訳ありすぎ物件
新聞の片隅に《空き部屋あります》の広告を見つけて、さっそく電話をしてみると、感じのいい中年女性の声が答えてくれた。
「ええ。そりゃあ、いい部屋ですよ。静かだし、隣近所とはうんと離れているからトラブルもありませんし。何よりも、車の騒音や排気ガスとは無縁ですからねぇ」
ということは、ずいぶんと不便な田舎なんだろうな。
「いえいえ。ここは、結構にぎやかな街の中にあるんですよ。ただ、この部屋だけが特別なんです。なにせ、最上階室ですから」
――――最上階室!それは素晴らしい。
「だた一つ、難点を言えば、エレベーターがないことくらいかしら」
え?最上階まで、階段だけ......。
「とにかく一度、部屋をご覧になったらいかがでしょう。......ええ、今夜にでも」
というわけで、僕は仕事帰り、広告に書かれた住所を頼りに、そこを訪ねてみた。
電話で聞いたとおり、結構にぎやかな通りに面した普通のマンションだ。
管理人の中年女性に案内してもらい、僕は期待はずれでないことを祈りつつ、部屋を見せてもらうことにした。
「なんだ。ちゃんとエレベーターがあるじゃないですか」
僕たちは、エレベーターに乗って七階まで行った。
「七階までは、エレベーターがあるのよ。でも、その先がねぇ......」
管理人の女性は苦笑しながら、さらに僕を階段で屋上に案内した。そして、屋上の左側にある、金色に輝く長い梯子を指さして、少し申し訳なさそうに、こう告げた。
「あれを登らなきゃいけないの。悪いけど、あなた一人で行ってくださる?私は今朝、腕を痛めてしまったものだから......」
――――やれやれ......
なんだか、厄介なところに来てしまったなぁと、ひそかにため息をつきながら、僕は言われたとおり、まっすぐに空に向かって伸びる梯子に手をかけ、一歩ずつ登り始める。
「下を見てはだめよ。とにかく上を目指して、ひたすら上り続けるの」
その言葉を背中に聞きながら、正直僕はちょっとだけ後悔していた。実をいうと、僕はあまり高いところが得意ではないからだ。でも、ここまで来てしまったからには、もう覚悟を決めるしかない。
10段......、20段......、55......、68......。
160段くらいまでは数えていられたのだけれど、後はもう頭の中が数字でごちゃごちゃになってしまって、分からなくなった。
――――月が、やけに大きいな......。
そんなことをぼんやりと考え始めたころ、突然終わりはやってきた。
なるほど、月が大きいわけだ。たどり着いた先は、その月だったのだから。
それにしても、たった梯子ひとつでよくぞ月まで登れたものだと、自分で自分に感心してしまった。
さて――。月には小さなドアが一つついていた。一応ノックをして開いてみると、月の中はぽっかりと空洞ができていて、広くて明るいワンルームになっていた。
薄いレモン色の壁紙に、白い家具のそろった、清潔そうな部屋だった。
そして、電話が鳴った――。受話器を取ると、
「いかがですか」
と、管理人の声。
「はい、とても気に入りました。梯子を上るのは少々きついけれど。でも、月の部屋に住める機会なんて、めったにないことですから、これくらいは我慢できます」
受話器の向こうで、管理人が、
「そうでしょうとも」
と、うなずく様子がうかがえる。
「ところで、部屋の奥にある、あの大きなねじは何ですか」
僕は、この部屋に入ったときから、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「それは、月を回転すためのねじです。一日一度、必ず巻いてください。忘れると、月は回転しなくなってしまいますから」
「月がぜんまい仕掛けだとは、知りませんでした」
「たいていの星は、そうですよ。ただ、地球だけは、いつの間にか機械仕掛けに代わってしまいましたけれど......」
管理人は、ふっとさびしそうに、ため息をついた。
「だから地球の中には、ずいぶん長いことだれも住んでいないし、ドアがどこにあるのかも、誰も知らないんじゃないかしら」
そして最後に管理人は、
「多少面倒でも、私は手巻きの方が好きよ」
と言った。僕もそう思う。だって、こんなにいい部屋、機械に住まわせておくなんて、あまりにも勿体ないじゃないか。
僕は静かにドアを閉めると、梯子を下りて、さっそく賃貸契約書にサインをした。