承:魔女の隠れ村 2/2
◆
それからしばらくして。
陽光が直上を過ぎて斜めに差し始めた頃、家事を片づけて読書を満喫していた私は、誰かが戸外から呼ぶ声に顔を上げた。弟が帰ってくるにはまだ早い。この村の誰かであると考えるには、呼び声には悪意や憎悪や苛立ちが足りない。
となると、心当たりはひとりだった。
本を閉じて外に出ると、家の前に大きな馬車が鎮座していた。その前方の人影が、私に気づいて軽く手をあげる。
「よう、姪っ子」
「……どうも」
その呼称はなんとかならないものか、と呼ばれるたびに考えるが、相手の素性をきちんと覚えていない私には何も言えなかった。父と母のどちらの血縁だったか、兄と弟のどちらだったか、初対面の際に聞いた気もするが定かではない。
間違いないのは、彼が私にとって、おじさんと呼ぶべき存在であることだけだ。
「とりあえず、いつものように食べ物はある程度仕入れてきたぞ」
「ありがとうございます」
「一応訊いておくが、前のは腐らせたりしてないよな」
「大丈夫です。保存用の魔術は優先的に練習しているので」
住所不定の行商人であるらしい彼は、父あるいは母との血の繋がりゆえか、親のない私たちに食料を恵んでくれる。無償の支援は確かにありがたいのだが、そこで自分が姪甥を保護しようとはしないあたりにこのおじの人格が表出していると思う。
餌さえ遣っていれば勝手に育つ愛玩動物……と考えているわけではないだろうが、しかし子育ての労力を費やすつもりも一切ないらしい。
外見にも彼の特徴は強く表れている。
黄金の髪に翡翠の瞳、と喩えてしまいたくなるほど煌びやかな容姿、そしていかにも金持ちらしい豪華な服装に比して、豊かな口髭と常に微笑している口許、さらに一切笑っていない目つきがあまりにも胡散臭い。
この人はいったい何者なのだろう、と会うたびに思うが、しかし絶対に深入りはしたくない、とも強く感じる。
加えて、下手なことを尋ねておじの機嫌を損ねたくない理由は別にもあった。
「それと、こっちは今回の収穫物だ。それほど貴重なものではないから扱いは気にしなくていい」
そう言いながら、取り出した本を放り投げてくる。扱いを気にしないにも限度があるだろう、と慌てて受け止めて、ひとしきり眺めてみる。
……王国の技術とは到底思えない見事なつくりで、思わず感嘆の吐息が洩れた。
「これは……、ありがとうございます。今度のはどこの由来ですか?」
「隣の帝国の市で見つけた魔術書だ。といっても、あちらさんではたいして珍しいものでもないらしくてな。値切りを交渉するまでもなかった」
「これほどに巧みな写本がそれほど珍しくない、とは……。この国にも見習ってほしいものですが」
「まぁ、当分は無理そうだなぁ」
どこか遠くを見るような表情でおじは苦笑する。村の外をほとんど知らない私は、そういうものなのか、と感じるだけだが、事情通らしい彼には思うところがあるのだろう。
書籍の流通に思考を巡らせるのはほどほどにしておいて、ひとまず食料を家に運ぶことにする。
重い荷物を持って、家への出入りを繰り返すこと数回。そのたびにいちいち履物を着脱するのは結構面倒なのだが、おじは何も手伝うことなく馬車に凭れて作業を眺めていた。
なんとも薄情な人である。
結局、私が作業を終えるのをずっと見守っていたおじは、そのまま馬車に乗って去っていった。多大な存在感を放つそれが消えた途端に近所の人目が気に障り、用もないので私も家に戻ることにする。
あとは静かな一日だった。弟が帰ってくるまで本を読み、夜の食事は一緒に終える。そのころにはもう、暗くて文字は読みづらくなっている。魔術により明かりをつけることもできるが、弟の眠りを妨げるのも忍びない。無理に夜を徹して起きる理由もないので、私も床に着くことにした。
村に住んでいた当時の私は、概ねそんな毎日を過ごしていた。
◇
「私が思う魔女の条件とは」
と。回想にいったん区切りをつけた私は、その途中で思いついたことを代わりに口にする。
「そのひとつは──異端であることではないか、と思う。あるいは異質とか、言い方はなんでもいいけど、つまりは周囲と違うこと」
違うものには共感できない。共感なしには理解できない。
「そして人は、理解できないものを恐れる」
その恐れこそが、魔女を魔女と称させる一因ではないか。
「実際、この点についての私は、今も昔もたいして変わらない。散々語ったあとだから言うまでもないと思うけど、黒髪に赤い瞳というのは、この国における普通とはあまりにかけ離れているから」
「……確かに。目の色はともかくとして、ぼくも容姿の面では心当たりがあるね。黒髪は疎まれやすい、というわけではなくて、あくまで環境の問題なんだろうけど。この国でこの髪だと嫌われやすい、というのは非常に共感できる。
……その点からすると、ぼくにはきみを魔女と恐れる理由があまりないのかもしれないね?」
「そうかもね」
軽口は横に流しつつ、その言葉には軽い衝撃を受けた。彼が私を恐れないのが嬉しい、ということではなく、その手前で。
彼が黒い髪をしている、そのことは改めて考えると非常に不自然ではないだろうか。
何度も、見るたびに思うことだ。
この少年はいたって平凡な顔つきをしている。と表現すると聞こえが悪いが、見方を変えれば親しみやすいということでもある。
そしてその、凡庸で親近感の湧く印象は、黒髪と真っ向から反している。
不思議だ。
気になる。
とはいえ、あなたの顔は普通ですよねと話を切りだすのも失礼なので訊きづらい。
いや、でも今の流れなら、比較的自然な質問なのではなかろうか。
「そういえば、あなたはどうして黒髪なの?」
「血縁じゃないかな」
端的だった。
「ぼくは隣の帝国の生まれだからね。そのせいだろう」
わかってしまえば実に呆気のない事実だった。となると、故郷での彼はさぞや親しまれていたのではないか。なのにそこを離れたのはなぜなのだろうか、という疑問が一瞬頭をよぎったが、それを尋ねるのは今度こそ無礼なので放棄した。
短い間に幾度も私が失礼なことを考えている一方で、彼は淡々と言葉を続ける。
「さっきまでの話だと、きみだけが黒髪であることの理由はわからないらしかったけれど、もしかしたらぼくと同じなのかもなのしれないね」
「……私の場合は、弟も両親もこの国の標準だから。おじもその点については確かな証言者だし、本当の理由は見当もつかないわね」
これは、嘘だった。
実際のところがどうだったのかはわからないが、しかし見当はついている。一族の中でひとりだけが異なるのなら、父親が違っていると考えるのが妥当だろう。
実の親と育ての親が別なのではないか、と。
しかし邪推に意味はない。真実はもはや闇の中だ。正確には火葬されたという両親の墓の中か、あるいは。
いずれにしても確かめる手段はないのだから、疑わしきは疑惑に留めておくべきだろう。
そんな内情を知ってか、彼は話の展開を逸らした。
「そうそう、さっきの話といえば……あの本、『魔法の探究』についての長広舌は、かなり余計じゃないかな? ぼくが聞きたいのは村焼きまでの経緯であって──」
「……当時の私の状況を語るうえでは、どうしても必要なことだからね。私がどれほどあの本に影響を受けていたか、という意味で」
「まあ、確かにね。語りたくなる気持ちはわかるし、実際に過去のきみが話していたことにも頷ける。あれはいい本だ。……奇跡を貶めるとか神をも殺すとかは、教会の人が聞いたら怒るだろうけど」
「そう、それこそがまさに、私が異端なる魔女である所以だったのだ──ということにしておこう」
「そうかもね?」
愉快そうに彼は微笑んでいる。してやったりの表情が、なんとも小憎たらしい。口調に熱が入ってつい語りすぎた自覚がないわけではないが、そこまで笑われるようなことだろうか。いや、思えば口が走りすぎて敬遠されるのは、まさに語った過去どおりの展開ではないだろうか。
……気にしないことにしよう。
こほん、とひとつ咳払いする。
ここから先は、深刻な話だ。
「本題に入ろう」
◆
以前におじが訪れた日から、それなりの時間が流れたころのことだ。
陽が沈んでは昇る、それを繰り返すこと数十回。帝国産の魔術書はすでに読み終えていた。興味深くはあったが、筆致が淡白でそれほどの面白みはない。
やはり原点が一番だ、ということで私は『魔法の探究』を読み返し始めていた。つまりはまあ、いつもどおりの日々だった。
ことの始まりは、そんなある日のことだ。
最近は出かけていることが多かった弟には珍しく、このときはおじの来訪に居合わせていた。例のごとく受け取った食料は、ふたりがかりなので簡単に家へと運びこめる。作業を終えた弟は、玄関に草履を脱ぎ散らしながら室内に戻っていく。それを叱りながら私も続こうとしたところで、見守っていたおじに呼び止められた。
「あいつには聞こえないところで話がしたい」
「……?」
密談の誘いだろうか。断る理由もないので頷くと、馬車の中へと促された。
「中って、こんなふうになっていたんですね……」
ありとあらゆる商品と思しきものが雑多に詰めこまれていた。食料品に飲料水に、酒に家具に小物に貴金属類に、その他見る限りでは分類不能なものの数々。
もちろん箱入りだったり包装されていたりが少なくないのだが、それ以上に、いや遥かに、散らばっているものが多かった。
比率ではなく物量の問題として。
異常なほどに。
訝しむ気配に気づいてか、先に入っていたおじがこちらを振り返った。
「おまえさんの好きな魔術ってやつだ。ちょいと中の空間をいじったり、重量をごまかしたりとかな。ついでに防音もしっかりしているから、内緒話にはぴったりってわけだ」
「へえ……」
「おっと、本題はそっちじゃねえ」
興味に任せてじっくり内部の魔術的機構を探ろうかと思ったら釘を刺されたので、仕方なくじっとしていることにする。
その様子におじは溜息をつくと、がらくたに見える山の中から、慎重にそれを取り出した。
ぞくりとする。
直接触れずとも、その物体が濃密な魔術の影響下にあることは明らかだった。これは、……封印されている、のか?
「どこで手に入れたのか、は言えない。冗談抜きで危険な代物らしい、とだけ言っておこう。
正直な話、持ってくるかは本気で迷ったよ。下手なことがあったらおまえの両親に申し訳が立たないからな。オレもこの商売を続けるなかでいろいろと悪どいこともやってきたが、実の姪を死に追いやるほど落ちぶれちゃあいない。
だけど、同時にこうも思った。
それは確信だった。
──おまえは間違いなく、この本に惹かれる」
それが危険であるほどに。
どれほど危うい呪いの書でも。
「おまえが、興味を抱かないはずがない。だから迷った。もしおまえがあの場所にいたとしたら、確実に購入を即断しただろうから。それほどの品を仕入れないとあっては、商人の名が廃る。だが、仕入れたら人間としての面子が潰れる。迷ったよ、これ以上なく。でも結論は出なかった。
──だから、任せることにした」
言って、おじはその本を、まっすぐに私へ差し向けた。
「おまえが選べ、姪っ子。垂涎ものの稀覯本を見逃して、退屈で安全な人生を歩むのか。あるいは、どんなに危険であったとしても、その好奇心を満たして一生を終えるのか。
──今、ここで選べ」
その態度を、無責任だと非難することもできた。肝心な部分での決断を放棄し、庇護者としての責任を果たさない罪悪であると。そう思うことも、できたのだろう。
けれど、私は嬉しかった。
それはまるで、おじが私のことを信頼してくれたかのようで。
一人前の大人として、自分の身を危険に晒す選択を怖れない人間として扱ってくれたようで。
そして私自身が、自分が下す決断に一切の迷いを抱かずにいられたことが、嬉しかった。
きっと、本当に危険なのだろう。
普段は雑に本を投げてくるようなあのおじが、これほどまで警戒し、渡すのをためらうほどの代物だ。並々ならぬ封印術式に雁字搦めで、それでもなお危うい匂いを漂わせている。
幾多の人の血を吸ったか知れない、正真正銘の呪いの書物だ。
しかし、だからこそ私は迷わなかった。
「答えは決まっています」
それが、得体の知れない呪いの掛かった、理解のできない本ならば。
人がまだ探究していない、今なお残る『魔法』のひとつであるなら。
ならば私がそれを解き明かしたい。
その欲求に、衝動に、私は逆らえない。──抗う術も、理由もなかった。
そうして私は、禁断の書に手を伸ばす。
その日がおじと会う最後の機会になるのだと、知るはずもなく。
◇
「私が思う魔女の条件。第二のそれは、異能であること」
といっても、異能という表現に拘っているわけではない。異能であろうと異才であろうと、同義であるならなんでもいい。
「確かあなたも言っていたよね。物語における魔女とは、常人とは異なった不思議な力をもつ存在だ、と」
私もその主張に同意する。
「魔女とは特別な力をそなえている──自分は特別であると認識している存在のこと」
けれどそれは、決して正の意味に限るわけではなくて。
「かつての私もその例に洩れなかった。自分は特別である──他人とは違うと、堅く信じていた」
危険で邪悪な呪いも自分なら解明できるかもしれない、と。
思いこんでいた。
「その傲慢さの報いを受ける、愚かな魔女が私だったの」