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曖昧な僕ら。  作者: 藤丸のりか
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【ポチとタマとなりたい自分】最終話

特売の帰り、BはAの背後を指さし…

もう日も暮れかけた夕方。

Bは、ニコチンが切れたAのために、公園のベンチで特売のトイレットペーパーに頬杖を突いた。

一人で出歩けなくなってしまったから、近所のスーパーの特売に行くだけも何をしているのか多忙な同居人に予定を合わせなければいけないから面倒だ。

何より、その度に呼び出される野良猫みたいな同居人の方が苛々している筈だが、煙草一本で落ち着いてくれるのなら、Bにとってこれ以上の事はない。

隣でAは、山頂の澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んだような表情をしている。


「なんだろ。人間終わって来ると通常の人間と感覚が真逆になるのかな。」


「あ?何の話だ?」


「うわ、口に出てた?」


「俺の話だな。」


「ふん、手でお尻を拭きたくなかったら煙草を下ろすんだね。」


Bは煙草を押し付けようとしたAにトイレットペーパーを掲げる。

Aはしばらく豆鉄砲を喰らった様な顔をした後、大人しく引き下がった。

Bが首を傾げてトイレットペーパーの陰から顔を出したので、考えを口にしてやる。


「おまえ、俺に似てきたな。」


「嘘だろ、おい。マジか。どの辺が?」


「口が悪いを通り越して汚ねえ。」


「やだ、何それ。Aの人間性の欠如って感染する類なの?ウィルス系なの?脳味噌のバグなの?Cさんタスケテー!」


「…。」


今度こそ許さねえと煙草を構えたAに対し、Bは目を丸くしてAの後ろを指さした。

Aは目を眇めた。


「ガキじゃねえんだ、その手にゃ乗らねえぞ。」


「いや、本当に。」


「だから、」


「結構大きいおじいちゃんハスキーが、止めようとしてるおじいちゃん引っ張ってめっちゃAの方に来ようとしてる。」


「…は?」


Aが振り返れば、おじいちゃんハスキーの力が強くなり、ついにおじいちゃんはリードを手離した。

おじいちゃんハスキーは早くはないけどしっかりとA目掛けて走り寄り、飛び付いた。

抱き締めるAに鼻で鳴いて懐くおじいちゃんハスキーに、Bの鼻がツンとした。


「ポチ。ポチじゃねえか。」


嘘だろ、おい。

Bは、感動の再会に釣られて漏れそうになった嗚咽を堪えるために顔の前まで持って行った両手で、必死に口を押さえた。

足元で進行する美しく尊い時間に、間違っても水を差してはいけない。

上を向いて笑いの波が去るのを待った。

普通なら何も面白くないのに、金髪無精髭の暴力暴言の権化がシベリアン・ハスキーに付けたのだと思うと、面白過ぎる。

じゃあAみたいな人が付けておかしくない名前や、ポチを飼っていておかしくなさそうな人を想像しかけて、思考が過去にぶっ飛んだ。


―*―*―


Bは、小学校に近くて安いボロアパートを見上げた。

一緒に帰っていた友達達はみんな、お洒落な新築の一軒家に帰って行った。

他とは違うなと思うだけで不満はない。

Bにとって家とは、雨風を凌げて、家族と穏やかに生活をする場所だ。

このボロアパートはそれを叶えてくれる。

しかし、いつかは大きな家を建ててお母さんを住まわせてあげるのだと決めている。

小学校の課題で将来の夢にも「もっと家事もできるようになって、いい職に就いてお金持ちになって、お母さんに楽をさせてあげたい」と書いた。

先生に指摘された通り、もう小学5年生だし、具体的な“いい職”を探し始めたところだ。

成績は全体的に悪い方ではない。


「お医者さんはお母さんが微妙な顔したしな。」


自分の生物学的な父親が医者である事は知っている。

それに対し、母親である香苗は竹を割った様な性格なので、もっとあっけらかんとするのだと思っていた。

流石の香苗もそこまで割り切れるものではないのだなと、Bは女心の複雑さを噛み締めながらランドセルから鍵を引っ張り出し、帰宅した。

靴を脱げば廊下もなく、リビングに直結している。

子どもの足で2歩先にダイニングテーブルがある。

木製で傷だらけの天版の上に、今日はカレンダーの裏を再利用したメモが乗っていた。


「やった!今日は牛肉が使える!」


それはBが使っても良い食材のリストで、香苗が買い足したものだ。

生活が辛くても取っている新聞の折り込み広告をBが熱心に見ているのに、香苗は気づいてくれたのだ。


「やっぱりカレーは牛肉だよね!」


そうとなれば早く洗濯物を取り込んで夕飯の支度だ。

香苗は大きな病院に勤める看護師だ。

昼夜問わず人のために尽くして疲れて帰って来る香苗に、美味しいご飯を食べてもらい、お腹を満たして幸福を感じてもらい、笑って欲しい。

それが幼い頃のBの生き甲斐だった。

しかし、その日、香苗は返って来なかった。

Bはインターホンに起こされ、もちろん出る事はなかったが、扉は勝手に開いた。


「どちら様ですか?」


当時、Bはすでに少林寺拳法で全国に名を馳せていた。

香苗に家計をやりくりしてもらって続けている習い事だ。

将来役に立ってもらうのも悪くないと、たくさん勉強してゆくゆくは警察庁に勤めるのもいいなと思っていた。

それでもまだ子どもだ。

大人の男数人相手に、必勝出来るとは言い難い。

隣で目元を押さえている大家さんにもう一度尋ねたら、先頭の知らない男性が口を開いた。


「私は君のお父さんだ。」


「…それは、どうも。初めまして。」


「ああ、香苗によく似ている。…香苗。」


泣き崩れた自称父親の背後に見つけた小柄な女性に、Bはやっと警戒を解いた。

和服がよく似合う、芯の強さが美貌に拍車をかける、一見中年だが実は還暦間近の女性だ。


「おばあちゃま。」


香苗は不倫を知らずにしてしまった事で、両親から勘当されていて、Bは一度も母方の親族に会った事がない。

それは父方も同じだが、父方の祖母だけはこうしてよく様子を見に来てくれたから、Bにとっての家族とは、母親と父方の祖母だけだ。


「巳鶴。驚かせてごめんなさいね。」


「お母さんは?」


「病院にいるわ。」


まだ働いているのかとBが心配をしたら、祖母は自称父親を部下に命じて外に連れ出し、代わってBの前に膝を突いた。


「あなたは私が守るからね。だから私には甘えていいのよ。いいえ、お願いだから甘えて頂戴。」


「おばあちゃまは体が弱いんだから無理しちゃ駄目だ。おばあちゃまとお母さんは僕が守るよ。」


Bは祖母に抱き締められ、それだけで自分もみんなと同じ黒い服を着なければならない事を悟った。


「ありがとう。本当にありがとう、巳鶴。…うちの馬鹿息子が、本当にごめんなさい。」


咳き込む祖母の背を支えたのは、自称父親によく似た若い男性だった。

とても格好よく、凛々しい人だと、Bは思った。


「巳鶴君。俺をどう思うかは君の自由だ。でも、どんな俺にも甘えてくれていいからね。」


その言葉が本当に嬉しくて、安心して、自称父親なんかに見せたくなくて堪えていた涙が素直に溢れ出した。


―*―*―


お母さんが交通事故で死んだ。

泣いたのはその日だけだ。

祖母と父と長兄は優しかったが、父と長兄には甘えようとは思わなかった。

藤崎家に世話になる以外に迷惑をかけたくなかった。

父が一言でもBに「愛しているのは香苗だ」なんて言おうものなら、その時点で一発親父の横っ面にぶち込んでから家出する気概だった。

父の本妻の春華が怖いし、その取り巻きももっと怖いし、春華の実家が藤崎家以上のお金持ちである事から、転校したお金持ち学校に通う同級生の殆どが春華側の人間だ。

自分にそのつもりがなくても、その瞬間、多勢に無勢の負け戦が始まる。

何より、春華が可哀想だった。

春華の性格はこんな事がなくても悪いし、父はお互い政略結婚だと認識していると思っているかもしれないが、春華は心から父を愛しているから不義の子が許せない。

それだけだ。

誰もが納得で、Bも自分が同じ立場なら同じ事をするどころか、春華の様に愛し続ける事は到底できないし、実家がお金持ちなのをいい事に然るべき復讐をした筈だ。

そう思うと、春華の事を嫌いになる事はできなかった。

だからといって、嫌がらせと嫌みの数々を我慢できるかと言えばそんな訳がない。

そういう時は祖母に甘えさせてもらった。


「巳鶴は何になりたい?」


「え?医者にならなきゃいけないんじゃないの?」


祖母の膝の上で丸まる白猫が欠伸を漏らした。

名前はタマだ。

どこからともなく祖母の住まう離れに迷い込み、居座り、祖母が名前がないのは不便だからとタマと付けた。

Bにとってタマ=ネコ、ポチ=イヌと同じ認識だったので、美しく上品な祖母がタマを呼ぶ度に「ネコ?どこなのネコ?」と言っている様でおかしかった。

祖母はタマの背を撫でた。

猫の毛が体によくないのでマスクをしているが、目元だけで微笑んでいるのがわかる。


「それはこの家にずっといればの話でしょう。寂しいけれど、あなたは自由なのよ。」


「だったら僕、おばあちゃんを守るSPになりたいな。」


誘拐を防ぐ為に藤崎家の女子どもはもちろん、成人男性も常に誰かを侍らせている。

大きな家を建てる必要がなくなったBは、密かにその職業に憧れていた。

祖母は嬉しそうにしてくれたが、Bにもその複雑な笑みの意味がわかっていた。

Bの夢はいつも誰かのためで、それが悪い事ではないが、香苗が死んでしまい、祖母まで死んだら、思い出以外何も残らない。

むしろその思い出のせいで未来を生きられないかもしれない。


「今はそれしか思い浮かばないんだ。」


「いいのよ。巳鶴は優しいいい子ね。おばあちゃんは嬉しいわ。」


「いい子であろうとはしているけど、優しいのかどうかはわからない。周囲の反対を押し切ってもやりたい事ができたら、僕はきっとやりたい事をするよ。」


うわ、それじゃあの父親と同じじゃないか。

言葉にはしなかったが、露骨に表情を歪めたら祖母は心の底から笑った。


「私は巳鶴が私の孫で本当に嬉しいわ。誇らしいわ。」


「褒め過ぎだよ。稀一兄さんや双葉兄さんの方がよっぽど凄い人達だと思うよ。」


「勿論、稀一や双葉も自慢の孫よ。だからって、巳鶴の自慢をしてはいけない訳ではないでしょう?オリンピックだって表彰台は3人まで乗れるわ。」


「ふふ。おばあちゃんはたまに面白い事を言うね。」


「私も、巳鶴に笑って欲しいもの。」


タマが祖母の膝の上で毛を逆立てて威嚇を始めた。


「巳鶴。またおばあ様の所にいたのか。そろそろご飯だぞ。」


タマは何故か長兄稀一を嫌っていて、双葉には無関心で、Bには年上面で接する。

今も、祖母の膝から飛び出し、稀一からBを守る様に立ちはだかっている。


「タマさん、すみません。巳鶴は僕達の家族なんです。一緒にご飯を食べさせて下さい。」


猫にも真摯な稀一に、Bは呆れ余って尊敬百倍だ。

その時は、どうしてあの父親から稀一の様な子どもが生まれたのか不思議だった。

あんなにも姿形は似ているのに、Bが父親と稀一に覚えた印象は雲泥の差だった。

父親も穏やかで物腰が柔らかく、相手を騙してまで不倫なんて絶対にしなさそうな真面目な人だった。

そこで気が付くべきだったのだ。

藤崎家の子ども達の中で、唯一双葉だけが父親に似ていない事に、気が付くべきだった。


“いい子であろうとはしているけど、優しいのかどうかはわからない。周囲の反対を押し切ってもやりたい事ができたら、僕はきっとやりたい事をする。”


それは父親から始まり、稀一に受け継がれ、容姿は香苗譲りのBの中にもくすぶっていたのだ。


『巳鶴。俺、婚約する事になったんだ。』


それは、稀一が研修医として大学病院に勤務し一年目、Bが高校2年生の時だった。


『巳鶴、俺が結婚しても寂しがる事はないよ。俺をどう思うかはおまえの自由だ。でも、どんな俺にも甘えてくれていいからな。』


ベッドの中で言われた言葉は、Bが最後に泣いた時と同じ言葉だった。

それなのに、一気に興醒めた。

自分を選んでくれるとは思っていなかった。

でも、この人なら父親の様に誰かを悲しませる事もないと思っていた。

そう、信じていた。

だから、この人が望むなら何でも応えようと思っていた。

それが一途な藤崎 稀一の“想い”やそこから生じた“この関係”を覆す選択だろうが、縁談を蹴ってこれまでの様に藤崎家の長男として褒められたものではない人生を強行しようが、祖母と母が死んだ今、誰かのためでないと生きられないBにとっては望むところだった。


『巳鶴、愛しているよ。』


不幸中の幸いは、吐き気が込み上げたその日から、多忙な研修医は家に帰る時間すらなくなった事だった。


―*―*―


上を向いたままだったBは、今自分があの時堪えていたものを吐き出したらマーライオンという仇名を付けられそうだなと思った。

しかし、間違えてもそんな事にはならない。

堪えて見せる。

足元の、人間終わったおっさんの、辛うじて残っていた人間性が生み出しまだ続いている美しい再会の感動にゲロを差す訳にはいかないのだ。

これでもう少し丸くなってくれるといいなと祈りながら、色々ごっくんして視線を目の高さに戻したら、ぼうっとしていたおじいちゃんと目が合った。


「あ、すみません。この人、見た目からは想像できないでしょうが、かなりの動物好きなので安心して下さい。人間には危害を加えても何とも思いませんが、動物関係の募金箱にはその時持ってる紙幣の一番高い奴を脊髄反射で投げるレベルで思いやりに溢れていますから。」


「わしはその子に拾われたんじゃ。」


「…はい?」


わしがその子を拾ったんじゃなく?

Bが素直に首を傾げれば、おじいちゃんは楽しそうに笑った。


「ほっほっ。そこのお兄さんがうっかり逃がしてくれたおかげで助かった命じゃ。お兄さんにも感謝せんといかんなあ。」


「いや、しなくていいです。美談に水差したくないんで言いませんけど、うっかりじゃなくてちゃっかりだしその理由があまりにもしょうもないので。人間のできてるわんちゃんにひたすら感謝するだけで十分です。」


「ほっほっ。」


「それに、」


あ、このおじいちゃん、堅気の人じゃなかったんだな。

最近、同居人の所為で嫌な方面で目が肥えてしまった。


「こんなにお年寄りになっても元気いっぱいなんて凄いですよ。愛情込めて飼ってくれた証です。それが何よりこのおっさんは嬉しくて、何ものにも代えがたい感謝の意に代わってますよ。って、言葉が変ですね。」


「ほっほっほ!何度も言うが、わしがその子に拾われて飼われているんじゃ。日々、捨てられん様に必死じゃて。」


「うちの今の犬もそれくらい殊勝だといいんだけどな。」


「何だと!?」


やっと落ち着いたAが、おじいちゃんにリードを差し出した。

受け取らないおじいちゃんに、ポチが唸った。

歳をとってもハスキーはハスキーで、迫力満点だ。

Bは思わず距離を取った。


「おお、怖い怖い。」


おじいちゃんはリードを受け取り、Aに頭を下げた。

Aは「おう」と短く応えてトイレットペーパーを肩に担いで背中を見せた。

Bはおじいちゃんに頭を下げ、Aを追い駆けた。


―*―*―


「ねえ、連絡先聞かなくてもよかったの?」


「必要ねえ。」


「どうして?近所に住んでるならいつでも会えるだろ?」


「あいつも俺も元気に暮らしてるってわかった。それだけで十分だ。」


「そんなもん?」


「そんなもんだろ。」


「二人の愛はそんなもんに見えなかったんだけど。」


「なんだ、ヤキモチ妬いてんのか?」


「はぐらかそうとするならもっと現実味のある冗談ぶっこけ。」


Aは苦い顔で新しい煙草に火を点けた。


「もう新しい、毛のねえデカい犬飼ってるからな。」


「人をハゲみたいに言うな。それに僕とあの子と全然違うだろ?人間と犬ってだけじゃなく、Aにとっての存在の大きさ的なsomethingが。」


「ああ?妙な英語の使い方すんな。一瞬意味がわからなかった。」


「僕も、どう表現していいかわからなかったからね。でもはっきりしたんだ。」


Bは煙草を投げ捨て踏み躙ったAに、トイレットペーパーを投げ付けた。

Aは怒らない。


「ねえ、A。僕がいなくなったら、ポチ君の時くらい寂しい?」


「うまい飯が食えなくなるのも、ゴミが勝手に消えねえのも、汚れた洗濯物が勝手に綺麗にならねえのも残念だが、それ以上に清々する。」


「ふっふっふ。それだけAにとって僕の存在が大きかったと思うといい気がするね。」


Bはゆっくり一歩、後ずさる。


「僕、思い出したんだ。」


Bは眼鏡を外し、おでこを出していた髪留めを毟り取った。

その二つをAに投げ付けた。

眼鏡のフレームは母親の形見で、髪止めはAがあげたラビットファーの飾りゴムだ。

Bのさらさらの前髪が、毛穴のないBの白い肌を撫でる。


「出なくていいの?」


さっきからAのスマホはずっと震えている。

しかし、AはBが投げ付け受け止めた、Bの僕流を眺めたまま動かない。

Bはまた一歩下がり、微笑んだ。


「僕は藤崎 巳鶴。母に先立たれ、大好きだった祖母にも先立たれ、初めての男、腹違いの兄に裏切られ、他に何かないかと夜の路地裏をうろついていた、“僕流”とか言っておきながら“自分が一番何もない”僕の世界で何よりもしょうもない男だ。」


「そんな事ぁねえ。」


Aは長い前髪に目を隠し、口元だけで笑った。


「巳鶴。てめえがいい子じゃねえのは俺も身に沁みてよく知ってる。強かで腹黒いが、それでも、損得勘定抜きで本気で他人の心配ができる奴だ。」


Bは首を横に振り、一歩下がった。


「それはそこに僕がないからだ。僕が僕自身に価値を見出していなかったから、僕よりも価値のある人が得をした方がいいと思って行動しただけだ。」


もう一歩下がろうとするBを止める様な呼吸で、Aは問う。


「じゃあ、なんであの時。俺を助けた?」


「Aを助けるのは、自分の家出先を守るためだ。」


「違うだろ、巳鶴。俺は巳鶴に聞いてんだ。」


首を傾げるBに、Aは呆れて笑った。


「んだよ、マジで覚えてねえのか。すげえな、おい。」


斜め上を見て思い出そうとしているBは、両足を揃えた。

立ち止ったのだ。


「路地裏で確実に喧嘩で怪我して蹲ってる薄汚ねえ男を、テメエは拾ったんだよ。何の価値もねえ、むしろ生きてる方が迷惑な害虫みてえな男を、平和な人生を放り出して拾ったんだ。」


「あ、」


Bの目が大きく見開いた。


「ああ!あの後どうしてんのかなとは思ってたけど、元気そうでよかったよ。」


「ぶっは!」


Aは大きく吹き出した。


「おまえ、マジで最高だわ。最高の馬鹿だよ。」


「最高の阿呆に何も言われたくねえよ。」


Bは微笑んだ。

それがあまりにも綺麗で、Aは見惚れる。

Bは大きく頷いた。


「そうか。馬鹿だと思っちゃいたけど、僕もやるじゃないか。」


自分の左胸を右手で叩き、左手で空を切った。


「それまでの人生が平和なんて、そんな筈がない。あんたらに比べたら微温湯なのかもしれないけど、僕らの言う普通の人生からは程遠かった。それを嘆く気はないけど、僕はあなたを拾って本当に良かった。おかげで、見つけたんだ。」


今度は両手を広げてみせる。


「ねえ、A。やっぱり僕はポチ君にヤキモチを妬いたんだよ。僕はあなたに寂しがって欲しい、必要とされたいんだ。」


「それが将来の夢か?」


「ううん、医者になりたい。」


目を丸くしたAは、微笑んだ。

Bが見なかった事を後悔する様な、珍しい微笑みだった。


「おまえならなれる。もう、寄り道なんてすんじゃねえぞ。」


「もちろん。最短距離で医者の資格をとるよ。」


「がんばれよ。」


「おう。」


Bの足が浮く。


「あなたは僕にとってとても価値のある人だ。だから僕がいなくても自分を大事にしてね。」


最後の一歩が途中で止まる。


「そうだ。僕、今Cさんと付き合ってるんだけど。」


「ああ、なんか風雅が怒ってたな。」


「謝っといて。」


「やなこった。自分で謝れ。」


Bの足が地面に着く。

Aの間合いから出た瞬間、茂みから鮫島率いる藤崎家の秘書兼護衛と、変装したFとGとボスが飛び出した。

Bは鮫島に羽交い絞めにされながら、ぼやけた視界で誰がどこに行ったかわからないのに、自分でそうしたのに、目を凝らして長く見送った。


「ああ、名前くらい聞いておけばよかった。」


お互い元気にやってるなら、それだけで十分だと自分に言い聞かせた。

藤崎家三男誘拐事件は三男の保護を以って解決したが、新聞をにぎわせる事はなかった。

被害届も出される事はなく、三男がそれまでどうしていたのかを語る事もなかった。


―*―*―


水も物資も貴重で餓える上に、気を抜くと砂まみれになる危険地帯から、金と石油が国民を幸福にする国を経由し、人種の坩堝で銃社会ではあるが慣れ親しんだ民主主義の国に着いたら、誰でも気が抜けて疲れがどっと押し寄せるに決まっている。

2、3日泥の様に眠り、何か遭った時の保険に相部屋にしていた同僚も流石に目を覚ましていた。

カーテンを開けたが、もう既に日は沈んでいた。

同僚は少し先に起きていた様で、何やら調べていた。


「Fungry。」


「俺もや。」


英語で話しかけた筈なのに、返って来たのは関西弁だ。

釣られて日本語にもなる。


「ルームサービス呼べ。」


「頭痛いくらいカロリー欲しとんのに一流ホテルのサンドイッチで足るかボケ。せっかくメタボ大国に来たんや。ジャンクフードを死ぬほど詰め込んだる。」


「ああ、そう。」


後に起きた方は乱れた髪を更に掻き回した。

こうなると同僚は意地でも目的を達成する。

まだ調べるようなので、先に風呂に入る事にした。


―*―*―


一人で行動するにはまだ、二人とも土地勘も体力も、何よりもカロリーが不足している。

ルームサービスでカロリーが足りる上品組はホテルに残し、体力馬鹿組は高層建築が立ち並ぶ賑やか過ぎる都会を歩いた。

日本では顔も身長もあれ程目立つ二人でも、この国に来れば変装しなくてもまったく人の意識に残らない。

傷だらけの体を露出していても、刺青が入っていても、全く以って寛容な社会だ。

英語も流暢で、日本語よりも容姿に合っていて不自然がない。

しかし、付き合いが長いと気になる事もある。


「おまえ、36にもなってその格好はどうした。」


その格好とは、ぴちTシャツにゆるGパンの郷に従った自分とは正反対の、細みのパンツに体型を隠すポンチョの事だ。

この国にはあまりなじみがないどころか、売っている所も限られている。

先に起きていたとはいえ、アマゾソのお急ぎ便でも限界がある。

同僚は事もなげに言う。


「あ?日本にいた時と同じじゃねえか。」


「空港にそんなもん売ってなかっただろ。どこから引っ張り出して来たんだって話だ。」


日本を出る時、全員が仕事道具以外の全ての持ち物を処分した筈だ。

つい先日までは自分と同じ戦闘服か、ファーストクラスのドレスコードに従いスーツを着用していた。


「歳とっても老けたくねえからな。体型維持のために服は高級品を長く着るに限る。」


「答えになってねえだろ。」


「インテリに不可能はねえって事だ。」


「はっ、よく言うぜ。今回の任務で見事、脳筋の名誉挽回したじゃねえか。」


「失恋の悲しみを忘れるためと、自分の不甲斐無さを乗り越えるためや。」


また関西弁に戻った同僚は、遠い目をしている。


「あの子ならそうやって生きるやろうなって、思ったからな。」


二人並んで人混みを避けながら、遠くを見る。


「あれから7年か。あっという間やったな。」


「うわ、加齢臭が漂ってきやがった。臭い付く前に離れろ。」


「マジでおまえ、なんで死なへんかったんやろうな。」


「さあ、なんでだろうな。」


同僚は片眉を上げた。


「ふん。あの子に自分を大事にって言われたからやろうが。」


「単純だって言いてえんだろうが、その一言でインテリから脳筋に戻ったテメエも似たようなもんだろ。」


「何の事やろ。覚えねえわ。」


「まだ恋人だって思ってんのはテメエだけだってのにな。高嶺の花気取りが、健気じゃねえか。」


「ふん。自然消滅ってのは二人の気持ちが離れた時に言うんや。俺はまだ離れてへん、俺達は恋人同士や。」


「風雅とヤリまくってたくせによく言うぜ。」


「視界に入った女はとりあえず狩るようなクズに何も言われたくねえな。」


どっちもどっちだ。

と、自分達よりも少し低い位置から呆れた声が聞こえてきそうなので、二人は気まずげに咳払いをしてこの話題を終わらせた。


「あの子ももう30歳か。元気かな。」


「元気だけが取り柄だろ。もう医者か?」


「いや、まだだろ。外国の大学に行ってりゃ話は別だが、日本の大学なら6年に加え2年の研修が必要だ。ああ、もう研修医ではあるのか。」


同僚の目が輝き出す。


「はあ、リアル白衣の天使。最高やん。保険証無いけどおじさんの深く傷ついた心を癒したってや。」


「おツム診て貰って呆れられてろ。」


「医者嫌いのテメエでもあの子にやったら素直に弱味、見せられるんじゃねえのか?」


「馬ー鹿。あいつにこそ見せられるかよ。何でこんな怪我するんだよとか、どうせ布団跳ねのけて寝てたんだろとか、拾い食いしたんだろ意地汚いなとか、ねちねちねちねち叱るに決まってる。」


「それ、過去にもう言われたやつだな?」


同僚はそろそろかと、スマホを取り出した。

最高の晩餐会会場だと、同僚の現地の友人に紹介された店は、一見さんお断りのゲイバーだった。

繁華街の裏路地に位置し、看板はなく、窓にはスモークが貼られていて中が見えないようになっている。

秘匿性が高い外装は、疲れた二人にはありがたかった。

周囲への警戒に神経を使わず、美味い物をしっかり味わって腹を満たし飲み明かしたい。

例え相手が唯一の話題を除いて拳以外での会話が成り立たない同僚であってもだ。

二人は軽い足取りで、黒い扉を開いた。


―*―*―


泡が飛び散る勢いでジョッキをぶつけた二人は暫く無言でカロリーを摂取していたが、そこそこ腹が満たされると箸休めに言葉を交わす様になった。

あまりに無言だと他の客に怪しまれるか、相手探しだと勘違いされて無駄に声をかけられるからだ。


「美しいってのは罪だな。」


「おい、誘いに乗るんじゃねえぞ。まだ食い足りねえ。」


「おまえをゲイの巣窟に置いてくと姐さんにいい土産話ができるんだけどな。」


「ざけんな。俺は女なら何でも食うがおまえと違って男にはうるせえんだよ。」


「一途な俺に何抜かしやがる。ま、自称美食家に朗報だ。この店のクイーンは物凄い可愛い子ちゃんらしい。」


「ふうん?」


しかし、店内を見回しても女装した男はいない。

同僚はもう少し詳しい情報を得るためにスマホを操作する。

現地の友人もまた、情報屋の様だ。


「何、何?この店のクイーンはドラァグクイーンではなく、高飛車なネコ様だってよ。タチが声をかけるんじゃなくて基本的にはクイーンからのお誘い待ちらしい。」


「とんだビ チだな。」


「それが短い金髪に大きな碧眼が魅力的な天使の様な容姿らしい。」


「そんな奴がなんでこんな所で男漁ってんだよ。」


「ストレスが溜まってるんだと。本業が忙し過ぎて、オフは酒と煙草と男に浸って憂さを晴らしているらしい。可哀想にな。」


「本業は?」


「医者だ。」


「衛生兵か?」


「小児科だと。」


「はっ、小児科のお医者先生が夜な夜な男漁りだと?世も末だな。どいつだ?」


もう一度二人は店内を見回した。

見つけたのは、カウンターの端でファー付きのミリタリーコートを着た小柄な男だった。

フードを被っているのは今夜はお誘いなしの合図だ。

どおりで店内は穏やかな雰囲気を通り越して活気がない。

だから、新参者に好奇の目が集まる。


「そのクイーンとやらに興味が湧いたな。」


「容姿に反して口が悪いを通り越してかなり汚いらしい。あと、キスはNG。かなり気難しい上に手が早くて強いから気をつけろとよ。」


「なんだよ、テメエも来んのかよ。」


「情報提供者はネコなんだが、気分によっては、ア ルにバ ブ突っ込みながらが条件だが、タチもやってくれるそうだ。その日の夜の事をかなりの長文で褒め称えてる。」


「おい、テメエと3Pなんざ死んでもごめんだぞ。」


「どっちが落とせるか、勝負しようぜ。」


「吠え面かくなよ。」


グラス片手に店内を目的に真っ直ぐ歩く二人は人目を引いた。

無関心なのはクイーンだけだ。

近くの灰皿は吸い殻が溢れている。

ビールを瓶から煽っている。

近付けば、煙にバニラの香りが混ざっていた。


「いい趣味してやがる。」


バーテンの視線でクイーンが気づき、振り返った。

しかし、その表情は殆どフードに隠れて伺えない。

ただ、ピアスが輝く唇は血色がよく、肌は白く、全貌を十分に期待させた。


―*―*―



「どいつの紹介か知らねえが、俺とヤリたきゃ先輩方に口説き方を教わってから出直しな。」


舌ピアスがその証の様に口の悪さは情報通り、声は意外と低い。

グラスを持つ手も白く形はいいが、ゴツい指輪が似合う筋肉質なものだ。

欧米人に比べ小柄とはいえ、間違いなく男らしい。

女らしさはないのに、クイーンと崇められるネコに、俄然興味が湧く。


「はっ、可哀想に。俺とヤリたくなっても生憎新参者でな、口説き方を教えてくれる先輩はまだいねえ。頑張って頭ぁ使うこった。」


クイーンの歪んでいた口が ぽかん と開いた。

今までそんな扱いを受けた事がないのだろう。

同僚はクイーンの隣に腰掛けて顔を近付けた。


「ふ、可愛い子ちゃん。こんな遅い時間まで飲み歩いて悪い子じゃねえか。クイーンの座は俺に譲って、深窓のプリンセス(本命の訪問を一途に待つ)に転職なんてどうだ?」


クイーンの目は丸く見開かれている。


「(カラーコンタクト?)」


同僚の目が一瞬眇められると、クイーンの顔は一気に真っ赤に染まった。


「え?」


驚く同僚からは目を逸らし、クイーンはまだ立ったままの男を睨み上げた。

男は金髪をラビットファーの飾りが付いたゴムで襟足を縛り、赤のセル眼鏡をかけている。

片目にカラーコンタクトを入れ、オッドアイを隠しているが間違いない。


「久し振りじゃねえか、クズ男。」


「おいおい、初対面で言ってくれるじゃねえか。ドビ チ。」


「ヤリチ に言われたくねえな。」


男が少し自分の行いを顧みていると、クイーンは荒々しく残りの酒を煽って立ち上がった。

首を仰け反らせる事で白い喉仏が上下し、フードが脱げて短髪が露わになった。

忙しかったのか、見事な金髪はプリンになっていた。

それをぼうっと見ていたAは、クイーンが空の瓶を握り締め、殴りかかって来たので慌てて避けた。


「うお!?ビビった!」


クイーンはボトムをインした重厚なミリタリーブーツでしっかりと床を踏み締め、仁王立っている。

鍵がぶら下がった胸は薄くて貧相だが、短いタンクトップスからはゴツいヘソピアスが見えている。

それはセクシーなどというものではなく、見事な腹筋に貫録をもたらすものだった。

同僚も台風の前の雲行きに、流石に立ち上がった。


「ミチェル、店でやるな。やるなら外に行け。」


バーテンダーが顎で出口を示す。

クイーンことミチェルは頷き、瓶をカウンターに戻した。


「出ろ。」


男と同僚は顔を見合わせ、頷き合った。

逃げよう。


―*―*―


店を出た途端、それまでそんな素振りを見せなかったのにいきなり走り出した二人を、ミチェルは読み通りとばかりに追い駆けて来た。


「待ちやがれ、殴らせろ!」


それがまた戦場帰りの二人が全く撒けない程の速さと持久力だ。


「嘘だろ!?」


「はあ!?何者だよ、あの子!?」


ならば障害物だと、二人は汚い街のゴミのバリケードや行き止まりの塀等を飛び越えたが、流石はヤンキーが蔓延る街だ。

危険で格好いいスポーツであるパルクールで鍛えているのか、距離はわずかも広がらない。


「あいつ本当に小児科の先生かよ!?」


「案外脱走した子どもを捕まえるのに必要な能力なんじゃねえの!?」


「成る程!?」


じゃあもう逃げても無駄っぽいしちょっと当てて眠らせてやろうと、二人は一斉に止まり、振り返って最初にした行動は、頭を抱えてしゃがみ込む事だった。

二人の頭上を、鋭い蹴りが通り過ぎた。

その鋭さたるや、ビル風で舞い上がった新聞を蹴破ったほどだ。

ミチェルは尻餅を突く二人を見下ろし、腕を組んだ。

容姿や言動から脳裏を過ぎったある可能性だけは信じがたかったが、今の蹴りで間違いない。


「B?」


「…。」


一瞬「ん?」と前のめりになったミチェル改めBは、目を据わらせた。


「え、今気づいたの?あんた本当に阿呆なの?」


今度は日本語だ。

間違いない。


「B君!?ほんまに天使になってもうたん!?」


「…えと、CさんはなんでAと一緒に逃げて来たんですか?」


「いや、なんとなく。ところでミチェルって?」


「ああ、ミツルって馴染みがないらしくて。近い発音の仇名がミチェルだったらしく、好きに呼ばせてます。」


「患者の子どもにも?」


「はい。ミチェル先生は大人気ですよ。」


間違いない。

慣れ親しんだ雰囲気に戻ったところでAが口を挟もうとしたら、Bに睨まれた。


「すみません、黙ります。」


Aは思わず謝罪し、体を縮めた。

BはつかつかとAに歩み寄り、Aを跨いで立ち止った。


「夢、叶ったよ。」


「お、おう。そいつぁおめでとう。」


「ありがとう。」


「「…。」」


無言の空気に、どうやら自分は巻き込まれていないCでも固唾を飲んだ。

しかし、直ぐになかなか話し出さない二人の作り出す空気に耐えられなくなった。


「夢叶ったて、まだ研修医やないの?」


「いいえ。実は僕、放送大学をバイト中に卒業していたので、学士入学制度を利用して大学3年に編入後大学で4年勉強して国家試験に合格。大学と親のコネでこっちの病院で研修医を経て一年目の新人医師です。」


「なんで小児科選んだん?」


「小児よりも厄介な患者二人の専属になるためには必要な経験だと思いましたので。」


立ち上がりかけたCを、Bは笑顔で居竦ませた。

目が全く以って笑っていない。


「もう逃がさねえぞ。」


今度は英語だ。

AとCは同時に頭を抱えた。


―*―*―


高級ホテルのロビーに似つかわしくない格好が目立つ事はなかった。

時刻は深夜だ。

Fは、黒い笑顔で斜に構えるBを見下ろし、深く重い溜め息を吐いた。

まだ寝足りず、ただでさえ頭が痛い。

AとCに叩き起こされたままのTシャツにGパンというラフな格好をしているが、紳士然とした態度は相変わらずだ。


「世間は狭いにもほどがあるだろう。」


「どこで何やってたのか知らねえけど、堅気の医者風情に捕まってる様じゃ終わってる。やっぱり流石のあんたらも歳には勝てねえようだな?」


「それは玲を意識しているのか?」


「何が。」


「その話し方だ。」


「いや?元々ヒアリングは得意だったんだが、スピーキングはこっちに来て覚えたんだ。学生時代から自棄酒かっ喰らってたら、気づけばその手の友達ばっかりだったってだけだ。」


「…。」


口調だけでない。

香る煙草の煙にはバニラの匂いが混じっている。

それは明らかにAが愛煙しているアークロイヤルのものだし、金髪は言わずもがな、ミリタリーコートは日本で体と刺青を見られない様にするためにAが愛用していたものだ。

しかし、本人は業に従った結果だと思っていて、無意識だ。

敢えて突いて自覚させる事はない。


「君のスラングは聞くに堪えない。日本語で話してくれないか?」


「はは!やだね。」


青筋を浮かべるFの隣で、Gはさめざめと泣いている。

薄いTシャツを押し上げる豊満な胸は健在だ。


「あんなに可愛かったB君が、こんなにも汚されてしまうなんて。やっぱり私達は堅気と関わるべきじゃなかったのね。」


「だから言ったじゃねえか。」


ボスはGの肩を抱き、頭を掻いた。

改めてBを上から下まで眺めて溜め息を吐いた。


「あーあー、どうすんの?コレ。おい、聞いてんのか?玲。」


「俺達じゃ手に余ったから上司に相談すべく連れて来たんだけど?」


「都合のいいこって。千隼。」


「悪いのは玲やろ?俺、悪くないもん。」


「テメエ、まだこの子の恋人のつもりなんだろ。何とかしやがれ。」


Fに睨まれたCは両手を上げて降参を示した。

次にFはBを睨んで、直ぐに止めた。

Bは少し目元を朱に染めて、目を逸らしていた。


「君、本気だったのか?」


「え?」


反応したのはCだ。

しかし、直ぐにBに睨まれて体を小さくした。


「Cさん。調子が狂うからあなたは少し黙ってて。」


「…はい。」


Bは息を吐き、雰囲気を改めた。

Fも態度を改める。


「B君。君は何ができる?」


「医療行為は勿論、少林寺拳法は今でも技を磨いているし、体力もあるのはあの二人に聞きゃわかるだろ。何より、情報屋の情報提供者でも落とせる趣味で磨いた超絶テクがあるぜ。」


「素晴らしい。」


BはFに差し出された手に、思わず仰け反ってしまった。


「白衣の天使。俺は君を快く迎え入れよう。」


「いったいどういう風の吹き回しだ?」


問うたのはAだ。

間に入り、Fを見下ろして睨んだ。


「堅気を巻き込むなって口を酸っぱくして言ってたのはテメエだろうが。」


「その子はもう堅気じゃない。その子は、B君は、褒められたものではないが、ずるずると関係を引き摺るのではなく、おまえ達と肩を並べられる様に一旦離れて、頑張ったんだ。医者がどれだけ貴重な人材か、脳味噌が筋肉だとわからないだろうな。」


Fは差し出していた手で、らしくなく頭を掻いた。


「流石の俺もそこまでの好意を無碍にはできない。それにB君は、医療、戦闘、色仕掛けの全てを供えた、最高の若い人材だ。本人が是非にと言うのであれば願ったり叶ったりだ。」


「例えそうでも、今は差し迫ったデカイ任務もねえんだ。要らねえだろ。」


「だからこそだ。危険度の少ない任務でチームワークを体に叩き込んでもらう。俺達のチームワークは最高のスタンドプレーが一つの目的を達成する事による結果論だからな。」


AがFに説得されそうになったので、今度はCが割り込んだ。


「恋人の俺はそれをどんな目で見とったらええの?」


「おまえが見ても見てなくてもやる事は変わらないだろう。だったら趣味ではなく任務として仕方なく目の届く範囲でやってもらった方がいいのではないのか?」


「ぐう。」


Cは堪らずBを見て、逃げられた。

背中を押され、前を向かせられる。


「…だから。」


「…ごめん。」


「甘酸っぱい空気ご馳走さん。だが、うちは社内恋愛禁止だぞ。」


黒くて小汚いおっさんの横やりに、Cはガッカリを通り越して絶望で顔色を悪くするが、Bはボスに歩み寄り、腹と腹をくっつけて見上げた。

かなりの身長差だが、Bはまったく臆していない。


「俺はノンケだ。ビ チのネコ様に用はねえぞ。」


「じゃあ尚更だ。ノンケのあんた落とせたら社内恋愛禁止とか言ってらんねえだろ?」


「清楚な子が好みなんだが、そういうプレイも希望したら応えてくれるのか?」


「まずはそのまま味わうのが大人の嗜みだろ?ケチャップはご不満があった時にかけてくれ。」


そこで初めてボスの口元が笑みに歪む。


「風雅、おまえはどうする?」


「ここのところご無沙汰だったからな。B君?」


「クイーンの称号嘗めんなよ。」


「え!?」


CはボスとFに背を押されて歩いて行くBに手を伸ばしたが、届かなかった。

というより、Bに後ろ手を振られてしまったからだ。

呆然とするCの肩に、Gは手を置いた。


「大丈夫?真っ青よ?」


「大丈夫に見えへんから聞いてくれたんやろ?」


「…まあ、ねえ。」


「ヤバい、泣きそう。」


「もう泣いてるわよ。」


「姐さん。頼むわ、そばに居ったってや。」


「もちろんよ。私も泣いてはいないけど、それなりに衝撃は受けていて、一人では処理し切れそうにないわ。」


手を取り合いソファに崩れ落ちる二人に、Aは欠伸を漏らした。

GはAを見上げ、目を眇めた。


「なんであんたは平気そうなのよ?」


「おまえの目は節穴だな。」


Cも同じ目で見ていたので、Aはおまえもかと呆れた。


「俺も泣きそうなんだよ。おまえらとは違う理由でな。」


「は?」


「何クソ俺もそっちの理由で泣きたいわ!やけど俺はおまえと違ごて彼氏やねん!悲しくもなるわ!」


「どういう事?」


首を傾げるGに、黙ってソファに踏ん反り返ったAに代わり、Cが口を開いた。


「B君は家に帰りたいんや。」


「家って?」


「ん。」


Bの胸には、未だにあの時のAの部屋の鍵がぶら下がっている。

Aは似合いもしないのにBが置いて行った眼鏡のフレームと髪止めを愛用している。

Aを指さすCに、Gは頬に両手を添えた。


「嘘でしょう?あの子はそんなにもこんな小汚いおっさんの傍が自分の居場所で、本当に良いの?」


「それはB君が決める事で、もう決めた事や。」


「あら、まあ。じゃああんたも泣いてる場合じゃないじゃない。」


Gは思いっきりCの背中を叩いた。


「彼氏名乗りたいんなら、戻って来たB君を抱いてあげなさいよ。あんたに抱かれるの、ずっと待ってたんじゃないの?」


「…それは、自信ない。」


「あんたでもそんな事あるのね。」


「だってB君としたん、一回だけやもん。」


「あんたほんと乙女よね。たまに私より女子力高くてびっくりしちゃう。」


「あんな綺麗な子を相手にしたん、初めてやったんや。」


「何よ、人を汚れものみたいに言わないでくれる?」


「言うてへんよ。でも、当時のB君と姐さんじゃ大分違ったやろ?」


「うん、そうね。でも、今の私には当時のB君も今のB君も変わらない様に見えるわ。」


Gはもう一度Cの背中を叩いた。


「何逃げてんのよ、もっと喜びなさいよ。じゃないとB君が可哀想だわ。」


Bは言わずもがな、Aは既に、常に意思表示をしている。

あとはCだけだ。

どう、受け取めるかはC次第だ。


「あんたはどうしたいの?B君の恋人でいたいの?家族?それともただの同僚でいいの?」


「…交換日記からやり直したい。」


「「このヘタレ!」」


AとGの声が、深夜の高級ホテルのロビーに木霊した。


―*―*―


早朝。

Bは、ファーに覆われた袖で大欠伸を隠した。

その背を押すボスとFも、もう片方の手でそれぞれ欠伸を隠した。

朝までお楽しみだった様子が伺える。

各々の思いが込められた複雑な表情で迎えられ、ボスとFは声を揃えた。


「「合格。」」


「当然。」


Bの、タンクトップに隠れない腰には手の痕が残っている。

それは明らかにボスのものだ。

Aは極力見ない様に努めた。

Cは目が離せない。


「じゃ、俺これから仕事だから。詳しい話は今晩、また。」


「流石は多忙なお医者先生、今晩も久し振りに会った恋人と過ごす時間はねえって訳だ。」


「…自分から逃げたくせに。」


唇を尖らせるBに、Aは呆れた。


「そりゃテメエ、急に殴りかかって来るような男から逃げねえのはドMくらいだぞ。」


「それもそうか。まあ、そのムカつくツラ、殴りたいのは今でも変わらないから、今晩手合わせよろしく。」


「え、7年振りなのになんで?」


「だからこそ、今度は勝てそうな気がするんだよ。」


Bは得意気だ。

Aも嬉しそうだ。


「楽しみに待っててやるよ。」


「首、洗って待ってろよ。」


AはCの首根っこを掴んで立たせ、GはCの背中を叩いて押し出した。

Cは見事に不貞腐れている。

Bは呆れて溜め息を吐き、肩を竦ませた。


「Cさん、いえ、千隼さん。風雅さんでしたっけ。彼とこの7年の間に何回寝ました?」


「君には関係無いだろ。」


「はい。僕が誰と寝ようが、千隼さんには関係ありませんからね。」


Bに思いっきり突き飛ばされたCは、唇の痛みに顔を顰めた。


「いって。」


「7年振りだから仕方ないだろ。」


Bは血のにじんだ唇の端を乱暴に親指で拭い、その親指を下に向けた。


「お望み通り別れてやるよ、このヘタレ野郎。」


AもGも、Cが選んだ別れ方に目力を緩めた。

フードを被り去り行くBの背に、Cは微笑んだ。


「おかえり。」


「いってらっしゃいでしょ。」


振り返ったBも微笑んでいた。

あの時と変わらない、子どもっぽい表情だ。


「いってきます。」


いってきますの次はただいまだ。

Cはまた口説き直す所から始めるかと、保護者を睨んだ。


「妙に遠慮せえへんでええなら、負けへんで。覚悟しとけや。」


「誰のものでもなく持て余してんなら、誰が手ぇ出しても問題ねえだろ。」


「おまえ達がくだらない争いを始めるのであれば、B君の採用は水に流すぞ。」


「いい歳こいたおっさん達がまったく。先が思いやられるわね。」


「部屋にいないと思ったら先輩達、何やってんスか。」


「あらE、遅かったじゃない。さっきまでそこに千隼の元彼がいたのよ。」


「マジすか。超見たかったんスけど。」


「これから好きな時に会えるわよ。」


AもCも満更でもない笑みを零し、Gは大仰に肩を竦めた。

以上で曖昧な僕ら。は終わりです。

曖昧な俺ら,として続きます。

そちらもよろしければお付き合いください。

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