職員室という舞台裏 1
ひそっと更新
4月も中旬である。
数年前……なんなら私が非常勤講師になった初年までは、この頃にオリエンテーション・キャンプがあった。
ただこれは、キャンプとは名ばかりの、学園が所有している保養地での優雅な宿泊イベントだ。所も国内でも有数の避暑地。
それが運営方針の変更で、去年から試験的に失くすことになった。
本校には、 冬頃に海外への語学研修旅行もあった。
入学を想定している家庭が、これまでと所得が違うため「2度の宿泊は家庭への負担が大きすぎる」となったのだ。
「海外研修旅行も費用のわりに学習効果が少ない」という声もあった。そりゃ、ヨーロッパ各地を1週間、観光名所ばかり巡っていたらしいから、仕方がない。
よって、宿泊行事は、冬の研修旅行に統一し、その内容は再度検討することになった。
空いた今この時期は、初等学校――一般でいうところの小学校――の児童たちがキャンプに使う予定だ。
これを聞いた時、私はホッとした。
引率なんてやったこともないのに、初めての引率で、宿泊行事で、しかも育ってきた環境が違い過ぎる生徒たちと一緒だなんて、不安の方が大きかったから。
せめて、学年に慣れたあとならば。研修場所も、費用の面でいうなら、ヨーロッパより国内の保養地だろう。
いかにもハイソな避暑地なんて行ったこともない。楽しみではないか。
しかし今、少し、宿泊行事も悪くなかったのではないか、と思っている。
『だから、責任取りなさいって言ってるのよ!』
「はあ」
職員室の電話越しの金切り声に生返事をすると、相手の声は一際甲高くなった。
『あんたふざけてるの!?』
「いえ」
『だから、息子の寝坊が問題なら、あんたがモーニングコールなさいって言ってるのよ! あんた先生でしょ!』
それ、目覚ましじゃだめかな。
電話先の奥様は、今週末、件の保養所で宿泊する予定の、児童の母親である。
遅刻の多い息子さんが、「キャンプには遅刻してくるなよ」と先生に言われたことに立腹しているのだ。
「児童」の、母親である。
最近は保護者にもユカイな人物が多いとは聞いていたが、教員を目覚まし時計にさしようとは。
保護者対応は教員の立派な仕事だ。だが価値あるご意見かと言われると……コメントは差し控えたい。
「お母さま、時間を設定しますのは、社会生活を営む上で必要な自主性、自律を促すものでして。それでは生徒の為にはなりません。
そもそもモーニングコールをする責任は、教員は負っていないものと考えます」
『なんですって、あなた…!』
「また重ねて申し上げますけれども、お母さま」
ため息が出てしまった。
「電話番号をお間違えです。この電話は中高等部です。」
「児童」は6歳から12歳までの、小学校の子どもに使用する単語だ。
おそらく、彼女がかけたかったのは初等部だ。
電話向こうはしばらく沈黙した後、金切り声で再び洪水のようにまくしたてた。
『あんたが最初に言ってればこんな…訴えてやる!!』
「左様ですか、その場合、今後一切の交渉は本学法務部に一任することになります。赤宗財閥の弁護士で…」
ガチャンっと、高らかな音がして、電話は切れた。
そんなに赤宗一族にはケンカを売りたくないのか。
私もいらっとして、おとなげない答えをした、反省、反省。
そう思いながら、私は受話器を置くと、パソコンに向かい合った。目がしょぼしょぼする。
新任になってから仕事が異常に増えた。
先程の電話番に始まる、学年全体の細々とした雑務。
校務分掌。各委員会・部活の顧問。学年通信をはじめとした生徒・保護者向けのプリント作成。これに、教員の本業である授業研究は当然として、保護者対応が食い込んでくる。
一番時間を費やされるのが、事務書類だ。この学園は特殊だが、だからといって教員に課せられている書類が少なくなる訳ではない。
いや、わかるよ? 教育と教員の質を維持向上するため対策をとっている、という体裁とらなきゃいけないってはね。
でもこの書類いる?っていうのが多すぎる。もう少し授業や生徒指導に使えるものにしてほしい。
というか、授業研究させて? こういうのなければもっと生徒への配慮できるよ? ムダ作業押し付けて仕事した気になってるんじゃないよ? 仕事しろ文科省。
「いやー、荒れてるな! 黒瀬先生」
「…失礼しました」
途中から声が漏れていたらしい。藍原先生が隣席でニコニコ笑いかけてきた。
「災難だったな。黒瀬先生、手伝おうか?」
「いえ……、もうひと段落ですし」
「無理するな、ちゃんと言え」
藍原先生は朗らかだ。声も美しいが表情もたいへん麗しい。
職員室一美人の美術教諭、安城先生も、窓側奥の席から、廊下側反対に位置する藍原先生の笑顔に、うっとり見入っている。
なんて罪作り。これが私の疲労の元凶かと思うと、少々げんなりする。
新学年が開始し1ヶ月も経っていない。しかし今年の高1はトラブル続きだ。それにほぼほぼA子嬢が絡んでいる。
先日の黄葉ローズヒップ事件――勝手にそう呼んでいる――におさまらず、A子嬢はいつもレインボーズらの後を追いかけ、のべつ幕無し話しかけ、他の生徒を押しのけ、噛み合わない小芝居を始める。
ただでさえ、空気を読めない人間に当たりの強い若人たちである。内部進学生も、みだりに交流できないレインボーズに馴れ馴れしくするA子嬢に反感をもち、また外部進学生も、馴染もうとしないA子嬢に対し、早くも不満が募っている。もうすでにクラスで浮いてしまっているらしい。いわゆるぼっち。
クラス自体は悪くない。レインボーズが上手くクラス分けされていたのが効いた。何があろうとクラスのトップは、藍原、紫垣、青景、赤宗で揺らがない。トップが不動であることで、逆に教室内で緩やかな「住み分け」が行われている。それぞれのクラスのカラーも出てきた。赤宗のクラスに限っては、早くも一つの軍。
だから、そのカーストを理解しないA子嬢は、クラス生徒にとって目障りな存在なのだ。
もはやA子嬢は、職員室で要注意の生徒になっている。
A子嬢の担任は藍原先生だ。なので日常の指導は彼が行うのだが、藍原先生は攻略対象なので、注意されてもむしろイベントが発生している、くらいのご褒美感覚なのか、まったく気にしていない。
私も学年付副担なので指導しなければならない。だが注意しようにも、彼女は「黒瀬百合」の指示など最初から無視である。
藍原先生は今のところ、堪える様子はなく笑って済ませている。だがこれが赤宗の耳に入らない筈がない。赤宗の凄まじい微笑を思い浮かべると、胃が痛くなる。
生徒の愚痴に付き合い、ストレスばがかりたまる。
そして、相変わらずA子嬢は、自分の破滅フラグに気づかず、旺盛に活動している。
………心労がすごい。もう、授業だけ、していたい。ちょっと遠い目になった。
「黒瀬先生、頑張りますねえ」
そう言ったのは、教職5年目の山場先生だ。
顔立ちはほどほどに整っていて、彼もそれを自慢にしているところがある。甘めの顔立ちに、髪と眉を流行りの形に染め整え、服装も一見してブランド物とわかるものを、これまた流行りにのっとって着こなす。
だが、レインボーズには遠く及ばない。なにより目がいけない。背は平均ほどなのに、下から見上げるような、あるいは上から見下すような目つきをいつもしている。
「まあ僕も新任の時は頑張りましたよ。
実家も、いえ大したもんじゃないですが、チェーン店が幾つかありましてね、それらの経営に戻ったらいいと言われたんですけど、僕が居なくなったら学校が立ち行かなくなるでしょ。
運動会の運営を任された時は忙しくてね、おかげで評判は上々でしたけど。進学実績も、僕の学年良かったんですよ」
「それは大変だったでしょうね」
周りの人が。言葉には出さずにそう思った。苦労したのはこの人ではないだろう。
山場先生は、仕事が早い方ではない。今も、話している間手が止まっているし、動いている間もペースは新任の私より遅いときがある。
自慢がましいのは別にいい。だがその自慢を生徒にするのはいかがか。
クラスも上手く回せていないらしく――昨年は高1、今年は高2の担任だ――学年主任がカンカンになっているのを講師時代見た。
本人も色々承知してはいるが、身に沁みて分かっているかどうか。
自分の細かい仕事を、後輩や講師に頼んでいるのもよくある。そして自分はさっさと帰る。頼んだ仕事をこなした先生が残っているのに。なんだかなぁ、と思うことが多い。
「そうだ、黒瀬先生、手が空いたのならこのプリ」
「今のうちに休憩してきたらどうだ? 大変だよな、新任は」
目配せをしてきた藍原に、私は小さく会釈をした。
藍原先生は藍原先生で、なんだかなぁ、と思うことが多い。
口では「大変だよな」と同意しつつ、膨大な仕事の山をするするとこなしてしまう。
……大体、イケメンだったり、背が高かったりするだけで生徒には人気があるものなのに。彼はその両方を持っている上に、授業まで上手いらしい。しかも他の仕事も出来る。
まったく、赤宗といい藍原先生といい。
「世の中ってどうしてこう、不公平なんだろう………?」
「いきなりどうした?
田舎のばあちゃんが言ってた、目の疲れにはブルーベリーがいいんだと」
藍原先生は「ご褒美に」と、ポケットから飴を取り出し私の手に置いた。包装紙を見てみる。昆布飴だった。
ブルーベリーじゃないんですねわかりました。
「黒瀬先生」
呼ばれて瞬間、腰が椅子から跳ね上がる。背筋が勝手にピンと伸びた。立ち上がる時にあちこちぶつけて大きな音が立ったが、それどころじゃない。
「も、百石先生!」
声もひっくりかえった。
目の前で、疲れ切った表情の副校長が苦笑なさっていた。恥ずかしい。
およそちゃらんぽらんでいい加減な私であるが、やはり百石副校長の前だと途端恐縮してしまう。
校長と百石副校長は、教師歴30年以上の大ベテランで、私の高校時代の先生であり、大学時代にも教鞭をとっていらした。職員室でもとりわけ別格の、誇張でなく日本で最も優れた教育者だ。
大学時代この二人は、ある意味「アイドル」だった。
授業が本当に上手くて。百石先生の場合は、厳しくも愛情あふれる人柄がにじみ出るナイスミドルで、講義は口コミで人気が広がり部屋は学生で満杯、高校の授業を完全再現してくださると聞いた時は講義室全員がガッツポーズ。
おわかりだろうか、この人気。この格好よさ。見た目の美しさなど、御二方の前では風の前の塵に同じ。
副校長は今も、人手不足の学園で現役で教鞭をとっていらっしゃる。
尊い。
ちょっと生徒、そこ変われ。私に代わりに受けさせろ。
「落ち着いたか? 黒瀬」
「はい…」
副校長の呼称が高校時代に戻っている。輪をかけて恥ずかしい。埋まりたい。
安城先生が遠くでくすくす笑っている。いつの間にか山場先生は逃げ出して、自分の横に藍原先生が来ていた。私の頭を、珍しく優しく撫でてくるのが逆に辛い。ほっといてくれ。
「高1は? 今日は何かあったかい?」
「やっぱり、外部入学生と内部進学生の間で、少し摩擦がありますね。それぞれプライドが高い。ただ、ゴールデンウィークをこえたらまた違うでしょう」
藍原先生が答えた。ゴールデンウィークを越えたら?
「黒瀬先生は常勤初めてだったな。長めの休みは、生徒変わってることが多いぞ。楽しみにしとけ」
「具体的に、気になる生徒は?」
「桜井ですかねぇ」
藍原先生は、私の疑問顔に答えつつ、桜井を筆頭に――A子嬢のことだ――学年の何人かを挙げていき、周りの担任たちもそれに続く。
「まあ桜井は不思議な子ですね。言動が芝居がかってて、周り構わずというか、自分のことでいっぱいで、クラスに馴染もうともしない」
「そうか? 桜井はクラスで浮いてるが、そう芝居がかったような話し方か?」
「藍原先生に気に入られたいんじゃないか?」
「先生によって態度が違うのは当たり前だが」
「俺に気に入られたい?」と藍原先生が首を捻るが、他の先生方は「そうだろうな」と頷く。だって藍原先生、顔がいい。
「黒瀬先生はどう思う?」
「えー、どちらかというと、現実に対して、浮ついてしまっている、という印象です」
「他には?」
静かな視線に、わすがに体がこわばる。見られている。
逡巡する。言うべきだろうか。だが、何を?
一瞬、先日の、白井と赤宗とのやり取りが、頭の中を駆け巡った。
黒瀬の百石先生への感情は、完全リスペクト。
2019.12.19 改訂
2019.12.22 改訂
2019.12.24 改訂