伝統文化を伝えてわかること 1
短めで切っていきます。ご了承ください。
4月の末から暑くなってはいたが、ゴールデンウィーク明けたばかりの教室は、一気に熱気がひどくなった。蒸し暑い。
むせ返るような空気に辟易する。手に持った教科書も何やらふやけているように感じるし、短歌を読み上げるよう指名した生徒の声も、何やら遠い。読みあげる生徒も、憂鬱そうに舌を動かしている。
「…目にはさやかにみえねども…」
あまりの不愉快さに、思考が授業の外へ逃げていく。
赤宗との約束の期限が1ヶ月を切った。シナリオは手元に無く、白井と赤宗とのキューピッドは遅々として進まず。実に、A子嬢の命と私の胃は、風前の灯火である。
だが先日の収穫、婚約者2名の存在。
これまでのA子嬢の言動から、彼女の知る「シナリオ」と、今現在、レインボーズの環境や性格には、大きな違いがあるのが窺える。思うに、乙女ゲームの知識を持つ者が、シナリオを変えるために、彼らの性格を変えた可能性はないだろうか?
シナリオを手にいれるのに、手当たり次第探していくには時間も人手もない。この婚約者達が転生者で、レインボーズ達の人生に影響を与えた可能性、かけてみる価値があるのでは?
……ここまで考えられたのが今朝6時のことである。
差しあたって、婚約者二人の名前を確認して、会える場所や時間を確保して、しかし運動会の準備担当に任命されたから、まず器具を確認して委員を集めてそれから、学年通信を出して、報告書を出して、部活に顔出して。
うむ、わが身が二つないものか。
視線を感じ、ふと周りを見回すと、いくつかの影がさっと姿勢を正した。それでも生徒たちの半数近く、特に女子が、指をさし、ひそひそと顔を寄せあい、唇の端を歪めて囁き合う。
どうやら、よくない噂をされているらしい。
私語はよろしくない。だが説教をしなくてはならないのかと思うと、全身から力が抜けそうになった。この忙しいときに。説教は疲れるから嫌いだ。
ええい、大体、教室が暑すぎるのがいけない。気温はそれほどでもないが、若いのが一カ所に集まると、それだけで湿度と湿度が跳ね上がる。
学園の最先端空調設備も、先程やっと本腰を入れた様子でまだ効いていない。エアコンのクセに空気の読めない奴。ついでに、授業に身が入らないでさっき教科書の解説を噛んだのも空調のせいにしておく。詩や短歌の授業が苦手なのも暑さのせい。
他の生徒も、私語をしてない他は、机に突っ伏したり、背もたれに身を預けたり。息苦しそうに首元を緩め、教室内には下敷きで身をあおぐ音がスヤスヤぐーと。
「いや待て、最後はおかしい。
橙野、健やかな寝息をたてるな! いくらつまらない授業だろうが、流石に心外……嘘だろ、白目向いて寝ている……だと?!」
「んがごっ、起きてます起きてます、聞いてました!」
橙野は座ったまま、椅子から3センチは飛び上がった。いやいや、どの角度から見ても、橙野は寝起きだ。
「ほーう、なら次の短歌を読んでもらおうか」
「受けて立ちます!
えー、「多摩川にさらす手作りさらさらに、何そこの児のここだ愛しき」」
「それは五分前に松葉が読んだ」
「センセー、子ども死んじゃったんすか!」
「死んでない死んでない。
隣の訳を読め、「あの娘が愛しい」って書いてあるだろう。恋してるんだよ、恋」
「児って児童館とかの児でしょ、子どもじゃん! 悲しんでるじゃん!」
「それ3分前に解説し終わった訳だよ…。やっぱり寝てるじゃないか」
だがいい発言である。授業無いでは覚えていても、テスト前には忘れている、よく生徒が間違えるポイントだ。
よし、強調して伝えておこう。
「「児」は、年頃の娘さん。「かなしき」は、「愛しい」という意味。
「可愛らしいお嬢さん、僕はあの子のことが可愛くていとしくてならないのだ」くらいの、恋の歌だと考えて欲しい」
「恋は悲しいんですか!」
奥深い言葉。これがちゃんと授業聞いた結果だったらなあ。
これは橙野自身で、歌の内容を考え、感じてもらうしかない。しばらく考え込んだ後、高校で聞いた解釈をぶつけてみる。
「「手作り」とは、女たちが作った布のことだ。
万葉の時代、春が来ると、冬の間に作ってあったおろしたての布を、春のぬくもりで緩んだ川の水で洗う。一種の儀式、当時の村のイベントのようなもので、着物の管理は女の役目だから、娘達はこぞって川に行って布を洗った」
懐かしい。私が高校にいた時は、まだ百石先生もこの瑠守良実学園ではなく、私の母校で教鞭をとっていた。あの人の美しくロマンチストな解釈で、この短歌が好きになった。
「想像して御覧。澄んだ川の流れでひらめく白い布。その間では意中の可愛らしい娘が、着物をたくし上げ、笑いながら作業している。きらめく水晶のような水が、白い彼女の手足や肌を滑っていく、それを青年たちは遠くから眺めている…」
「ノゾキだ!」
「違う! 眺めている!」
「そいつらスケベですね!」
「そっ、うん…いや、……」
正解ではないが間違いでもないので、否定出来ない。
橙野は無邪気に畳みかける。
「先生、マンヨーシューの歌って皆スケベなんですか!?」
私はどこで間違えた。もっと素敵な、リリカルで素朴なことを言っていたはずなのに?
取り敢えず万葉集の間違った印象は訂正しておかねばならない、力強く言い切った。
「何言ってんだ、男はみんなスケベだろう。万葉集は健全だ!」
「異議あり! 男への風評被害だ!」
今度は教室の各地から男性陣の猛烈な抗議が挙がった。
でも黒瀬先生間違ってない。大学の先生言ってたもん。大学時代研究室での男性飲み会に紛れ込んでしまった時の会話で、しみじみそう思った。レインボーズの紫垣以下、受け持った生徒で確信した。
議論はそのままあらぬ方向へ流れ、何故か次回の授業では小倉百人一首をやることになった。その時、女性陣が男性陣を冷ややかな目で見るようになった点は、少し悪いことをしたと思っている。
2020.1.21 改訂
2020.1.22 改訂