、瞭然だった。
ひどくいやなにおいがする。
食卓の位置が、少しずれている。部屋のあちこちには、今朝にはなかった跡がある。単なる汚れと、そうではないもの。白や、赤や、黄色の、体液と思しきもの。食卓の上には、場違いなくらいに整然と、木製の湯呑が五つ並んでいる。
そして床の上には、四つの人体が横たわっている。
腕や顔のそこかしこに、傷跡や爪痕や、血が滲んでいる。どれもおんなじ金髪で。閉じた瞳の色はわからない。身体はまっすぐに伸びていて、手は腹の上で組んでいて。凄絶なのに、どこか安らかな。
「…………」
ひとまず、踏まないように気をつけて、奥へ進む。奥というか、手前なのだが、まあどうでもいい。
ともあれ、玄関へ。そこの扉は閉ざされていた。裏口で脱いできた履物を、沓脱ぎに並べる。足先を戸口に向けた草履が五つ、ただ綺麗に並べられている。
「…………」
部屋に戻る。相変わらず、夢のように覚めることもなく、死体が転がっている。四人。男が二人に、女が二人。全員が金色の髪で、おそらくは緑の瞳。二人の男を見比べる。
流石に、どちらが自分の肉親か、くらいは区別がついた。
「…………」
そっと指先を伸ばして、目蓋に触れる。その下に眠っていたであろう死相は読めない。瞳も、唇も、閉じている。ただ安らかな、寝顔のような死に顔。
目を逸らす。食卓の上に。皿の上に並んだ食器と、その横に。
丸い机の中央に、本が置かれている。
黒地の上で、血のように赤い文字が嗤っている。
「…………」
わかってる。
弟は死んだ。
私のせいだ。
呪いは無力化した、と思いあがっていた。対策として用意したものをひとつひとつと減らした挙句、本そのものの封印すら忘れていた。
そんな状況で、家を空けてしまった。
弟が触れる可能性も、弟が友達を呼ぶ可能性も。
すべて見落としていた。
致命的な呪いが起動する条件は、複数人であることだったのだろう。独りで過ごすことが染みついた私には、思いつけなかった仮説だ。気づくことすらできなかった。
そうして、こうして、弟を死に至らしめてしまった。
私が弟を殺した。
「…………、」
そして。今になって私は、思い知っていた。
私が愛していた思想。『魔法の探究』が提唱する理論の、致命的な欠陥を、ようやく理解した。
確かに、もしかしたら、人類の可能性は無限であるかもしれない。果てのない好奇と探究と推論の果てに、人類はすべてを明かすのかもしれない。あらゆる魔法をその手に収めるのかもしれない。
でも、けれど。
それを扱う人間の愚かさにもまた、限りはない。
どれほど技術が発展しても。科学と魔術の粋があらゆる可能性を必然としても。
それを手にした人間が正しいことを行うとは、まったく限らない。
人間の罪深さは、きっといつまでも、他の人間を傷つける。
私の愚かさが弟を殺したように。
……それでも私は、今でも、人類に夢を見ていられる。人類の可能性を信じている。
夢という夢がすべて夢物語ではなくなった、夢のない未来を夢見る。
その領域へと至るまでの旅路である本もまた、今までと同様に愛している。
けれど、今の私は。
もはや、私を信じられなかった。
人間のことを、見損なっていた。
◇
「私が思う魔女の──第三の条件とは、孤独であること」
ただ黙って耳を傾ける少年に向けて、私もただ、自分のことを物語る。
「といっても、その孤独とは、先天的なものではない。最初から独りで生きているのなら、独りでいることをなんとも思わないでしょう」
けれど、私は違う。
「誰かと、ともに在ることの暖かさを知って。何かを、心の拠りどころとして生きることの心強さを知って。そして──そのすべてを失った」
その、どうしようもなく深く暗い孤独が。
「魔女が魔女であることの、条件なのだと思う」
だから、きっと。
あの日の私が、そうだったのだ。
異端な本の虫である私を受けいれてくれた、優しい弟を失った。
幼い私の胸を焦がしていた、『魔法の探究』が語る信念を見失った。
その日に私は、魔女に堕ちたのだ。
◆
だから私はあの村を焼いた。
◆
その行動に、ためらいがあったといえば嘘になる。
家を焼くことに、迷いはなかった。弟と、過ごした家だ。ささやかで大切な思い出と、幾度読み返した本が眠る家だ。
弔いの火をつけるには、充分な理由だろう。
「…………」
いつの日か、おじから聞いた話を思いだす。
両親について。私が知っている、数少ない情報のひとつ。
彼らは火葬に付されたと知ったのは、いつだっただろう。
同じ墓に骨を入れてやれないことが、少しだけ心苦しい。
弔いの炎は、天高く燃えあがる。
安らかに瞳を閉じた弟も、忌むべきであろう呪いの本も、愛すべき私の蔵書も、『魔法の探究』も、すべてを等しく、灰に還していく。
「……いや、呪いの本は燃え残りそうだなぁ」
ぼんやりと、呟く。まあ、そのときはそのときである。せめて燃え尽きるまでは、ここで見守ることにしよう。
そう考えたところで、背後の喧騒に私は振り向いた。村人たちが、なんだか騒いでいる。突然自分の家を燃やした狂人、に向ける視線にしてはどうも憎悪の色が強い。……と、そこで思い出した。弟と一緒に死んでいた村人連中か。あいつらを私が殺した、と思われているのだろうか。
……確かに、そう考えることもできる。私の愚かさが弟を殺した。その巻き添えになって彼らは死んだ。つまり私が彼らを殺した。……と、いうことになるのだろうか。
正直なところ、どうでもよかった。
彼らに思い入れはない。弟以外の村人に、関心はない。
弟を弔う、そのついでに火葬してやった、なんて善人面をするつもりはないが。家を燃やす際に弟以外の屍体だけ運びだすのも、自分が殺したわけではないと言い訳するのも面倒だった。
そんなことを考えながら、黙っていた。その間に、村人たちの興奮は激化していた。
怒りの騒ぎが、大きくなる。泣き叫ぶ声も、音量を増す。
まあ、耳に障るだけなら別によかったのだが。
石を投げられ、刃物を向けられるとなると、流石に我慢してもいられない。
自分がこれからやろうとすることの罪深さを、自覚していなかったわけではない。
でも、今更だった。
弟を殺したことが私の最大の罪だろう。それ以上のこと、なんて考えられなかったし、それに。
正直なところ、どうでもよかった。
「……いっそ、全部焼いてしまおう」
◆
結局、村を焼く炎が尽きるまでに、それから数日ほど待つ羽目になった。村を囲う森に延焼することを防いだり、生き残る者がいないよう丁寧にすべてを焼き尽くしたり、といった苦労話もあるが、語るほどではない。
幸いなことに、我が家の焼け跡を見にいくと、呪いの本が燃え残った様子はなかった。やはり、呪われていようと本は本である。火には弱いらしい。
もちろん私の蔵書もすべて焼けてしまったが、後悔はない。弟は自分の火葬に本を供えられても喜ばないだろうが、これは私の問題だ。この家と訣別するのと同じように、蔵書にも別れを告げておきたかった。
あの本を持ってきてくれたおじには、少し申し訳なく思うが。
ともあれ、これで後腐れはない。腐るものはすべて燃えてしまった。村を出て旅するうえでの着替えの服を持ち出し忘れたのは失敗だったが、まあたいしたことではない。
そうして私は、アプレイスと呼ばれていた村を後にした。
◆
あとはもう、語るようなことはない。
村を出た私が選んだのは、近くを流れるあの川の流れを辿ることだ。上下のどちらへ進むかで少し迷ったが、生計を立てるためには仕方なく、下流を辿って進むことにした。
行く先行く先の村で、泊まる家を探したり食事をしたりの繰り返しだ。文字を読めたおかげで、適当な仕事で日銭を稼ぐことができた。女かつ子どもの一人旅は危なかったが、魔術を使えば凌ぐことはできた。
そして数年後、まあいろいろあった末に、この学園にやってきたというわけだ。
それからのことは、知ってのとおりである。王国で最も知的水準が高いだろうこの学園でもあの村同様に疎まれたのには驚いたが、さらに面白かったのは、『図書室の魔女』の噂が流れたときだ。
笑ってしまう。
あの村が、異端であるとして焼き払われたなんて。その発端が、魔女と称される私だなんて。
構成要素が共通しているからこそ、なおさら笑みを禁じえなかった。
異端だったのは、村ではなく私だけだ。
発端が私だったことは確かだが、あれは決して、魔女狩りではなかった。
魔女ごと村が焼き払われたのではなく魔女が村を焼いたのだ、と知ったら。彼らはどんな顔をするのだろうか。