$3$ 結末
$3$ 結末
# THE THRID PERSON
いつもと同じランニングウェアを着ようとしたが、念のため顔を隠すためランニングウェアの下に、タンスから引っ張り出した白いパーカーを着て、フードを被る。視界の邪魔になるかと思ったが、案外邪魔になることはなく、藍としては少し意外だった。
――久しぶりだな。
昨日は疲れてそのまま眠ってしまった。一昨日は一応夜に出てはいるが、あの日は『走る』というよりは『折りたい』という凶暴な願望を叶えたことのほうが衝撃的だった。まだ一昨日のことだというのに、随分と昔の事のように感じる。
殺人犯と戦う可能性も捨てきれない。相手は刃物を持っている可能性が高いのだ。机をふと見渡すが、刃物といえばちゃちな鋏くらいしかない。こんな物を持っていても何の役にも立ちそうにない。むしろ病院に行くまでに警官に捕まって身体検査でもされた時の方が悲惨だ。仕方なく手ぶらで行こうと思ったところで、ふと、机の上に置いてある水色に目に留まった。
ポケットに入るちっぽけな大きさの、小学生が持っていそうなファスナーつきの正方形に近い形の財布だ。買うものは大概缶ジュースと決まっているので大体中身の予想はついている。念のため中身を確認すると中には千円札が一枚と、十円玉が八枚、百円玉が九枚入っていた。
帰りにジュースでも買うか、などと平和的で短絡的な思考を働かせて、それをズボンのポケットに突っ込む。小銭の量がかなりあるのか、そこそこの重さをポケットから感じ取れた。
慎重に、音をできるだけ立てないように玄関の鍵を掛け、ちゃんと鍵が掛かったか確認すると、藍は病院に向かって走り出す。
病院にいく、という目的で道を見ようとしたが、その気にはなれなかった。
思考的な目的でなく、動機か、動機から湧き上がるような目的――そう、もっと人が心から望むような、そういう排他的で絶対的、そして何よりそれ以外の目的のない、裏表のない純粋さが無ければ『道』は見れないだろう――などと、『道』について何でも知っているような風に考えてみる。
そしてふと気付く。
何で自分は、『道』が見えるという異質な眼球を持っているのに、どうして人との違いで不安にならないのだろうかと。
理由は二つ考えられる。
一つ目として、周りの人間に興味がないから、自分と第三者を相対的に見ようとしていないからか。
二つ目には、『道』を見るという行為が自分の望んでいる事であるから、それを不便とは思わないし、欲しいものが手に入ってそれで満足してしまっているからか。
――多分、どっちもなんだろうな。
それも片方だけ克服すれば何とかなるような問題ではなく、両方を相対的に比べ、かつ今の自分が『道』を見て、それを辿るという行為に魅力を感じなくなったとき、初めてそれを恐怖できるのだろう。他人との違い、そして何より『道』というものを見れる自分の眼球の異質さを。
それから答えの出ない事を二十分ほど悶々と考えていると、病院らしきも者が見えた。少しずつ近づいていくとそれが目当ての建物だと気付き、進行方向を調整する。
夜の病院というのは薄暗くて不気味なものだ。申し訳程度に光る、緑っぽいった蛍光灯によってライトアップされているが、それがより不気味さに拍車をかけている。
現代版の冥界の入り口と言われても違和感がない。そう感じるのは、今の藍の心理状態も関わっているのだろう。
通常の視界だけならば人魂めいた非常口の緑色の光だけを頼りに進まなければならないが、今の藍は『道』を見る事で階段や段差の存在も視覚で捉えていた。
『道』に従って階段を上っていると、踊場の表示は二階から三階へと変わっていた。しかし四階には続かず、そのまま『道』は廊下に伸びていた。
もし自分が利久の立場だったらと考える。まずは口封じをしようとするはずだ。
そして、わざわざあんな挑発をしてきたのだから、やって来ない理由がない。
――そうなると、すぐにでも病室に来る筈……・
カンだった。つまり根拠のない確信だった。
「やっぱりか……」
立っていた。今にも病室に入りそうな位置に、宮野利久が立っていた。
軽く、立ち眩みがした。
理性と本能はズレている。本能がどれだけ正しいといっても、理性が確証を得ていなければ、いざ現実に本能の方が当たっていた時に理性は追いついてこない。一つしか買ってない宝くじで一等が当たったら、こんな風になるのかもしれない。
いくら宝くじの店の店員が、あなたなら当たりますよ、と事前に言ってくれていたとしても。
「宮野、利久」
呟いた。それだけ。
首が回る。グルリと百八十度。恐ろしい速度で回転して、彼の視線が藍を射抜く。
「やっぱりか。君も俺と同じなんだ」
同じ。
その響きが、どうにも藍は気に食わなかった。
「さぁ?」
悟られまいと、あえて興味なさ気に答える。
「何を見てきたんだい? 俺は『戮す』ってだけなんだけどね。君も同じってわけじゃないだろう? これは欲求を満たしてくれる『道』だ。そのくらいは分る。見えるようになってから四ヶ月以上経つからね」
四ヶ月。
つまりそれまでは宮野は見えていなかった。そして見えるようになってから、一月、つまり中学三年の時に『戮す』という動機を満たす為に行動したのだろう。
故に、目的でも『道』が見えるということは知らない。
これはアドバンテージとなりえるが、さっきの『同類を見つける』というハッタリをかましてきたことから、こちらを油断させるための発言とも取れる。
――面倒くさい。
半ば思考を放棄した状態で、藍はそんな感想を抱いた。単純な思考しかできない藍は、それ以上の思考は自分の土俵ではないと悟る。
――考えるのが面倒くさいなら、最初から相手は分ってると考えておいた方がいいか。
『道』を見てきたキャリアは、利久の発言を信じていいのならこちらの方が上だ。しかし利久の話は矛盾していないし、納得も出来る。もちろん、今までは『戮す』という目的を抱けなかっただけで、一月に唐突に思いついただけ、という可能性もなくない。
あらゆる可能性を考慮して、そして一番現実的な可能性を模索していけば、いずれ答えは出てくる。そして最後に付加されるのは、やはり藍自信のカン。
「やっぱあの男も俺らの同類?」
「否定はしない」
それは確認。そして開演の儀。
宿命というほど大袈裟でもないが、いずれ相見えるという点は同一だった。
互いに始点は動機。
藍は『走る』為。
利久は『戮す』為。
しかし二人は、互いに目的を持った。
藍は利久を止める為。
利久は藍を殺すため。
二人の視界が同時に切り替わる。
以前は動機を満たす為の『道』。
今は目的を達成する為の『道』。
視界に映る『道』。モノは同じでも、長さも形も全く違う。
直後、二人の『道』は交錯を開始した。
# THE THRID PERSON
辿りさえすれば完全に成功する『道』。
それを見る同類同士の殺し合いにおいて、必然的に先に『道』を見た方が完全な優位に立つ。『完全』だと決定されれば、それは覆されない。『完全』は覆されないからだ。
つまりそれは勝利に直結する。
無論これは一概には言えない。藤堂東吾のように能力が劣化していれば、先に『道』を見ていたとしても、さらに上位の存在に、国枝藍や宮野利久のような者に『道』を見られていれば、それを上書きされることもある。
だが、対等の位置に存在し合う藍と利久では、やはり前述どおりのスピード勝負になる。
しかし速度は同時。ならどちらが先に『道』を見れたのか?
差が生まれる原因は『道』を見る動機、または目的。
何でもそうだが、基準が具体的であればあるほど、行う動作は限定されてくる。その中から一つ、最短のものを選び出すのと、最初から一つしかないものを見るのでは後者の方が早い。
分りやすく言えば、テーブルにばら撒かれたトランプのカード五十三枚の中からジョーカー一枚を選び出すのと、テーブルにジョーカー一枚しか置かれていない中から、ジョーカー一枚を取り出すのと同じだ。それと同じ、若干のラグが生じるのは当然だ。
つまり先手を打てたのは藍だ。
ナイフを常備していたとしても、その手に持っていなければ必然的に見えてくる『道』も遠回りなものになる。
全ての殺人において使用されたのは刃物。となると藤堂を殺すにしても同様の方法で望む筈。ならば一度『利久を止める』という抽象的な目的は一度放棄して、再度持つべき目的は一つ。
――『右腕を折る』。
犯人は右利き。その情報さえ分っていれば、懐に腕を入れる前に行動を起こせる。
『道』を見ている以上、回避は不可能。『道』を辿る行為は、完全な行為といっていい。
夜を思い出す。数日前の、あの夜の街頭の下の光景を。
それは反復に近かった。
懐に入りかけている右手首を右手で掴み、掴んだ手を支点に藍は自身の身体の向きを百八十度回転させながら脇の下に潜り込む。前回と同様の軌道を辿って右腕手首と肘を固定する。後は折るだけ、そんな時――。
折られかけの右手に持たれてるナイフに、利久は左手を伸ばす。
一瞬どころか、半瞬のナイフ捌き。
ナイフ捌きというよりは、マジックの類のように藍には見えた。
逆手に握られた左手のナイフは、そのまま藍の右の首筋に吸い込まれていく。
『道』を辿れば、右腕を折ることは出来る。しかし折っていいれば、左手に握り直されたナイフが自分の首筋を右腕が折れた後に切り裂くだろう。
「ちっ」
舌打ち、同時に目的を『反対側に回り込む』に切り替える。
利久の右腕から両手を即座に手放す――同時に屈みながら左側に踏み込み、重心を切り替える。腕を折るという目的を持っても、さっきと同じ状態になるだけだろう。藍は思考するために、一度間合いを取ろうと右足に重心を切り替えて、左足を利久とは逆方向に踏み出す。
両者の距離はリセットされ、およそ三メートル。
――なるほどね。
無理な回避はせずに、相手に『道』を辿るのを中止させる。それが間接的な回避に繋がる。互いの手の読み合い、奪い合い。
『道』を辿っていれば右腕を折ることは出来るが、それをしていたら逆に藍が殺されていた。相手は『藍が右腕を折るのを止めなければ戮す』という目的に切り替えたのだ。ただ『戮す』では、その『道』自体を見るまでの時間が掛かる上、見えて道を辿る前に右腕を折られて辿れない、という間抜けな状況になるかもしれないと考えたのだろう。故に、右腕を守る事を優先した。藍に『道』を辿らせない選択をした。
『道』を辿るという行為は、目的の為に完全だとしても、それ以外では無防備だ。
つまり今、利久が見たのは『右腕が折られたとしたら相手を殺す』道。
故に、折られなかったために藍は殺されていない。
殺す事が目的になっているが、真の目的は殺す事ではなく、引き剥がす事。
より相手の目的を妨げ、より自分の本来の目的に行動を近づけた者が勝利する。
利久も、藍も、互いに悟った。
「やり辛いな」
目的を完全に達成する『道』を見る事のできる同類同士の戦いは、相手の目的を妨げあう、趣味の悪い妨害戦だ、と。
「同感」
利久に同意を示しながら、冷や汗をかく。
もう少しでやられていた。
相手だって、大きな目的を達成する為に、今持つ目的を止むを得なく変えることだって有り得るのだ。
だが、次は折りきる。
具体性を高めれば高めるほど、『道』の完全さは増し、決定時間は減少する。
そうなると、より具体的な目的を持つべきだ。しかし具体的になると行動は限定的になる。その限定的な行動が実行できるかどうか、そして何よりさっきのように間接的に阻止されないか……。
――考えるのはイヤだから……『走って』たのにな……。
『道』を見て、それを辿るというのは同じなのに、あの時とは明らかにしている行動も、得ている感覚も違っている。全く違う。同じ行動をしているとは思えない。
左手から右手へ、弄ぶようにして得物を移し、握り直している利久を見つめながら、藍は目的を変える。
瞬間『道』に従い、藍と利久は互いに行動を開始した。
振り下ろされるナイフの軌道から、藍は彼が目的を殺害から傷害に切り替えたのを察した。殺害の為の喉ではなく、自分が動かしている四肢と軌道が交わるようにナイフの軌道を変更している。おそらく手足を切るのが目的なのだろう。
殺害よりも簡単で、より具体性を高い目的を持ち始めている。
互いに『道』を見る力の位が同等である以上、相手を上回るには目的がより達成しやすいものでなければいけない。
利久の取った行動は極端な体勢の切り替えだ。しゃがみ込むように、しかし脚だけは確実に前に出しながら、右足から左足へなぎ払うようにナイフを振るってくる。
瞬間、藍はゾッとした。
『走れ』なくなる。
恐怖以外に、一体何を感じられたのだろうか?
脊髄反射で後ろに下がってしまい、その動揺から『道』から視線を外してしまった。
本来『道』を見ていた藍の行動は成功していた。だが先と同様、藍が行動を中止した為に、利久が藍の脚に斬撃を与える事もなくなった。
――しまった……。
顔ごと利久に戻したときには、顔面までナイフが近づいていた。
「っ!」
上体を反らしてナイフを避けると、後頭部を思い切り硬い廊下に打った。鈍痛が響くが、悶絶している暇はない。両足に渾身の力を込めて地を蹴ると、藍の身体は後転して、膝が地に着けば背筋も活用して後ろに跳んで下がる。
間合いはリセットされて、両者の距離は五メートルほど。
視界がブレたりはしないが、かなりの痛みだった。内出血しているんじゃないかと疑念を抱いたが、今はそれどころじゃないと意識を現実に戻す。
「今のは殺すつもりはなかったし、君が変な行動しなけりゃ自分から危険な目にあうこともなかったんだろうけど、随分怖がるんだね……同類がそんなに怖い?」
宮野がありがたい勘違いを口にする。しかしヒット&アウェイのようなこの不自然な交戦を続けていれば、自分の本意を気付かれるのは時間の問題だろう。それはマズい。そのためにも出来るだけ早期決着を図りたい。
しかし夜の病院となると、この話し声で起きてしまう人がいるかもしれない。もし部屋から出てくれば、おそらく宮野は口封じに殺そうとするだろう。
場所を変えるか?
そうなると自分は背中を見せずに、かつ藤堂の病室には自分の方が近い位置取りを維持しながら後退させなければいけない。
無理だ、と藍は頭を振る。
そうだとすると、やはり次にかけるしかない。そして無関係の被害者を出さない為にも、次で決めるしかない。
次で最後。
そう思うと、少しだけ気持ちが晴れてきた。夏休みの課題が残る一つになったあのときの感覚に近いのだろう。そんな心理状態を思い出しながら、藍はせめてナイフを避ける方法がないかと模索する。
とりあえず得物を持っているか否かでアドバンテージがついている。相手はナイフ、こちらは素手。いくら『道』が見えていようと、相手も『道』を見る事ができるのであればこれは不利だろう。
何かないか――そう思うと、ふとポケットに何かが入っているのに気付いた。
――これは……。
少し笑いそうになる。全く使えないわけでもないが、あまりにこの場に不釣り合いな一品だったからだ。
しかし、中身がナイフの素材と余り変わらないだけあって、もしかしたら一撃くらいは防げるかもしれないと。しかし二度はないだろう。おそらく破かれれば終わり。中身が散在する結果は明白だ。
しかし藍は、それ以外の使い道を考え出した。
利久は余裕の笑みを浮かばせて。
藍は挽回のチャンスを抱きながら。
少しずつ、互いに互いの間合いを詰めていく。
そして、三メートルほどの距離になった所で、互いに大きく挙動を変えた。
藍はポケットからそれを取り出し駆け抜けて、利久はそれを向かえ打つ形で――
二人の最後の邂逅は、そこで幕を上げた。
# THE THRID PERSON
『道』を見てそれを辿る以上、イレギュラーには対応できない。
藍が利久の右腕を折ろうとしたときに、それとは直接関連しない事象――藍の首筋を切り裂くという事象が起こりかけた。しかしそれは『もし藍が右腕を折っていれば、ナイフを避けられずに藍は殺される』という条件分岐的な状況であるため、藍が右腕を折るのを諦めれば避けることは叶った。逆に、利久が『確実に殺す』という目的で『道』を見ていたら、それが見える前に藍に右腕を折られていただろう。
今の利久の場合、具体性を高めて目的を持つと、『刃で手足を寸断した後に殺す』ということになる。手足があれば抵抗されるが、最初にそれらを潰してしまえば抵抗される事はない。
それが宮野の墓穴を掘る形になる。
実質、藍はそれを誘導した形になる。
素手の藍。得物を持つ利久。普通の人間ならば、よほどの自信がない限りは、徒手空拳で武装した人間と対峙しようとは思わないだろう。となるとそれ相応の道具を持ち出すはずと常識的に考えてしまう。しかし藍は素手。という事は藍は得物の持ち合わせがないと利久は思い込んでしまう。実際、藍も得物は持ち合わせていなかった。
藍が持ちえていたのは、
小銭の溜まった財布という、擬似的な金属塊だ。
金属の塊は、手足を斬る。それ自体には何ら関係性がない。『道』を辿っている以上、その辿るという行為を物理的に防ぐ事は出来ない。進んだ針を戻す事など、出来やしない。しいていうのなら、相手が『道』を見ていなければ武器になるかもしれないものだというだけのものだ。
無論、藍はそれでナイフを防ごうとは思っていない。何故ならそれを取り出せば、宮野利久は『道』が見えなくなるから退くだろうし、見えていたとしたら、『道』は辿れば実現される。それはもう防げないという意味だ。
辿れば完全再現される『道』。だがそれにも人間ゆえの弱点が存在する。
ようは、辿れなければ再現されないのだ。
防ぐ方法はない。だが辿れない。辿らせないという方法がある。たった一つ、藍は目的を持って、陳腐極まりないソレのファスナーを片手で開けて――
宮野利久の顔面に向かって、投擲する。
THE THRID PERSON
反射、というものをご存知だろうか?
動物の生理作用のうちで、生命の危機の回避やには欠かせないものだ。生物学の定義では、特定の刺激に対する反応として、意識される事なく起こるものを指す。
緊張によって汗をかいたり、くしゃみをしたりと色々あるが、その中でも、熱されたヤカンに触れれて手を引っ込めたり、顔面に物体が飛来してきた際に目を瞑る、または回避しようとする反射、俗に屈筋反射というものが存在する。
刺激によっては条件反射であることもあるが、どちらにせよ、誰でも顔面に飛来物が投擲されれば瞼を閉じるなり避けるなりという行動を取るだろう。
それは、宮野利久とて例外ではない。
投擲物は顔面へと投げられた。当然、彼は思考するまもなく反射してしまう。
――しまった。
そう認識した時には、既に彼のナイフは宙を切る。
本来、彼のナイフは国枝藍の手足を寸断し、そして彼女の首筋を切り裂いていただろう。
しかし、それには条件があった。
それは、『道』を辿るという条件。
そして、『道』は視界に映るものだ。
人間は、外界からの情報の約七割を視覚から得ていると言われてる。このことから、眼球という受容器がいかに人間にとって重要な器官であるか分るだろう。科学技術が発達するにつれて、テレビやパソコン、携帯電話、冷蔵庫やストーブにすら、今に光を用いて情報を出力している『画面』というものが存在し、その技術が発達し続けている事もそれを裏付けている。それだけ視覚というのは便利で、故に重要なのだ。
だからこそ、誰しも危険が迫っていると知ってしまえば、目を守ろうとしてしまう。
そしてそれは、宮野利久にとって本末転倒以外の何物でもなかった。
視界から『道』が外れてしまう。ソレは『道』を辿れないという事を意味する。道を辿れば達成されるが、道を見なければ辿れず、そして辿れないという事は達成できないということなのだ。目を瞑らなければ成功したかもしれない。だが金属塊は視界を邪魔した。故に『道』は見えなくなり、見えないものは辿れない。
目を瞑ったが、最後だった。
瞼が開かれた時には、さっきまで見ていた『道』は、完全なものではなくなっていた。
視界に広がる光景。
真夜中の病院の廊下に、小銭がばら撒かれる音が鳴り響く。
彼女は自分の見ていなかった世界を見続けていた。自分が見ていない間に、こんな懐まで接近していた。
べきり、と嫌な音と鈍痛。
音と痛み。二つの刺激を知覚しながら、目で音のした方向を追うと、そこにあったのは、無残な方向に折れ曲がった自分の右手だった。
そして銀色は、既に自分から隔絶された右手から零れ落ちて、彼女の手元に滑り込む。今の彼の感覚ならば向こうの岸ほどにもなる距離を開けていた。
――ああ、遠い。
今迄で一番近い距離でありながら、今迄で一番遠く感じる。
距離を決めるのは、自分の手にあるか、相手の手にあるか。
試しに奪い返してみようと、『道』を見る。それは見えた。
左手を伸ばしてみようと、不安定な体勢のままに伸ばしてみる。自分の手が切れるのも気にせずに刃を握り、奪い返したはいいが、その瞬間、顔面に闇が叩き込まれた。
鼻が痛む。遅れて涙が溢れてくる。拳骨か掌底か。打撃が顔面を襲ったのは言うまでも無く、その衝撃が収まる前に、左手からも嫌な感覚が伝わってきた。
無常に、そして自然に。鋭利な鉄が夜中の廊下に落ちる、けたたましくも物悲しい音が木霊した。
# THE THRID PERSON
藍は眺めていた。
暗い床に倒れこむ、いつでも刺し殺せる殺人鬼を。
殺す気はない。そんな平和的な思考を働かせてはいられなかった。自分の安全を確保する為にも、この男を一撃で殺せる『道』を見続けている必要があったからだ。
「俺さ……君を見たときにすぐに気付いたんだよね……君が俺と同類だって……君はどうだった?」
答える気は無かった。聞く気も無かった。呆然と眺め続けているだけで、その質問に対して返答を考えてすらいなかった。
「さぁ、覚えてない」
なのに、返答していた。
肯定はしなかった。でも実際は覚えている。なのに、はぐらかした。ふと見ると、同級生は満足そうな顔をしていた。
「そうか。覚えてないのか……」
確信しているのに、自分のうわべの否定に納得したような演技をしている。どういう意図があるのか分らない。だが、それはそれで気分が悪いというものだ。藍は話題を変えることにした。
「あなた、自分が何してきたか分ってる?」
「ああ。君と同じことだよ。手段が違っただけだろ、俺達」
するとゆらりと立ち上がった。予想だにしない行動に、藍はナイフを右手に身構えたが、ソレを見た利久は鼻で笑った。
「そうね。でも倫理って知ってるかしら? 道徳って理解してる?」
「君が分ってるようには俺は思えないけどね」
少しばかり警戒したが、両腕はブラブラと揺れていた。アレで動くとは思えない。
ふらふらと、廊下の突き当たりの窓に寄りかかる。月の光差し込んで、利久の表情を照らし出す。
その顔が、人間に刃を振るった経験のある男の顔とは、藍には到底思えなかった。
「さて……どうしようもないな……」
男は窓の外を眺めていた。夜の月か、夜景なのか。
「やっぱり俺は……目的なんて持つべきじゃなかったんだな。あのままでよかったんだ」
その言葉を訊いて、藍は妙に嫌気が差した。大した目的でもないだろうに、と。
「なんだ、国枝か……そこにいるのは……いつぞやのか」
後ろから、突然声が掛かってきた。びくりと反射的に振り返ると、壁に寄りかかるようにして、一人の患者が立っていた。
「夜中に騒ぎ回しやがって……」
「藤堂先輩……」
立っていいのか、などと聞くまでもない。立ち歩いていい筈がない。
「生きてるんだね、やっぱり。どうしようかな。意識が戻ったのなら殺さなければいけないんだけど」
無理だ。そう直感する。身体的な負傷の度合いでも、ナイフを所有しているという点でも藍の方が優位に立っている。この状況を打破できるとは思えない。
「それより先輩は大丈夫なんですか?」
「大丈夫なわけあるか。とにかく警備員を呼んでくる」
そういうと、ずるずると藤堂は壁にもたれながら遠ざかっていく。すると、利久は眉をひそめて、言った。
「そっちの先輩、本当に大丈夫?」
え、と藍は、思わず再度振り返って藤堂に視線を移した。
「あ……」
藤堂は目を見開いていた。何がどうしたのかと、ふと宮野に視線を戻すと、窓が開け放たれていた。
そこに宮野の姿はない。どこに行ったかは明白だ。
藍は窓に駆け寄る。ここはたしか三階だ。軽傷で済んでも不思議じゃない。逃亡を図ったのかと外を見下ろしたが、違った。下に広がるのは芝生ではなくアスファルト。しかも駐車場の真下だ。
車は止まっておらず、黒い地に突出している灰色の車止めに、彼の頭部が直撃しているようだった。どうなったかは言うまでもない。
ソレを見て、藍は奥歯が壊れんばかりの力を持って歯軋りを立てていた。
「この……卑怯者」
藍のセリフはいざ知らず、男だったモノの表情はどこまでも穏やかだった。