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転:魔女は蘇る 1/3



   ◆



 一日目は結局、本そのものではなくその封印と格闘するだけで終わった。座学が基本で実践経験の少ない私には、あまりにも酷な厳重さであった。

 一応おじからは、どんなつてを辿ったのか知らないが、封を施したという魔術師の覚え書きを受け取ってもいた。しかし、その解読が非常に難しい。

 一般の簡単な封印とは魔術としての格に大きな差があるうえ、そもそも魔術体系の流儀すら違っていたため、記法に慣れるだけでもひと苦労だった。


 翌日もまた状況は変わらない。

 自分から呪いの書という禁忌に手を出したとはいえ、それに弟を巻きこむことは絶対に許されない。自ずと、探究に費やせる時間は少なくなった。いつ帰ってくるのか、と怯えながら、彼がいない間だけ作業を進めるようでは捗るはずもない。

 今日は封印術式についての書き置きを読み解くことに専念することでその問題を避けたが、本格的に研究を始めてしまうとそうはいかないだろう。


 三日目、そして四日目。

 ようやく封印術式を完全に理解した。一度外した封印を自分で掛け直すことすらできる。我ながら見事な手際ではないだろうか。

 とはいえ、弟が家を出てから封を解き、帰ってくる時機を見越して封じ直す、という工程を毎日経るというのは流石に面倒である。封印を外したままでも問題ないよう、対弟用の完璧な隠蔽方法を模索しなければならない。


 五日目だ。ついにこの日が訪れた。

 逸る気持ちを宥めつつ弟が外出したことを確認し、その帰宅を検知できるよう幾つか魔術を施した。加えて室内に魔なるものを祓う結界を張り、用意していた呪い避けの札やその他諸々を取り出した。手元にある魔術書に記されていた、ありとあらゆる呪い対策の総動員だ。

 これで準備は万端である。

 座卓の前に正しく座り、一応身体は入り口のほうへ向けつつ、卓上のそれと正対する。


 封印の解けたその本は、気を抜けば圧倒されそうなほどに濃密な瘴気を発しているように思われる。

 思いたくなるがそれは錯覚で、一見ではいたって普通の本である。封印されていた際に感じられた威圧感は、封印そのものに依る魔力だったのだろうか。


 表紙には、見るからに高級な黒地の革に、人血のような朱い文字が刻まれている。本物の血液ではないと思いたいが、しかしそう信じてしまいたくなるのは不吉な書体ゆえだろうか。

 どうやら異国か、あるいは古代の言語のようで、表題の意図はわからなかった。

 私自身の容姿と同じ色彩をしているのは偶然か、それとも運命なのか。


 ごくり、と息を呑む。

 ゆっくりと手を伸ばし、表紙の端へ触れて、頁をひとつ捲った。


 ……何も起こらない。


 暗色をした硬い表紙とは違い、中身には柔らかい、茶色じみた白色紙が使われていた。表紙同様良質ではあるが、原料としては羊皮か、そのあたりだろう。

 あるいは人皮、という可能性が浮かんでしまうのは、呪いの書という偏見ゆえなのか。


 表紙と同じ文字列が記されている以外は、特段何もないありふれた表紙裏だった。これが表題であると考えてよいのだろうか。文字の意味がわからないためどうも緊張感が湧いてこないが、しかし油断は禁物だ。読み手が理解しているか、とは無関係に影響する呪詛の可能性は決して否定できない。


 頁を捲る。目次と思しき文字の羅列があった。

 何も起こらない。


 頁を捲る。第一章、と読むのだろう。そう推測される、見出しがあった。おそらくこれが数字なのだろう、と見当をつける。見当はつくが、しかしそれだけだ。

 何も起こらない。


 頁を捲る。本文のようだ。読めないが。何も起こらない。


 頁を捲る。読めない。何も起こらない。


 頁を捲る。何も起こらない。頁を捲る。何も起こらない。


 頁を捲る。頁を捲る。頁を捲る。何も、何も起こらない。


 頁を捲るたびに、少しずつ頭がぼうっとしていった。


 頁を捲る音が淡々と、同じ間隔で耳へと届いてくる。


 頁を捲る。捲っても、わからない。不明な記号の列。


 頁を捲る。文字が蠢いているようないや錯覚だろう。


 頁を捲る、手が止まらない。


 頁を捲る、動きが止められない。


 頁を捲る。頁を捲り、頁を捲って、頁を捲る。


 頁を捲れない。


「…………?」


 気がつくと頁数が尽きていた。顔を上げるとすっかり夜だった。立とうとして体が軋む。折り畳んでいた足が痛い。

 震える小動物のように必死で腰を上げ、部屋を見渡した。弟が出かけた直後との違いはほとんど見られない。室内の結界も、呪い避けの札等々もそのままだ。

 その一方で、弟の帰宅を検知する術式の効果は切れていた。いや、これは正常に機能して、そのまま消えたのだろうか。

 寝室に足を運ぶと、すでに彼は床についていた。


 認識した事実を整理して、背筋が冷えた。


 弟の帰宅にも気づくことなく、私はずっと、ずっとあの本を捲り続けていたのか。弟のほうは、その異常に気づかなかったのだろうか。

 ……それはありうるかもしれない。

 普段の私も、読書に熱中して返事を忘れることはあった。今日の私もそうだと判断して、敢えて声をかけなかったのかもしれない。


 しかし先ほどの私は、単に本に過集中していた、という形容で済むような生易しい状況ではなかった。対策の効果もなく、気づけば本に意識を奪われていた。

 自分が捲ったはずの頁の数は、明らかに見た目より多い。認識と実際との差異にいかなる術が作用していたのかは不明だが。


 これが呪い、なのだろうか?

 その強力さに戦慄すると同時に、……少しばかり、腑に落ちない点もあった。



 六日目。

 今日も弟が出かけたことを確かめて、昨日と同じ諸々を用意する。

 結界や札などに加えて、今回は別の魔術を展開していた。簡単にいえばその効果は、一定時間毎に魔術的な刺激を与えることで注意を喚起するものである。体内の魔力が揺さぶられる感覚、というべきか。

 すなわち眠気覚ましである。

 音や熱といった物理ではなく術理を頼るのは、本の呪いが科学的ではない可能性を高く見てのことだ。


 結論からいえば、この対策は成功した。

 そう、自分でも驚くほど呆気なく成功してしまったのだ。


 依然として、頁を捲るたび思考が朦朧としていくような気はする。しかし、完全に乗っ取られる前に魔術の効果で意識が覚醒する。それを繰り返して、あっという間に頁を捲り終えることができた。対策の魔術の反動で全身が痛みこそするが、しかしそれだけだ。

 かくて呪いは封殺された。


 拍子抜けである。


 もっとも、拍子抜けという点では呪いの効果自体も同じだった。

 確かに、止めることもできずに本を捲り続けてしまう、というのは恐ろしい。意識を奪われる、自由が失われる、強力な呪いではある。


 しかし命の危険を感じるほどではない。


 自分の身体を自分で制御できないだけ。生命力のような何かを奪われているような感じはなかった。魔力が極端に減少したわけでもない。ただ時間が失われた、それだけだ。


 本当にそれだけなのだろうか、と疑問に思う。

 本当にこの程度の呪いなのだろうか。


 呪いとは、魔法とは、神秘とは、この程度なのか?



 七日目。何度か試行を繰り返し、どれだけ対策をとれば安全に本を読めるのか検証する。

 室内に結界を張る必要はなかった。呪い避けの札は必要なかった。その他諸々の雑貨も必要なかった。本の呪いに意識を完全に奪われる前に覚醒させられるよう準備をしておけばよい。たったのそれだけで充分だ。

 本そのものを封印する必要すらないかもしれない。



 八日目。いろいろなことを試してはみるが、どれも行き詰まってしまう。

 封印は解けたし、呪いも無効化できた。あとは本の中身を理解するだけ……なのだが、この段階が最も難しい。

 なぜならそれは、魔術学ではなく言語学の領分である。

 未知の言語だから読解できない、それだけなのだ。一介の村人が扱える知識と情報のみでは限界がある。


 呪いがいかなる過程により発動するのかも気になるが、こちらも手の施しようがない。少なくとも、本に記されている記号列は非常に怪しいが、しかしそれを読み解けないのは前述のとおり。

 あるいはこの書物の色や形や、素材や頁数、などの中身以外の情報が意味をもつのかもしれないが……私の知識では何も思い浮かばない。


 生存と安全を確保することは簡単だが、現象そのものを根底から解明することは困難なのだ、と痛感させられた。



 そして、九日目。骨を休めることにした。

 ここ最近は引き籠もって根を詰め、ただひたすら探究を重ねる毎日だった。食事も休養もあまりとれていないし、だんだん身体も臭うようになってきている気がする。それは死活問題だし、ちょうど研究も手詰まりになっている。

 だから、今日はお休みにしよう。


 たっぷりと朝食をとってから、すっかり滞っていた家事を片づける。特に、研究のため散らかしてしまったぶんの掃除は重要だった。

 眠っている弟を起こさないように気を遣いつつ、呪いの書は他の本と同じところにしまうことにする。彼は本を読まないから、そこで大丈夫だろう。

 ……そういえば、ここ数日は弟と会話していないような気がする。今日の夕飯のときにはきちんと話をしたいものだ。


 雑事を終え、次いで必要な準備を整えると、裏口から家を出た。幸いなことに我が家は村の端に位置しており、他の村人に見られる心配はほとんどない。それでも少し早足で、村を囲う森に入る。

 人目が限りなく消えたことに安堵し、散歩気分で森の中を進んだ。しばらく歩いていくと、その先は川になっている。


 清流、と呼ぶに相応しいだろう。木洩れ陽が透き通った水をきらきらと輝かせている。流れる水の音、風に騒めく木々の音、どこかで鳴く小鳥の声、そのすべてが静けさのなかで快かった。

 着替えとして持参した服と着ていた服を川岸に並べて、ゆっくりと水に身を浸す。その冷たさに心が洗われるようだった。経験上誰かに見られる可能性は皆無といっていいだろうが、念のために幾つか魔術を使っておく。それから全身を川に委ねて、瞳を閉じる。


 川の流れは穏やかで、流される心配はなかった。とても安全だった。安全だから私は、ただ身を任せ、自らが浄化されていくような感覚を楽しむことができる。

 どこからくるとも、知らない川だ。どこへゆくのかも知らない川だ。けれど、何も知らなくても別にいいのではないだろうか。ただ、川はそこを流れている。私はそこで身を清められるし、服を洗うこともできる。それだけで、いいのではないか。


 川とは何かを知らなくてもいい。

 あの本の呪いとは何か、知らなくてもいい。


 圧倒的な自然のなかに包まれていると、そんなふうに、弱気な自分が顔を出そうとする。

 神秘は神秘のままにしておけばいい。生きていけるならそれでいい。そんな極めて簡単で単純な理屈に──しかしどうしても従えはしないのだと、私は知っている。


 それでも私の好奇心は、ずっと心の奥底で疼いている。


 この川は、どこから流れてくるのだろう。どこへ流れてゆくのだろうか。あるいは、果てなどないかもしれない。

 それを確かめたくて、心が止まらない。

 どうしても、気になるのだ。

 知りたくなる。今すぐにここから駆けだして、この清流が行き着く果てを、自分の目で、見たくなる。


 けれど、それにはまだ早い。川の長さの程度が不明である以上、できる限りの準備を整える必要がある。野宿になる可能性も高い。しかし、弟を放置するわけにはいかない。

 姉弟で互いに独立した暮らしを営める日までは、あてのない探究の旅路を行くことはできない。


 それに、今の私には、もっと知りたいことがある。


 あの本の呪いは、本当にあの程度なのか。もしそうだとしたら、おじがあれほどに警戒していたのはなぜなのか。その矛盾はどうして生じているのか。そこには何が隠れているのか。背後にはいかなる原理が働いているのだろうか。どんな秘密や神秘や、魔法が眠っているのだろうか。


 知りたいと思う。

 そんな欲望を、強く自覚する。


 だから私は、この場所が好きだった。単に身体や衣服を洗えるからというだけではなくて。自分の根本にある情動を再確認できる。いまだ知らない世界の一端に触れられる。知りたい、という衝動が、どうしようもなく胸を焦がす。


 本を読みたくなる。

 世界を知りたくなる。

 何かをわかりたくなる。


 清らかな水の流れに洗われて、ただ純粋な、望みだけを取りだすことができる。それが、私にとってのこの川だ。心の洗濯、とはよく言ったものだが。


 凝り固まった心と体を解して、晴れやかな心地のなかで私は考える。


 きっと、何かを見落としているのだろう。

 この本は真に危険な代物である、とおじは言っていた。しかしながら、これまでの私はその危険に触れていない。

 発動条件が特殊なのだろうか。

 本を読む状況が重要なのだろうか。

 いっそのこと、おじに情報を求めてしまおうか。


 焦らなくてもいい、と自分に言い聞かせる。呪いを解明する速さを競っているわけではない。自分だけで研究することにこだわりがあるわけではない。他者の意見や視点を採り入れることも大切だ。


 だから今は、ここで疲れを洗い流して。家に戻ったら、久しぶりに弟とのんびり話して。それから『魔法の探究』でも読もう、と。そんなふうに、私は考える。



 もはやすべてが手遅れだとも知らずに。


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