伝統文化を伝えてわかること 3
時間軸は前回の直後。
橙野太陽は俊足である。
身が小さくちょこまかと動き、本気を出せば学園の誰も捕まえられない。
しかしながら、橙野太陽というのは同時に、思いやりのある良い子でもあった。
「俺たち何も見てませんー! あっルマちゃん、頑張って!」
「わ、わたしっ、もっ! み、見て、ませ―ん!」
「おい待て、話を聞け、太陽―!」
昔なじみの藍原の言葉にも耳を貸さず、体育館から外に出た橙野たちは、校舎へ一目散に走り続ける。
小さな久留間は、そこまで足が速くない。彼女を庇いながら進むので、本気で走れなかったのだ。
校舎の廊下に飛び込んだところで、橙野達は藍原先生に捕まった。らしい。
ただし私はその場面を見ていない。
「泰心さんカンベンしてオレたち、何も見てないんです、大丈夫だから、だから…!」
「うう、ごめんね橙野くん、私がいたばっかりに」
「いいんだルマちゃん、オレがもっと泰心さんを、上手く撒ければ……!」
「橙野お前、俺に走らせるなよ」
藍原先生が廊下奥でぶちぶち言っているのを、私ははるか遠くの、体育館につながる校舎の出入口に、寄りかかるようにして聞いた。
「…百合ちゃん、何してるの? 大丈夫?」
「……………えっほっ……黄、……うん………ふっ……えっほうぇっ!」
黄葉か。運動不足が深刻で力尽きただけだ。
と、言おうとしてむせた。騒ぎに通りかかった黄葉が、珍獣を見る目つきで私の顔を覗き込んだ。
文系国語科教員にこの捕物はきつかった。橙野に文句をいうどころではない。ひたすら咳き込む。
「太陽追いかけてるの? よくわかんないけど、タイシンに任せておけば一件落着じゃない?」
「アッ………!」
今更気が付いて倒れそうだった。
視界に入った黄葉の爪先は、先日ファミレスで見たのとはまた違う柄だ。息も絶え絶えに、彼の指先を示して「似合っている」と告げると、はにかんで、でも誇らしげな唇で、「当然でしょ」とのたもうた。
「でもアンタは相変わらずスーツ一本きりだね。折角言ってあげたのに改善しないんだ」
「私にも、事情って、もの、が」
「…この前は、その、その後どうだった?」
首をかしげると、黄葉は「ファミレスのことだよ!」とむくれた。
「どうということも。普通に友人二人と落語聞きに行ったよ」
「落語って…。ねえ、テルとは、本当に何もないの?」
「何、とは?」
「オレにばっかりしゃべらせようとして。ムカつく」
黄葉は口を尖らせる。あらまあ可愛い。
「オレは、ただ、心配なだけなの」
「私のことが?」
「何でアンタの心配するのさ。アンタみたいな小市民がしでかすことなんて、たかが知れてるでしょ!」
さりげなく馬鹿にされた。
「そうじゃなくて、アンタが来た頃からのテルの様子が! 特に最近のテルが。ちょっと変でしょ! クニマサも心配してるし。クニマサのことだからアイツ、何か百合ちゃんに言ったでしょ?」
ああ…。先日の、青景との部活前のやり取りを思い出した。
「リュウちゃんだって、あれで何か感じてるみたいだし、タイシンは…あれは、何考えてんだか」
「長い付き合いなのに?」
「全然。タイシンは誰にも相談しないよ。あ、いや、オレたちには、かな?」
藍原先生は他のレインボーズにはそんなものなのか。さっきの藍原先生も、赤宗の常ならぬ様子を感じ取った行動なのだろうか。
黄葉は、「私がしでかすことは、どうでもいい」という。なら、誰が、何をすることを、心配しているのだろう。
「結局、私にどうしてほしいの?」
「オレ達を、テルを放っておいほしい。でも放っておくのもヤバいような…もう、複雑なんだよっ」
「ねーえー、黄葉! 何してんのお?」
突然に、女の子が黄葉の腕に絡みついてきた。
周りは既に授業が終わり昼休み。こちらを見ている生徒たちが、人の流れを淀ませていた。通り過ぎていくのもこちらをみて、さやさや囁く。
「黄葉といると目立ってしょうがない」と思ったが、しばらくすると、はてどうも雰囲気がいつもと違う。
囁き声は「あれが黒瀬?」「見たことないけど」「一般人だろ」「フツーだな」とこぼした。
ーーまた、あんな所にいる。うざ。
ーー黄葉もなんであんなつまんないのに付き合ってやるのか。
ーー年考えなよ、おばさん
ーー存在自体がダサいんだから、さ。
くすくすくす。
笑いが、今度は波紋のように奥へ奥へ、じわじわと広がっていく。黄葉もいつもと違う様子に困惑し、女の子たちから腕をはがした。それでも声はものともせずに、密やかに、しかし速やかに染み渡る。
こそこそ、ひそひそ。少しづつ毒をはらんでいく。
中身も外見も大したことないくせに。
パッとしないしな。
空気読めないよね、邪魔くさーい。
「教員のクセに、勘違いして出しゃばってるんじゃねーよ」
「うざいんだよ、死ね」
誰の声だったかは分からない。丁度囁き合いの途切れた一瞬に落ち込んでいて、やたらに廊下に響いた。
黄葉の眉間に皺が寄り、険しい目で辺りを射た。美形が怒ると迫力がある。ましてや、学園ヒエラルキーのトップ。人垣も、まさかこんなにも声が大きく響くとは思っていなかったろう。しかも私ではなく、黄葉が激怒するとは。人影が臆して明らかに一歩下がる。それがますます黄葉を苛立たせた。
大したことじゃないと私がなだめると、彼は憤慨した。
「だって卑怯だ。誰ともわからないように言って、最低じゃないか」
「いつものことだよ、貴方だって、ダサいとか同じようなこと考えてただろ」
言ってすぐに後悔した。
黄葉の表情が抜け落ちたと思ったら、今度はぽろんと涙が一筋落ちた。
「オレ、違う、オレ」
やばい、失敗した、泣かしてしまった。これは、赤宗に知られたら「生まれ変わったら茹でても口を開けないハズレあさりになりたい」と言うまでトッチメられてしまう。というかフツーに申し訳ない。
「ごめん、黄葉、私が間違えてた。なんだかんだ貴方、気が優しいもの、私のこと心配してたんだよな」
「だって……あ、んまり、スーツがダサいから…」
「ダサ…いやスーツは3着買っていくらの庶民の味方で……そうだな私がダサいのは本当だものな。
私も言い方キツかったよな、黄葉が言った訳じゃないのに。そこまで怒るなと言いたかっただけで。ちょうどイライラして八つ当たりしてしまったんだ、先生最低だよ。
よくよく考えたらさっき聞こえた声も正しいよな。年齢考えて行動しなきゃ、年齢に応じた責任ってあるよ、人間として当たり前だし。
そうだな誰も何も間違っちゃいない………もー、泣くなよ!」
人垣からの囁きは、毒を孕んではいるが、あながち間違いではない。
中身も外見も大したことのない出しゃばり。それは現実だ。
所詮、一般人でフツーなのだ、私は。身の丈に合った生活をすべき、非才凡人なのだ。
大体、この程度の陰口なんて日常ではないだろうか。むしろ陰口で済んでいるのは幸いというヤツで、ネットに書き込んで学校や教員をおとしめようとする事例も数多い。
教員をいじめる方に発展しないのは、良くも悪くも学園が監視空間だから。生徒の安全を保障するための監視カメラは、逆に彼らを四六時中監視している。校舎内で、カメラの死角を探す方が難しい。悪口くらいしか、彼らのストレス発散はない。
彼らは自由と安全を保証されているのに、不自由で、少し哀れだ。
それにしても、やはりちょっと変だ。私に対しての陰口は毎年、中間後から二学期にかけて激しくなるもので――物言いと授業がキツいのだそうだ――今年は少し、一月か二月、早い気がする。やはり専任教員になって、生徒と顔を突き合わせる時間が増えたからだろうか。
そして、黄葉はやっぱり泣き止まない。もう言葉にならない様子で、綺麗なヘーゼルの目からぽろんぽろんと、やはり綺麗な涙が落ちてくる。
ああ、もう、どうやったら泣き止む?
「…大丈夫ですか?」
見かねたのか、通りがかりの女生徒が声をかけてくれた。凛とした自省の利いた声音をしている。
ペリー・ショートの黒髪、強い意志を感じさせる眉で、美しい弧を描く輪郭は、凛々しくもまぎれもなく女性のものだった。
身長が高いわけではないが、制服から伸びた手足が真白く眩しい。
「ああ、ありがとう。ちょっと困惑していてね、どうやったら泣き止んでくれるのか………黄葉、なんで泣き止んでんの」
向き直ると黄葉の涙はぴたりと止んでいた。それどころか潤んだ目と、薄紅に染まる頬で、直立の姿勢だ。
……美人の前で虚勢か、貴方も男の子だったのだね。おばさん、泣き止んでくれて嬉しいよ、切ないけど。
と、黄葉がぱくぱくと、かすれた声であえいだ。
「あ、おい、さん」
「アオイサン? 仲良しの人?」
私の疑問形に、今度は人垣がざわついた。アッこれは私が学園の常識を知らないヤツ。
目の前の美人は凛々しく苦笑すると、背筋の一本通った格好よさで軽く頭を下げた。
「弟弟子がお世話になっております、黒瀬先生。立花葵と申します」
「こ、婚約者! 婚約者だから!」
黄葉はやっと息を吹き返して叫んだ。はあ、黄葉の婚約者ね。
うん?
「あ、葵さん、これは、その、感情が高ぶって勝手に涙が出たというか…ていうか、弟弟子とかじゃなくて、こ、婚約者だって言ってって、いつも言ってるじゃん」
「婚約しているからといって具体的な感情があるわけでもない。弟弟子の方が正しい」
「そんなあ!」
葵嬢は何やら黄葉に冷たい。嘆息すると、葵嬢は私に向かって微笑んで見せた。
「黒瀬先生のお話は、かねがね。赤宗さんらも充実した時間を過ごしているようで、喜ばしいことです。今後ともどうぞ、彼らをよろしくお願いいたします」
「あっども」
固いが誠実な響きのある、爽やかな挨拶に、つい顎を突き出し会釈した。
青天の霹靂。まさか婚約者に今、会うなんて。
「まったく、従兄弟が剣道部にいるのですが、その部活もサボりがちで、根性というものがない。いつも女性とフラフラ、将来が心配だったのです」
「はあ、いやいや、宅のお子さんは洒落者の良い子ですよ」
「そういっていただけけるだけで。まったくアイツという奴は…」
「あ、葵さん…」
保護者と会話してる気分だ。そして、拍子抜けだ。思った以上に、お互い好印象だからだ。
黄葉の婚約者ということは、黄葉を攻略するのにライバルになる存在になるだろう。となると彼女は、彼が攻略されると没落してしまう。
葵嬢に、前世の記憶があれば、己がライバルキャラで、私は「黒瀬百合」、ゲーム上「悪徳教師」で「悪役令嬢」だと分かるはず。
この場合、彼女がとるだろう行動パターンは、婚約破棄に至らないよう、至ったとしても不仲によって没後させられないよう仲良くなるか、最初から距離を取ろうとするか。
黄葉へのクールさは分かるとして、「黒瀬」に対して友好的である必要はないのではないか。
先程の毒ある囁きの後で見た彼女は、あまりに一本気で爽快感に溢れていた。言葉を交わして、自身の感情が明らかに表情や態度に出るタイプなのがすぐわかる。
きっと前世の記憶があれば、嫌悪が態度に出るだろう。それとも彼女が知恵者で、マイナスの感情をおくびにも出さないのか。
しかし私の思考は、ここで唐突にぶち切られた。
「酷いわ、黒瀬先生! 黄葉くんを泣かせるなんて!」
チェリーブラウンの艶々した髪をなびかせて、美少女が背後に立っていた。
まだもうちょっと「伝統文化」のターン続きます。
連チャン予定。
恋愛ジャンルというより、このしょっぱさ、ラブコメですね。
2020.2.29 改訂
2020.3.8 改訂