第五話 煙突掃除
夕方。黄昏時。都市の暗がりはさらに暗さを増していく時間。仕事を終えた人々が自宅へと戻る時間。あるいは学業を終えた学生たちが夜の街へと繰り出すような時間である。警邏は今からが本番と巡回を始めている。
そんな日柳外縁部居住区に存在するアパルトメント、その202号室。雪弥や由宇の言うところの風呂トイレ別の1LDKの部屋。ボロボロでいろいろなところが軋む上に外縁部ということもあって格安のアパルトメント。今や自宅。
その食卓に雪弥と由宇はいた。雪弥の作った夕食に舌鼓を打ちながら、今日あったことなどを由宇が報告する。噂話や三上に聞いた話など。
日本にいた時には考えられないほど安定した生活。確かに苦しくはあるのだが、学校という一番大きな金食い虫が消えたことによって非常に生活は楽になっている。
たとえば、夕食の品が一品増えたとか。多少なりとも趣味に没頭できるようになっただとか。水を自由に使えるようになっただとか。結構楽になっていた。
もちろん、元の世界と比べて不便なことはある。夜は機関機械を使えないだとか、そういう不便はある。危険もないとは言えない。それでも前よりははるかにマシな生活だと二人は思っている。
それに意外なことに異世界の方が科学技術のレベルは上だった。もともと少ない帰る理由はさらに少なくなった。だから、二人は元の世界に帰る気などなくこの世界で生きていくことに決めた。
もともと帰れるかもわからず、どうしてこの世界に呼ばれたのかもわからないが、雪弥曰く「すっぱりとあきらめて、さっさとここで生きることを考えたほうが建設的」とのことなので、二人は帰るという考えをすっぱりと捨てている。
そんなわけで今、考えることはこれからのことである。
「それで、お兄様の方は何かわかりましたか?」
「いいや、由宇もみたいだね」
「はい」
車掌の言った言葉を彼らは覚えていた。この世界に兄妹を運んだ蒸気機関車。それを彼は必要なものを必要な場所に運ぶ列車だといった。
つまり、運ばれたということは兄妹がこの世界にとって必要であるということ。ならば、何かしら必要とされる事項があるのだろうと思っていたのだが、
「魔王みたく差し迫った問題はないんだよな。本当に私たち危機に瀕してます的な」
「はい、鬼と呼ばれる怪物はいるみたいですが、今のところ対処法というか対処できる軍がいるのでなんとかなってるらしいですし。
それをどうにかするにしても、何の力もない私たちでは鬼と出会うことすらないでしょうし」
「いや、案外あるかもよ能力」
「……お兄様、小説ではありえますが、現実ではそうそう都合が良いことはありませんよ」
自分が言うのもなんだが、という風に由宇は呆れ顔で雪弥の考えを子供に言い聞かせをする母親の如く否定する。
しかし、雪弥は考える。
ないとは言い切れないと。別にあってもなくてもいいのだが、彼は己の内に何かがあることを感じていた。不確かな感覚であって、雪弥にもわからないので由宇には言っていない。
だが、確かにそこには何かがあるのだ。けれどやはり、由宇には告げない。兄は妹に心配をかけさせるわけにはいかない。
そんな常識的な知識から判断して、ただ一言だけ返す。
「そっか」
「そうです。それに、たとえ能力でもなんでもあったとしても、私はお兄様に危ないことはしてほしくありません。私はお兄様に幸せになってもらいたいのです。
ですので、早く彼女を見つけて結婚して、お子を産んでください」
「いや、それが僕の幸せだとは限らないんじゃ」
「いいえ、幸せです。お兄様が、本当に、誰かを愛して結婚してお子をもうけれたのであれば、それはお兄様にとっての幸せのはずです」
「…………」
雪弥は押し黙る。
由宇の鬼気とした言葉に。何度も、何度も聞いたその言葉に。
なぜならば、それが出来ないと自分でわかっているから。いや、本当はわかっていないのかもしれない。そんな状態だから由宇の言葉を否定できる言葉を雪弥は持ち合わせていないのは当然のことで。
結局、根負けした雪弥は肩をすくめ、由宇はそれで身を引いた。
「それで、脱線いたしましたが、これからどうしましょう」
「このままでいいんじゃない?」
「お兄様」
また、あなたは、的な呆れ顔の由宇。しかし、雪弥は素知らぬ顔で続ける。
「定職を探すにしても、僕ら何の資格も持ってないから難しいでしょ。今のままでも生活できてるんだからいいじゃない」
「お兄様、私が言ったこと聞いていましたか? 私はお兄様に危険なことはしてほしくないのです。煙突掃除は危険な仕事でしょう」
煙突掃除は危険な仕事。そんなことは重々わかっている。雪弥はそれでもそれを選んだ。賃金が高く、真夜中の数時間という短い拘束時間でかなり稼げるという至極合理的な理由で。
だが、やはり由宇はそれを納得しない。危険だからやめてほしい、と。
「んー、そういわれてもね、これ以上に給料がいい仕事なんてないし。そうそうもぐりこめないでしょ。喫茶店の給仕係でも、相当苦労したのに」
「それは、そうですが……」
日柳では仕事は多いとは言えない。安全な仕事は特に。人手はどこも足りている。足りていないのは危険で人が嫌がる仕事ばかり。煙突掃除や下水掃除など、暗がりで鬼にいつ鉢合わせてもおかしくないような仕事ばかり。そして、そういった仕事は総じて給料が高い。
ゆえに、雪弥が煙突掃除をやめる理由にはならない。それに、
「一週間でやめちゃ、悪いでしょ」
「…………はあ、お兄様がそう言いますか……わかりました。これ以上話しても平行線ですね。高校と大学の話と同じになりそうです。わかりました、ただし、無茶だけはしないでくださいね」
「わかってるよ」
「本当に、わかってますか?」
「わかってるよ」
怪しい。返事に気合が足りないというか。意志が足りないというか。
「はあ、そういうことにしておきます」
そう言って由宇は壁の時計を見る。止まっている。真夜中の十二時を過ぎた頃合い。外縁部を除いた商業区や歓楽街といった個人機関や地区別の夜間用の駆動音を抑えた夜間機関群が動いている場所以外は日柳中央の大機関すらも寝静まっている。
それはつまり雪弥が仕事に行く時間であった。
「良い時間ですか。では、私はそろそろ寝ます。明日もありますから」
「うん、お休み」
「はい、お兄様も、お仕事お気をつけて。いってらっしゃいませ」
由宇が自室へと引っ込んだところで、雪弥は作業着に着替える。上下のつなぎと支給された小型であるが強力な機関灯がついた煙突掃除の道具がくっついたホルダーを腰につけて部屋を出る。錆びた真鍮製の鍵を閉めて、仕事場へと向かう。
煙突掃除屋の組合所。外縁部からほど近い地区にある二階建ての小さな建物。夜だというのに昼間のように活気で溢れている数少ない建物の一つ。
これから仕事に行く作業着に身を包んだ煙突掃除屋たちが昼間の間に組合に申請された依頼を受注しては外へ出ていく。
雪弥が来た時もちょうどその時間帯。今まで遅刻や早すぎたりを繰り返してようやく見つけ出した時間だった。多くの煙突掃除屋たちがボードから依頼書を取っては受付に持っていっている。
「……よう」
「やあ、谷田」
「……苗字はやめてくれ、恭吾で良い。嫌いなんだ」
「ああ、ごめん、谷田」
「……ほんとに思ってんのか」
「ああ、ついね。呼びやすいし苗字の方が」
「……たく」
組合所に入り、依頼を物色していたところ、谷田がやってきた。
谷田。谷田恭吾。それが煙突掃除屋としての雪弥の相棒だった。一人で右往左往していた雪弥を助けてくれた先輩でもある。
「……で、今日はどこ行くんだ? 妹さん待ってんだろ、いつも言ってんがあんま危ねえのはやめとけよ。妹さん、泣くぞ」
「わかってるよ」
「……ほんとにわかってんのか?」
「わかってるよ」
怪しい。気合いが足りないというか、意志が足りないというか。
「……たく」
ただそれ以上は聞くことはしなかった。一応はわかっているらしいし、そのもしもの時の為に自分がパートナーになっている。
どうにもこの八坂雪弥という男は目を離せない。勿論悪い意味でだ。別段その手の感情があるわけではない。ただ心配なのだ。見るだけで、どうにも心配になるのだ、この雪弥という男は。
ゆえに、今日も恭吾が選ぶ。居住区の依頼。工場区のように高い煙突はあまりなく危険も低い。
「……行くぞ」
「了解」
その依頼に不服のない雪弥は素直に了解する。もとより自分で選ぼうとしてもえり好みするというよりはどれを選んでいいのかがわからないので渡りに船の提案である。
それを受付で受注し、依頼書に書かれた指定した場所に向かう。日柳西地区の住宅街。建物の上、そこから更に高い煙突に登れば少なからず日柳という都市の様子を見てとることができる。
夜も更けてきたということもあって、ほとんどの住人は寝静まっている。歓楽街などから遠い地区であるため、月明かりのないこの地区は暗い。それはまさに夜空のようで、煙突掃除屋の持つ携帯機関灯の光は夜空に浮かぶ星のように見えて綺麗だった。
「うん、良い眺め」
「……おいこら、手を動かせ」
「ごめんごめん、星空見たいで綺麗でね」
「星空? ああ、何十年も前は見えてたっていうあれか」
蒸気機関の発達によって人々が空を失って久しい。現代を生きる今の人々は空を知らない。星空も、月の美しさも何も知らない。
見れないのが残念ですね、とそれだけは嘆いていた由宇の言葉を思い出しながら、恭吾に言われた通り雪弥は手を動かす。
機関灯をつけて煙突の中に掃除棒を突っ込んで磨き上げて行く。単純な仕事であるが、体力を使う。その上やっているうちに煤で汚れる。高所での作業であり転落の危険性もある。それらのことから煙突掃除屋は好まれない。
しかし、なくてはならない職業であるし、煙突が綺麗になって行く様は雪弥にとって中々楽しいものがあった。凝り性でもあるので、如何に綺麗にするかを模索したりするのは建設的である。
そう言う作業をひたすら続ける、終わるまで。
「ふう、これで終わりだな」
「今日はちょっと時間かかったねえ、疲れたよ」
「……ならさっさと帰るぞ。もう遅い。それに、機関灯が切れかかってやがる」
少々時間がかかったせいなのか、携帯機関灯が明滅していた。携帯機関灯などの携帯機関機械は定期的に専用の機関に接続して動力の充填が必要となる。明滅しているということは動力がなくなって来たということ。
しかし――。
「おかしいなあ、この前組合に代えてもらったはずなだけどね」
「……なんだって?」
「それに、どうも、僕らだけじゃないみたいだし」
暗闇に明滅する灯りがいくつも見える。同業者も同じように携帯機関灯が明滅しているようだった。明らかな異常。それも不味い方向の。
「……まずい。おい、雪弥早く戻――」
しかし、早く戻ろうという、恭吾の声は最後まで発せられることはなかった。同時に機関灯が消えて、完全な暗闇が襲ったからだ。いや、それだけでなく、何者かに囲まれたからである。
歓楽街の僅かな灯りでようやく見えるが、そこにいたのはローブを纏った時代錯誤な集団だった。
「……こいつらは……」
「なに、こいつら?」
「……教団の連中だ」
「教団?」
暗がりには鬼が出る。これはこの世界の常識だ。そして、鬼が在るところに教団は現れるというのがこの日柳の裏の常識となっている。
教団。鬼の黄昏教団と呼ばれる鬼を崇める狂人共。彼らは人を喰らう鬼を神として崇めているのだ。蒸気機関によって犯された世界を救うための世界の意思であると彼らは語っている。
どういうわけか人心掌握術だけは長けているのか、それともそれだけの理由があるのかは不明であるが何度も都市を統括する都市統治会の命令で警邏によって摘発されているはずだが、いまだに撲滅されないゴキブリじみた組織である。
二人を取り囲んだローブ集団は間違いなく教団員であり、このタイミングで出てくるということは、機関灯への細工も彼らの仕業であることは間違いなかった。
鬼は暗がりに出る。だからこそ、暗がりを創ろうとした。煙突掃除屋を目標にしたのは、煙突掃除という危険な仕事をしているため、常に鬼に襲われる可能性があり、殺されたところで教団の関与が疑われないと考えたからだろう。
「……ああ、不味い。機関灯に細工したのはこいつらか。くそ、どうにかして逃げねえと。鬼が来る」
「鬼……」
「……ああ、鬼だよ」
「それって、あれ?」
雪弥が指を指す。
二人を囲んだ教団員が作った道の向こう側。さながら道のようにあけられた場所。路地の入口。そこに人型の何かがたっていた。
不定形に蠢く黒い歪な異形じみた辛うじて原型が感じられるような崩れた人型。右腕が肥大化し、巨大な爪すら持っている人型。
がた・ごと、きり・きり、とその中からは機関の駆動音のようなものが響いている。そして、血よりも紅い瞳が爛々と輝いていた。
「……チッ、ああ、くそ、ろ級の鬼だ」
『GRAAAAAA――!!』
鬼の咆哮が夜空を貫く。




