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曖昧な僕ら。  作者: 藤丸のりか
51/52

【腹筋ワンダー】

クリスマス。鈴木は佐藤に同情し、FはCを思い遣り…

日中は大学生である鈴木は友人と別れ、構内の図書館に向かった。

試験の時期でも無ければ、図書館の書籍は丸写しをすれば即不可だ。

普段なら寄りつかないが、空きコマの多い毎週水曜日は鈴木を必要とする人が待っていた。


鈴木は舗装された道を外れ、たまに青大将に遭遇する獣道を通った。

硝子張りの自習コーナーに直結し、見た目からは想像も出来ない程気配に敏い目的の人物が顔を上げた。

存在感が半端無い瓶底眼鏡の下、目に見える訳ではないが穏やかに微笑んでいる。

その周囲、衝立で区切られた机の上には所狭しと分厚い本が並んでいる。

電気屋で暇そうな子どもの為程度ならピアノが弾ける事も判明した手にも、難しそうな本が握られている。


鈴木はどうしてこんなに勉強熱心な人が大学生では無いのか、毎回悩みながら玄関まで回る。

一般人よりも長く本を借りられるだけがメリットの学生カードをゲートに通し、入館して首を傾げた。

いつもなら借りて欲しい本を纏めてカウンターの前で待っているのだが、今日は居ない。

読み終わった本を返すのに手間取っているのかと自習室に顔を出せば、本に加え女子に囲まれていた。

雰囲気からして一年生達だろう。


「私達、ずっと貴方の事が気になってたんです。ここの生徒じゃないですよね。」


ついに田中のイケメン力が瓶底眼鏡を貫通したのかと、鈴木は戦慄したがそうではなかった。


「噂によると少林寺拳法サークルにも顔を出してるって。」


「うん。バイト先で知り合った子が紹介してくれたんだ。」


田中の下心の無い優しい話し方は、女子受けが良い。

女子達はより一層興奮し、一歩前に出た。


「その眼鏡、取って見せてくれませんか?」


「…良いけど。」


図書館の自習室と言う事も忘れて女子達が騒ぎ出す。

しかし、鈴木は制する事はなかった。


「これで良い?」


「…。」


右0.05と左0.03の軽い乱視を嘗めてはいけない。

相手が男か女かもわからなくなる視界で相手の顔色を窺おうと顰められた、その不細工な顔を可愛いと愛せるのは同じ学び舎を中退した佐藤だけだ。

偉大なる、彼女達にとっては先輩の友人である鈴木は、頃合いだと顔を出した。

丁度眼鏡を掛け直した田中と目が合い、片手を上げて挨拶に変えた。


「片付けまで手伝って貰って悪かったね。何が良い?」


「珈琲で。」


「本当に好きだね。」


都会にある大学は競争率が激しいから売店や食堂が充実している。

鈴木の大学の構内には、某有名珈琲チェーンが出店している。

そこで珈琲と、ホイップがたっぷりと乗った期間限定のシェークと、オリジナルブレンドティーラテのホットをソイミルクでを購入し、人だかりの出来ている方へ向かった。

そこでは先程鈴木が心の中で偉大なる先輩と称した佐藤がライブのチラシを配り、希望者にはチケットを販売していた。

過去形だ。

田中と鈴木が到着した時には全て配り終え、完売していた。

佐藤はデビューこそまだ先だが、顔とスタイルが良いのは勿論、歌も上手ければ性格も優しく、極めつけは実家が金持ちで帰国子女だ。

王子様とはまさしく佐藤の為にある言葉だとは言わずもがな、女子達は特に佐藤の為に金を惜しまない。

純粋なファンも多いが、下心のある女子にも群がられる、超人気バンドのボーカルはしかし、唯一残念な所がある。


「盛り上がってるし、落ち着くまであっちで飲もうか。」


「そうッスね。」


水を差さない為の思いやりから来る行動を取った訳だが、視界の端で佐藤は笑顔のままスマホを取り出し操作した。

少し間を置いて鈴木のスマホが震える。

見なくても差出人と内容がわかる。


『田中さんとデートなんて羨ましい。後で覚えとけよ。』


当の田中は借りたばかりの難しそうな本を、鈴木にとっては胸焼けしそうな程甘い飲み物と一緒に味わっていた。


―*―*―


田中からの差し入れにすっかり機嫌を直した佐藤は鈴木等眼中になく、本の巻末に掲載された原文を訳していた。

佐藤の得意な英語だ。


「っと、すみません。俺も日常で使わない言葉はあまり知らないので、この辺りはニュアンスが違うかもしれません。」


「いやいや、充分。本当、助かるよ。辞書じゃいまいちわからなくて。」


「勉強熱心ですね。」


「暇だからね。」


暇だからと勉強に打ち込むのは大凡若者のやる事ではない。

瓶底眼鏡を脳内補正で取っ払えば、男の目にも麗しい光景をツマミに、鈴木は珈琲を啜り眠気と闘う。


「これはフランス語かな?」


「そうですね。確かこういう意味だったような。」


「凄いね。佐藤君はフランス語も出来るの?」


「フランス語は英語よりも話せませんよ。旅行なら不自由はしない程度かな。」


「佐藤君と結婚する子は幸せだね。」


「はい、それはもう幸せにしますよ。」


「今の、録音してさっきの子達に聞かせてあげたいよ。」


「それはあんたに言ったんだぞ。」と、鈴木の目が据わる。

今日も今日とて思いが伝わらなかった佐藤は、笑顔の下で号泣している。


「ところで田中さん、クリスマスのご予定は?」


「ん?今年も佐藤君のライブに行くって言わなかったっけ?」


「いえ、付き合い的な予定じゃなくて。」


「…あー、…ねえ。」


田中はカップの底に残ってしまったホイップを掻き混ぜながら、頬杖を付いた。


「相手がクリスマス前後はずっと仕事だって言ってたからさ、じゃあ佐藤君のライブに行くねって言っちゃったんだけど、…不貞腐れちゃったのか連絡付かないんだ。」


「やっぱり、今年は恋人いるんですね。」


「うん。すっごい美人だよ。」


その割に田中の顔は浮かない。

尽くす男、田中なら、彼女が出来るとイベントの前になれば そわそわ としていたものだが、今回は違う。

だから鈴木は早々に武道場で自主練する事も無く、田中を眺めていた。


「何でわかったの?」


「去年は直ぐに返事が来たのに、今回は考える時間が欲しいとの事だったので、もしかして?と思いました。」


「成る程。一緒に行って光輝く佐藤君に鞍替えされるのが嫌で牽制したのがバレたか。」


「え?恋人が居ても来てくれるつもりだったんですか?」


「いやだから、一緒には行かないよ。」


「でも、行きたいとは思ってくれるって事ですよね?恋人との予定をどうしようと思ってくれる程、俺のライブに行きたいと、思ってくれてるんですよね!?」


「うん、えっと、そんな事で泣く程嬉しいの?」


「嬉しいですよ!ミュージシャン冥利に尽きます!」


「いやあ、女の子以上に男って訳わかんないなあ。男が男に来て貰って何がそんなに嬉しいのさ。」


田中は苦笑い、ホイップを掻き混ぜるのを止めた。

その反応に、鈴木は遅れてある可能性に気付き、少しだけ咽た。


「女心も男心もわからない僕は生きてる価値が無いのかもしれない。」


「そんな馬鹿な。田中さんの女子力に、うちの女子バイト達は戦々恐々ですよ。」


「なんじゃそりゃ。」


「かつ、田中さんの戦闘力に男子バイト達は恐れ慄いています。むしろ田中さんは女子力も男子力も極め過ぎて仙人のレベルに達してしまったんじゃないですか?」


「いやちょっと待って、それじゃあ枯れるの早過ぎるだろ僕。」


笑い転げる田中に、佐藤も微笑む。

鈴木は笑えなかった。


「じゃあ、お若いのに仙人より経験豊富な王子様に、年上の美人が喜びそうな贈り物やサプライズがあれば教えて貰おうかのう。」


「ええ喜んで。疲れた上に寒い中帰って来て、その上はしゃぐのは流石に体力の限界でしょう。何も特別な事が無くても、温かいご飯とお風呂と一緒に恋人におかえりって御出迎えして貰えれば嬉しいですよ。これでどうだ?」


「流石、庶民と発想が違うねえ。満足じゃ。」


田中の笑顔は揶揄う様なもので、佐藤も得意気に応えているが、その発想は田中が恋人にしてあげて欲しい事では無く、佐藤が田中にして欲しい事だ。

何とも報われない佐藤に、鈴木は不器用なりに今年は自分の彼女にとことん付き合ってやろうと思い直した。

あとついでに、少しくらいなら佐藤の愚痴に付き合ってやっても良いかもしれない。

時計を見た佐藤は一言詫びてバイトに走り、田中と鈴木は武道場で少し早めの練習を始めた。


―*―*―


クリスマス当日。

Bは朝早くからいつもの様に二人分の食事を作り置き、甘い物が大好き過ぎる同居人の為にケーキを焼いた。


「Cさんも甘い物が好きなら良いんだけどなあ。」


他にクリスマスに喜んでくれそうなものと言えばワインやシャンパンだが、生憎コンビニバイトではそんなに稼げない。

安物を買う位なら何も無い方がまだマシだろう。

Cが意外と手作りのマフラーを後生大事に使う様な男だとは、Bは知らない。

夕方は佐藤のライブを楽しみ、聖なる夜はアルバイトだ。

明け方帰宅し、寝ずにデコレーションを施した。

今年は苺が高かったのでチョコレート大作戦だ。

生地にチョコレートを混ぜたのは勿論、あまり触感がザクザクするのも嫌なので削ったチョコレートをホイップに混ぜて間に挟み、純白のホイップの上にはトリュフチョコを飾った。

完成を待っていた様に、小汚いサンタクロースが鍵を開けて玄関から入って来た。


「おかえりー。」


「おう。」


「お風呂、湧いてるよ。」


「おう。」


「…。」


ふとそこでBは佐藤の言葉を思い出し、頭を掻いた。

風呂場で恐らく頭を洗っているだろうAのシルエットに話しかける。


「ねえ。今日Cさんと会った?」


「いや?」


「ここ暫く連絡が取れないんだけど、何か知ってる?」


「仕事だろ。」


「最後に会った時はそう言ってたけど、…全く連絡付かないってあり得る?」


「死んでんじゃね?」


「縁起でも無い事言うなよ!」


Bの抗議はシャワーに掻き消された。

Bは暫く無言で考え事をしていたが、野生動物並の気配察知能力を持つAにとってはそれだけでも鬱陶しい。

お湯を出したまま扉を開け、びしょ濡れの手でBの頭を叩いた。


「おまえが欲しがってた腹筋拷問具、言われた通り買って来てやったからそれで遊んどけ。」


「マジか!」


Bは喜び脱衣所を駆け回り、玄関に放り出されたラッピングもされていないクリスマスプレゼントに抱き着いた。

Aはお湯を止め、身体を拭きもせずに全裸で廊下に出てBを見下ろした。


「Cも言ってたが、おまえはそんなに鍛えて将来何になるつもりだ?現実世界に倒すべき悪の大魔王は居ねえんだぞ。」


「いやいや、目の前に居るし。マジでふざけんなよって殴りかかりたいけどまだレベルが足りてないから、僕にはこれが必要なんだよ。」


瓶底眼鏡の下、うっとりと筋トレ補助用具を見つめるBに、Aは湯冷めでは無い何かで身を震わせた。

平和な日本と美味い食事で少し弛み始めた自分の腹を摘まみ、瓶底眼鏡を装備したかっこよさ0の勇者に倒される自分を想像してしまった。

そろそろ雪と風呂とは無縁の国に呼び戻されそうな気もするし、Bが居ない時にこっそり使ってみようと柄にもなく思ってしまった。

それくらい思考が平和呆けしてしまっていたから、久し振りに仕事仲間から来た連絡を直ぐには理解出来なかった。

会話は無い。

そんな余裕はないだろう。

漢字変換すらされていなかった。


「仕方ねえ。あいつにも買ってやるか。」


「何の話?」


「こっちの話。」


Cがヘマをした。

回収は安定のFが向かったから、AはBの美味しい食事とケーキと、久し振りの睡眠を貪った。


―*―*―


Bは仮眠をとり、眠たくてだるい身体を日ごろ鍛えた筋肉で持ち上げ、立ち上がった。

洗面所に向かい、顔を洗い、相棒はケースにしまってコンタクトを装着した。

廊下を歩く事で同居人が目を覚ましてしまったかもしれないが、仕方ない。

忘れずに机の上に同居人の為のクリスマスプレゼント、猛獣注意と書かれた真っ黄色のボクサーパンツを置いた。

Aには良くお似合いで、遊んでくれる女性達には良い警告になるだろう。

自室でいつものサルエルパンツを押しやり、細みのジーンズに足を通した。

いつものニットもシャツも押しやり、アンサンブルの上にジャケットを羽織った。

括る為に伸ばした長い前髪が邪魔なので少し分けて片方を編み、ピンで止めた。

スリッポンをしまい、ブーツを履く。

色々少し窮屈だが、いつもの自分では彼の隣を歩くのには役者不足だ。


「居るかどうかわからないけど、行動しないよりはマシかな。…いってきます。」


Bは鍵をかけ、いつもの様に首から下げて、中にしまった。

年末は何処を歩いても人が多く、風邪の予防にマスクを付ける。

それでも目立ってしまい居心地が悪いが、目的地がそう遠くは無いのが救いだ。

俯いて一駅だけ電車に乗り、改札を抜け、閑静な高級住宅街を進んだ。


高級住宅街とあって昨晩はたくさんの家々が色とりどりのイルミネーションで輝いていたのだろう。

昨日の今日でまだ片付けはされておらず、外壁には配線が残っていて、少し気味が悪かった。


一人で来るのは初めての高級マンションを前に、あまりに庶民的な自分には場違い過ぎて一瞬躊躇したが、ここに来る為に精一杯洒落て来たのではないかと自分を励まし、住民に続いてエレベーターに乗り込んだ。

廊下にも踏み心地の良いカーペットが敷かれ、誰が掃除するんだろうとか維持費はいくらかかるのかとか、まずそんな事ばかり考えてる時点で気が滅入って来る。

早くそんな自分を快く迎えてくれる人に会いたいと、躊躇せずインターホンを鳴らしたが、反応は無い。

Bは力尽き、扉を背にしゃがみ込んだ。


「手袋して来れば良かったな。」


流石に廊下まで空調が利いている訳も無く、白い息を指先に吐きかける。

物音がする度に帰って来たのかと顔を上げるが、ことごとく外れた。

物音はしないが、人の気配に顔を上げれば、当たった。

大きな声を上げるのは口を手で押さえて堪えた。


「良い判断だ。」


ポケットから手を離した青年は、少しずり落ちたCを担ぎ直し、何とか歩いているCを引き摺って歩いた。

青年の格好は黒一色で、一般人では無い事がBの目にもわかる。

Cも似た様な格好で、青年の敵意もあって身体が無意識に警戒を始める。


「手当てを、」


「要らない。特に君の手は借りない。」


Cは顔を上げない。

怪我は見えないが、Cの様子と血の臭いでBが不安になるには十分だ。

青年は不快を露わにBを睨み、顎で退く様に命令をした。

Bは唾を飲み込んで ぐっ と踏み止まった。


「人手は多い方が良い筈です。貴方は僕の事が気に入らないでしょうが人命第一です。」


「君が居るからこいつはこんなヘマをしたんだ。」


「お言葉ですが、僕は最近傍に居ませんでした。」


Bの毅然とした態度に、青年はより眉間の皺を増やした。


「俺の言葉の意味もわからないような堅気が、こいつらの傍をうろつくな。」


BはAとCとの違いをはっきりと指摘され、膝から力が抜けそうになった。

だから、もう一度青年に顎に命じられ、素直に道を譲ってしまった。


「こいつらの事を思い遣るなら、さっさと消えろ。“ここ”は君が居て良い場所じゃない。」


Bを残して扉が閉まる。

その直前、初めてCは顔を上げたが、俯くBには見えなかった。


「ごめん。」


誰に向けてか、Cの謝罪も扉が閉まる音に掻き消された。


―*―*―


Bは暫く街中を歩き回り、目に入ったゲームセンターに入った。

UFOキャッチャーを通り抜け、リズムゲームの脇にあるパンチングマシーンの前で止まった。

一人で暇そうにしているイケメンに声をかけようかどうか、悩む女子達に囲まれている事等眼中になく、小銭を取り出し、機械に入れた。

グローブを装着し、その場で軽く飛び跳ね、手首を振る。

構え、短く息を整え、大きく踏み込んで、上半身は小回りを利かせ、拳を突き出した。

あまりの大きな音と衝撃に女子達は恐怖で耳を塞いだ。

スコアは測定不能、Bは舌打ちしながらグローブを脱ぎ捨てた。

人生で未だかつてない程、気が立っている事は自分でもわかっていた。


巳鶴(ミツル)様?」


だから、呼ばれて素直に顔を上げてしまった。

いつの間にか出来ていた女子の垣根の向こう、頭一つ高い所に在る懐かしい顔に大きな目を見開いた。


「シャー君?」


今は彼らしくない茶髪と服装で気付くのが遅れたが、間違いない。

誰であるかわかった瞬間、走り出した。

プリクラから出て来た女子にぶつかりそうになったのを短く謝り、入口でぶつかった学生には謝る余裕すら無かった。

直ぐそこに追手が迫っている。

追手は鮫島(サメジマ)八尋(ヤヒロ)、今年で31歳の筈だが、そのずば抜けた身体能力は相変わらずだ。

二十代前半で毎日鍛えているBでも人通りの多い道では振り切れないと覚り、方向転換して狭い路地に入った。

あわや捕まるという所でBは左右の壁を蹴って飛び上がり、捕まえられず体勢を崩した鮫島の頭上を超えた。

いつもの瓶底眼鏡と違い、遠近感も視界も良い。

難なく着地し、また人混みの中を走った。

それくらいで撒ける訳が無い事位、長い付き合いでわかっている。

Bは後ろを振り返らずひたすら走った。

人々はテレビや大会でしかお目にかかれない様な速さで走る二人を何事かと見送る。

その中に、遅刻かつ単位落下確定の中村が居た。


「ハッ、イケメン爆発しろ。」


しかし、前を走るイケメンが、尊敬する田中とは気が付かなかった。


―*―*―


人気の無い道でついに腕を掴まれたBは、迷わずその腕を引いて背負い投げたが、鮫島は宙で身を翻して着地し、むしろ間髪入れずにBの胸倉を掴んで投げた。

咄嗟に受け身を取ったBは無理な体勢から鮫島の金を蹴り上げようとしたがかわされた。

少し出来た距離を広げるべく地面を転がって立ち上がる。

構える事が出来る位の時間は稼げ、鮫島の捕縛の手を叩き落とした。


「お止め下さい、巳鶴様。貴方が俺に勝てた事が一度でもありましたか?」


「今日がその記念すべき一回目になるかもしれない。」


Bは肩で息をしていたが、まだ若い。

直ぐに整った。

鮫島はまだ息が整っていない。

お互いにその事をよく理解していて、Bは鮫島に休む暇を与えなかった。

Bの助走を付けての蹴りを鮫島は両手で受け、続く反対の足での回し蹴りを頭を下げて避けた。


「どうして家出したのですか?」


「あそこが僕の家じゃないからだよ。」


「そんな、悲しい事を言わないで下さい。藤崎家の殆どが巳鶴様を歓迎していなくても、お父様と家長の稀一(キイチ)様は貴方を深く思い遣っていらっしゃるではありませんか。」


「僕こそ、そんな悲しい事を言われたくは無いな。」


「申し訳ございません。俺みたいな卑しい身分で差し出がましい事とは充分承知しております。ですが、御二人の気持ちを誤解されたままで居て欲しくは無いのです。」


Bは「違うよ。シャー君には僕が特別な理由も無しに逃げ出す様な奴に見えるって事。」とは口に出さず、一瞬痛みを堪える様に目を閉じて忘れた。

他事を考えながら勝てる相手では無い。

直ぐ上の兄、双葉(フタバ)が拾った元チンピラは、恐ろしく忠誠心が厚く、喧嘩も強い。

何より経験がBとは比べ物にならない。

Bは鮫島の足払いを軽く飛んでかわし、投げ技に絞る鮫島が胸倉を掴もうとする手を払った。

ならば背を向けてやると、肩口に鮫島を捕らえたまま裏拳を放つが軽く受け止められた。

ぐっ と下半身に力を入れて顔面に肘を突き刺そうとするが、首を捻られて避けられた。

後ろから羽交い絞めにされようとしたが、足を後ろに高く上げて牽制し、その足を大きく振り回して身体を反転させて向かい合い、軽く飛んで鮫島の側頭部を蹴り飛ばした。

鮫島は流石に数歩よろめいたが、その淡麗な容姿に反し頑丈である事をBは良く知っている。

加減された蹴り位でめげる様な男では無い。

少し躊躇ったが、近くに置いてあった箒を手に取り、穂をへし折った。

柄を回転させ、構える。


―*―*―


鮫島は首を押さえながら立ち上がり、目を眇めた。


「巳鶴様、いけません。貴方が苦労して極めた技をもうこの様な下らない争いに使ってはいけません。」


「じゃあ、大人しく帰ってよ。」


鮫島は黙って首を振る。


「言っとくけど、僕はあの時この技であの人を助けた事を後悔していないからね。」


「全く、双葉様の悪い影響ですね。」


「違うよ。これは僕の意思だ。僕は双葉兄さんみたいに全部取り上げられて閉じ込められたから家を出た訳じゃない。」


「閉じ込めたとは人聞きの悪い。チンピラ共の報復を見越し、暫くは御身を守る為に行動を制限させて頂くつもりだっただけです。」


「シャー君はそのつもりでも、稀一兄さんは違うよ。」


Bの真っ直ぐな目に、鮫島の意思が負け始める。


「僕の生き方は僕が決める。僕は絶対にあの家には帰らない。」


「今は良くても後々後悔します。」


「それはシャー君の話で、僕じゃない。」


「いいえ、俺は幸運にも双葉様に拾われました。後悔などしていませんが、巳鶴様は違います。奇跡はそうそう起こるものではありません。」


「僕は奇跡に頼らなくたって生きていける。その為に強くなったんだ。皆して僕を馬鹿にしないで。」


しかし、鮫島も負ける訳にはいかない。

双葉に連れ回され社会を見せ付けられたおかげで目が肥え、その人が身に付ける物から経済状況が大体わかる様になった。

肌艶は良いが、お世辞にもBが良い生活をしているとは思えない。

鮫島は細く息を吐き、構えを解いた。

Bは鮫島の、武術では無い、彼本来の喧嘩腰に警戒を強める。


「これが最後の忠告です。ルールに縛られた中でそこそこの結果を残しただけの暴力で、この俺に勝てるとは思わないで下さい。」


Bの持つ箒の柄が目にも止まらぬ速さで回り、空気を混ぜる。

Bは得物がしっかりと手に馴染んだのを確認して突き出した。

鮫島は身を翻して避け、棒の真ん中を掴み引き寄せる。

Bはその力を利用して頭を下に飛び上がり、鮫島の頭上を超え、鮫島が溜まらず手離した棒を回して横に薙ぐが、頭を屈めて避けられた所に踵を落とした。

踵は肩に入ったが、鮫島の腕に邪魔をされて威力は殺された。

もう片方の足で顎を蹴り上げようとしたが、肩に乗ったままの足を掴まれ地面に引き摺り下ろされた。

片手で頭を打つのを堪え、ブリッジの姿勢から伸しかかろうとする鮫島の膝に棒を打ち込み、怯ませ、棒を握ったまま両手を付いて鮫島の身体を足で挟み、身体を捩じって反転させ、馬乗りになった。


「強くなりましたね。」


「ぐっ!?」


「でもそれでは勝てない。」


Bは鮫島が振り上げた膝に脇腹を蹴られ、溜まらず身体を折り、胸倉を掴まれ引き倒された。


「貴方は武闘家にはなれても、喧嘩には勝てないんですよ。今、俺を殴っておけば逃げられたのに、貴方は出来なかった。貴方みたいに優し過ぎる人はこの世界で何の加護も無しに生きてはいけません。帰りますよ。」


「意識がある内は、絶対に負けない。ルールが無いなら、尚更だ。」


「…仕方ありませんね。」


鮫島は少し上体を起こし、Bの胸倉を引き上げて頭突きを喰らわせた。


「シャー君、後ろ。」


「!?」


振り返る鮫島の横っ面によく練習された綺麗な蹴りが入った。

Bとは違い体格の良い鈴木の、ましてや研ぎ澄まされ狙いに狙った蹴りは重い。

流石に飛ばされた鮫島は起き上がれず、そのまま意識を失った。


「やっと隙が出来た。何もんなんスか、あの人。」


Bは同居人のおかげで頭突きに耐性があるとは言え、揺れる視界の中でふらつきながら何とか立ち上がった。


「昔の知り合い。」


それだけ言い残し、Bは気を失い後ろに倒れるが、その背はしっかりと支えられた。

AはBを軽々と抱き上げた。


「連絡、ありがとな。えーと、セイゴ君?」


「わざとにも程がある。」


「そうだな。鮫を蹴っ飛ばしたんだ。もうスズキに出世しても良いな。」


「おっさんか。」


「俺は陸の鮫よか百倍強えぞ。」


鈴木はさっさと走って逃げ、Aもまた振り返らず立ち去った。


―*―*―


鮫島は慌てて飛び起きたが、時既に遅かった。

やっと見つけた人を探すが、一番に目に入ったのは げらげら と下品に笑う青年だった。

その人は鮫島にとって塵屑の様に捨てられる所を拾ってくれた恩人だ。

動く度に、貧相な身体に巻き着く装飾品も じゃらじゃら と笑う。


「よお、鮫島。らしくねえじゃねえか。」


「…双葉様。」


双葉は指に挟んだままの煙草を咥え、深く吸って吐いた。

Bに劣らず整った童顔の所為で、服装以上に煙草が恐ろしく似合わない。

しかし、その目は年相応に知的で落ち着いていて、気に食わない。

鮫島は、何年経っても双葉に対してどうしても好意を抱けない。


「この俺様が直々に迎えに来てやったんだ。意味がわかるな?」


「巳鶴様ですね。」


「そう。「シャー君が暴漢に襲われて倒れてるから早く助けに来て。」ってな。」


「見返りに一体何を求めたのですか。」


この男がただで動く訳が無い事を、鮫島は良く知っている。

双葉は鮫島が最も嫌う厭らしい笑みを浮かべた。


「家に帰って来たらぶっ殺す、だ。死ぬまでこき使ってやるから覚悟しろって言ったら電話切りやがった。」


「貴方の所為で、巳鶴様は居場所を失くされたのです。」


「馬ぁ鹿。あの馬鹿は俺に影響されてチンピラを助けた訳じゃねえ。あいつは俺と違って真正の良い子ちゃんだからな。今だって頼られたのは稀一兄さんじゃなく、この俺だ。俺の所為なんて、何より巳鶴が思っちゃいねえよ。」


稀一の名前に鮫島が唇を引き結ぶ。


「おまえだって気付いてんだろ。巳鶴が何で家を飛び出したか。あの家で苛めに遭っていたからじゃねえ。あいつはそんなタマじゃねえからな。」


双葉は笑みを消し、嫌悪を顔に出す。


「藤崎 稀一、その人に愛されちまったから逃げ出したんだ。」


「それの、何が悪いのですか?」


鮫島の目は真剣だ。

あの家こそがBの居る場所だと信じて疑わない。

双葉は煙草を指で弾き、念入りに踏みにじった。


「稀一兄さんは親父と瓜二つだ。顔や好きな色は勿論、珈琲に入れる砂糖とミルクの量、果ては性的趣向も同じでな。だが、唯一、しかしそれが最大とも言える違いがある。」


最後に強く踏み付けた。


「親父の相手は赤の他人の女だったが、兄さんは腹違いの弟だった。」


「…まさか。」


「俺も一応弟だぞ。物心尽くまではこんなに荒んじゃいなかったが、稀一兄さんに巳鶴程愛された覚えはねえ。俺も巳鶴も母親似で、全然似てねえからな。」


インヒールで誤魔化しても弟より背の低い双葉が立ち上がる。

母親譲りの派手な顔立ちは魅力的だが、透明感のある弟とははっきりと好みが別れる。


「あいつは何百人と居るうちの職員と家族の生活を守る為に、高校卒業前に一人で抱え込んで出て行ったんだよ。」


双葉は何が遭ったか具体的には言わない。

あんな家で唯一自分を受け入れてくれた弟を疵付けてしまうからだ。

何より、口に出せば自分が吐き気を堪えられない。


「わかったら誰の命令だろうと、もう巳鶴を追い駆けるな。」


「いいえ。」


双葉は俊敏な動きで立ち上がった鮫島を睨み上げた。

鮫島は鼻で笑わないのが可笑しい目で双葉を見下ろした。


「俺は貴方を信用していません。稀一様のお言葉に従います。」


「相変わらず糞真面目だな。」


「恨むなら、貴方の日頃の行いの悪さにして下さい。」


「テメエ!誰に向かって口聞いてやがんだ!」


「これに懲りたら今後の身の振りを改める事です。」


双葉の、指輪で飾られても貧相な拳を鮫島は避けて加減して背負い投げた。

汗や苦労とは無縁で武道はからっきしの双葉は地面に叩き付けられ、背中を押さえて呻く。


「先程の稀一様を貶める発言は、この治安の悪い街で財布がまだポケットに入っている事に免じて忘れて差し上げます。では、失礼。」


「畜生!使用人の分際で、覚えとけよ!」


双葉が投げたBの得物を、鮫島は見もせずに避けて去った。


―*―*―


真っ暗でどんよりとした世界に、煙草と酒で枯れた声が反響する。

Bはその声が何だかとても心地良くて、縋る様に意識を向けた。

それはAの声で、何事か怒鳴っている。


「Why lose sight of a target!?」


『ちー君から今回ヘマしてふーちゃんがブチ切れたって連絡貰えたのが遅かったからさ。』


「糞変態童顔爺!テメエの事務所、悪評ばら撒いてぶっ潰すぞ!」


『うわーん!だからごめんってば、(アキラ)!』


「Even apologize, can't be permitted!F*ck!」


『いや、謝っても許されないのはわかってるけど俺は一応日本人だから一応ね。それよりちー君大丈夫?』


「殺しても死ぬか、あんな奴。チッ!」


Bが目を覚ます気配にAはさっさと通話を切った。

起き上がったBは、痛む額に手をやり溜め息を吐いた。


「鈴木君は?」


「気の所為だろ。」


「…了解。」


Bはここが家で、ソファに寝かされていた事がわかったが、落ち着かなかった。

Cを担いでいた青年の言葉を思い出す。


「やっぱり、僕じゃ駄目なのかなあ。」


「あ?Bのくせに何殊勝な事言ってんだ。気持ち悪りぃ。」


「鍛えても、鍛えても。僕なんかじゃあんた達には敵わない。」


「ほお、漸く身の程を知ったか。」


Aは鬱陶しい程満足げに頷くが、Bは自嘲の笑みを浮かべるだけで、いつもの様な悔しさを微塵も感じなかった。

Aは新しい煙草に火を付け、指に挟むだけで咥えはしない。


「人間も動物だ。地球上何処に居たって弱けりゃ死ぬだけだ。弱肉強食はわかり易いこの世のシステムで、俺は割と気に入っている。」


煙草の先が長くなってもAは咥えず、煙草を立てて燃える様を遠い目で眺めた。


「俺もおまえも生きてる。だからそんな位でめそめそすんな、鬱陶しい。」


「泣いてない、阿呆。」


Bは立ち上がり、目元を袖で拭った。


「運も実力の内だからな。」


「おい、何処に行く気だ?暫くはおうちで震えてた方が、」


「うるさい!」


Aは割と吃驚して、灰を落とした。


「日頃、行いが良い僕に限って運に見離される事は無いだろうけど、念には念を入れて運気を上げる為に甘い物を供えてやる。」


「…。」


Aは一瞬Bが何を言っているのかわからなかったが、煙草を一口吸う間に理解した。

肩を震わせて笑うAに、Bは非常に悔しそうな顔で吐き捨てた。


「ありがとう。」


Aは立ち上がり、Bの頭を撫でて外出の支度を始めた。




腹筋ワンダー、ふぉー by B

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