星の降る夜に手をつないだ、遠い夏の日。
宴もたけなわ、二次会である居酒屋の個室はそろそろ無法地帯と化しそうだ。
誰のつついた皿かわからないけど、あるから食べる料理は、きっと味すらわからなくなっているだろう。飲み残しの酒で新しいカクテルを生み出そうとする錬金術師もいる。勇者じゃなく猛者だ。
皆ぐにゃぐにゃと管を巻き、人間の体をなしていない。
潮時を見て取り、ビールジョッキをグビリと空にしてテーブルに置き、代わりに小さいショルダーバッグを手にすると、シヅは危なげなく立ち上がった。
染めて綺麗に巻いた髪を揺らしながら周りと笑いさざめいていたチヤの酩酊した目が、別の列、対角線にいるシヅを見て理性の光を取り戻す。
んふ、とにんまりつり上がった唇は、飲んでる割にはみっともない事になっていない。せっせと塗り直しているのか、グロスの濡れた艶やかさも健在だ。
スルリと輪を抜けた女は、シヅが部屋を抜けたところで「もう帰っちゃうのぉ?」としなだれ掛かってくる。酒臭い息、香水や化粧の匂い。シヅは眉間にシワを刻んだ。
「帰るよ」
女に甘えられても困る。シヅはそっとぐにゃぐにゃの女を押し返すが、何せぐにゃぐにゃなのでうまくいかない。
「また会える?」
潤んだ目で見上げるあざとさは男にやれ。
「シヅちゃんはいっつも遊んでくれないんだから」
ぷりぷりと怒る。こういう女が可愛いのだろう。多分。少々キャラとしてどうなのかと思うが、愛想が無いよりある方が良かろう。
「シヅちゃん、今度お茶してね? 絶対、近い内に。本当に。ね?」
「男に言えよ」
「アタシは女同士の話がしたいの!」
絶対だからね、と念押しして、チヤは後ろ髪を引かれつつ席に戻って行った。
チヤの拗ねた目に構うのは面倒で、それでも多分己が呼び出しに応じるのだろうとシヅは溜息を吐く。そうして、今度こそ部屋を後にした。
*
星を見るにはしんと冷えた冬が良いらしい。冴えた夜空は凍えるくらいが美しい。
夏の生ぬるい深夜、昼間の掻いた汗を端から干上がらせる焼け付く日差しは無いが、やり過ごせぬ熱を冷ます風もない。
星は年中美しいが、街の灯に圧されて申し訳程度に瞬くだけだ。
空を眺めながらぶらぶら歩いていた。
終電はとうの昔に行ってしまい、そう遠くないから酔い覚ましに歩く事にしたのだ。幸い、明日は休みなのだし。
ふとそよ吹く風に酒気を嗅ぎ、シヅはバッグのストラップを掴み、左脚を軸に後ろ回し蹴りを放つ。
ピンヒールは呆気なく空振ったが、返す手で振り上げたバッグがヒットした。
「一カケラのためらいも手加減もねえ」
己の腹にヒットしたバッグを掴んでゲラゲラ笑うのは、同窓生の佐藤だ。
優男だが、まあ背は伸びたし、昔から顔と運動神経はいい。頭は少々残念だが。
「後ろをつけて来てるヤツになんのためらいや手加減が要る?」
シヅが油断なく右脚を半歩退くと、降参、というように佐藤は手を上げた。
「声掛けようと思ったんだけど、空見てるシヅ見てたら、何か懐かしくってさ」
同じ事を思い出していたシヅは不機嫌に眉を寄せた。昔、小学生の頃佐藤と夜の学校に忍び込んだ事だ。
勇者になる、とかアホな事を抜かす佐藤に付き合わされ、蚊に刺されまくって、見回りの先生に見付かって親にも叱られた黒歴史である。
「私に何の用?」
尖った声に、一緒に帰ろう、と佐藤は言った。伝説になろう、と言った子供の頃と変わらぬ笑みで。
愛想の無いシヅとは逆に、佐藤は昔からよく笑う子供だった。
昔は、シヅはそんな風に笑える佐藤がうらやましかった時期がある。無邪気に「勇者になる!」などと言える子供になりたいとは思わないが、そんな風に子供らしい方が良いのだろうかと、子供の頃は悩んだ。
時間の無駄なだけだったが。
「一人がいい」
「送らせて」
「一人で帰れる」
「水臭いなあ。女の子一人でなんて、ダメだよ。夜道は危ないんだから」
シヅは、送り狼という生き物が居てな、とは言わなかった。この男にそんな心配するだけ無駄だ。
酒で随分とご機嫌だが弱いわけでない様で、しゃんとしているし、初撃の回し蹴りは回避してみせた。
面倒な酔っ払いとの問答をするのをあきらめて是と答え、佐藤は嬉しそうにシヅの手を引いて歩き出す。
何で手つないでんだコイツ。
「懐かしいな~、俺、小さい頃こうやって夜の道友達と歩いたんだ。天の川が見えて、夏の大三角形探して、」
俺は見付けられなかった、と眉尻が少し残念そうに下がる。
「夏休みに小学校に忍び込んだんだよ。確か、伝説を作る、とか言って」
佐藤の記憶能力仕事しろ。他人の様に話すが、その友達とやらは間違いなくシヅだ。
「楽しかった事だけは覚えてるんだけどな。こうやって手をつないで、ずっとわくわくしてた。遠足よりドキドキしたよ。誰も居ない学校で二人きり。何したって自由! みたいな」
音楽室の偉人の絵に落書きしたり、人体模型をバラしたり、校長室でヅラという名の校長の分身を発見してニノミヤキンジロウの像と合体させてみたり、冒険の中身はなかなかに酷いが。まあ、それはもうドキドキだった。校長が夏休み明けにカミングアウトして以来、悟りを開いた様におおらかに寛容になったのもまた衝撃だった。
「俺、その子の事ずっと好きだったんだ」
えへへ、と佐藤は笑った。
三日月の淡い光が、ちょっと照れた朗らかな笑みを照らしている。
思わず振り返ったシヅは、まじまじとソレを見つめ、うっかり足を止め掛けた。
「……は?」
佐藤はにこにこと話を続ける。
「夜のデート。何したって驚きも喜びもしなくてさ。リアクション薄いから、どうしても驚かせたくて。何か俄然ファイトが沸いたんだよね」
要らんスイッチをオンにするな。
というか、待て。これは何のカミングアウトだ。
佐藤が、好き? 誰を。夜のデートって何だ。あの黒歴史がデートだなどと断じて認めん。第一こちらは一切関知していない。
「夏は長いから、思い出が欲しかったんだ」
意味がわからん。
黒歴史を封印したい。いっそ佐藤ごと封じたい。
「あの子もね、シヅみたいに星ばかり眺めてたよ。いっそ夜の学校探検じゃなくって、星を見に山に誘えば良かったな」
「……そう」
星か。山なら綺麗に見えるのだろうか。
それを想像しようとして、出来なくて少し落胆した。山には行った事がない。
だが、黒歴史よりマシだったんではなかろうか。
まあ、過ぎた過去には戻れないのだから今更どうしようもないのだが。
「あ……ねえ、チヤと何話してたの?」
チヤ。シヅとは真逆の可愛い女だ。佐藤とは幼稚園から一緒の。
ドクリと心臓が嫌な音を立てた。酒を過ごしただろうか。
「遊ぼうと、誘われて」
己の乾いた声が他人のように響いた。
何だろう、まるで、ショックを受けてるみたいじゃないか。
チヤの話をする佐藤の笑みが、酷く優しい事に。
苦しいなんて事あるはずない。
それじゃあまるで。
そんなはずない。だって相手は佐藤だぞ?
ずっと上の空で、気付けばアパートの近くまで来ていた。これ幸いと「ここまででいい」と言った。
「家まで送る」
押しが強い佐藤に今までで一番イラッとした。早く帰れ。
「ほっといても死なないから大丈夫」
「これだけは譲れないよ」
キリッとするな。
何で旧友と手をつないで歩いてるんだろう、と思いながら帰り、アパートの前で「またね」と手を振られ。
漸く帰り着いた部屋でベッドに倒れ込むと、シヅは泥のように眠った。
*
「――ああ、チヤ? ……ダメだった。言えなかった。今更だって、黒歴史だって顔に書いてあった。無理だよだって、だって……シヅ、すごく迷惑そうな顔してた……話してても上の空だし、やっぱ無理ぃ……ぐす。泣いてない。泣いてないやい。……チヤがシヅ呼び出してくれても、そこに俺行ったらシヅ帰っちゃいそう。あ。やっぱ泣きそう俺泣いていい?」
――泣くなヘタレ。シヅちゃん好きなんでしょ? 好きなら前向きに努力しなさい!
存外泣き虫な佐藤は、「が、がんばる……」と何とも締まらぬ様で頷いて涙を拭った。