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    # THE THRID PERSON


 二日後。一時間目には説明があった。

 殺されたのは、一年二組の戸松千賀子。事前に話は聞いていただろうに一年の女子生徒達からは泣き声が聞えてきた。関係ない人間のこととはいえ、そのことに関しなんとも思わない自分はおかしいのだろうか? 顔も知らない人間が殺されたと聞いても、元々自身の世界に存在しないものが、現実の世界で消えたとしても、それは藍の主観の世界では何も起こってないのと一緒だ。半ば舟を漕ぎながら校長の説明を聞いて、話が終わったらクラスで並んで教室に戻った。

 戸松千賀子。どこかで聞いた事のあるような名前だな、と思いつつも、藍は思い出すことが出来ずにいた。

 帰ってきた男子の話によると、現場となったのは校舎一階の化学室。準備室とは違って鍵は付けられていなかったらしいので、いくらでも侵入はできたそうだ。その上放課後の化学室は無人状態、目撃者は期待できないらしい。四月中旬から五月の上旬まで、一ヶ月も経たないうちに学校内で二度の殺人が起きたこともあり、新入生セミナーは延期か、もしくは中止すると教師陣が話し合っているらしい。日課はというと、少し変更したものが一週間ほど続くというのが専らの噂だ。

 その日課というのは黒板に磁石で貼られているものだ。授業はいつも通り、掃除はカット、部活は中止、生徒はホームルームが終了次第強制下校という具合だ。仮入部前から昼食時に勝手に入れたことから分かるように、文芸部室に鍵は無いので行っていてもいいが、見つかった時のリスクが相当に大きいので諦めることにする。

 二時間目が始まって、何事もなかったかのようにいつも通りの日常が始まる。

 ――暇になるな。

 おそらく一週間ほどは部活が中止になるから――特に考えずに思ったのがそんな感想で、そしてふと気付いた。

 普段なら走ればいいと迷うことなく思うはずも無いのに、今は何で『暇になる』などという事態を予想したのか?

 自分でも気付かないうちに、小さく舌打ちをした。

 ――やっぱり……あの先輩に、毒されてる……。

 そういうことにしたかった。だから藍は自分の席につくなり、次の理科総合の準備もせずに机に突っ伏したのだ。

 あの部活に入ってから、自分は変わってしまった。

 走ることに集中できずにいる。昨日だって、あんまり走れずに途中で止めてしまった。その上『走る』という目的以外で走っていた。こんなことは今までに無かった。悩む要素が無かったからだ。

 悩みたくないから、悩まずに行動したかったから、『走る』ために走るというシンプルな目的で行動しているつもりだった。

 しかしそれは目的ではないという。『走り』たいという衝動。目的は無い。ただ走るだけ。見返すから目的というのであって、反省しない、後から自分のやった行動の指標とならないのなら、それはただの言い訳ではないのか?

「はぁ……」

 最近は溜め息をついてばかりだなと、ふと思った。

 同類。

 本当にそうなのか、気になっていた。今学校を、この町を騒がしている犯人と自分は同類だ。それはなんとなく、強いて言うならカンでわかる。やり方が、自分がもし『戮す』ために戮す為ならこういう風にするのではないかと予想がつく。

 そして、藤堂も同類。

 確かめてはいない。だが自分に目をつけている理由も、事件についてただならぬ興味を持っていることも、そうだとしたら説明がつく。

 あの男は、自分の同類が出続けるのが我慢ならないのかもしれない。

 だったら自分が止めればいいじゃないかと短絡的に考えるが、止められいない理由があるから自分に頼んでいるのだという考えに行き着く。

 言い方からすれば、おそらく昔は自分と犯人と同じように、『道』が見えていた、見える目を保有していた。

 だが見えなくなった。いつ頃からかは定かではないが、自分とは一線を画している価値観を持っていることから、一ヶ月とか二ヶ月とか言うレベルでは無いだろう。人が変わるのには時間がかかる。自分がああなるには、どのくらいの時間が必要なのか、藍には分らない。

 ただ、『道』が見えなくなるというのは、辛いことだと藍は思うのだ。

 見えていることの安心感を知っているから。

 道を辿るのがどれだけ楽か知っているから。

 辿る事によって得られる感覚を、快感を知っているから。

 それは何物にも変えがたい感覚だ。ただそれにだけ真っ直ぐに意識していればいいのだから、これほどに楽なものは無い。唯一つの事を、ただただ為せばいいのだから。そして為せば、必ず成功する。

 選択肢は無い。だが選択する必要も無く、行動を起こせば失敗しない。

 それはデキレースであると同時に、安心にも繋がる。

 その安心感は、やはり何物にも代えがたい。


「え、マジ? 緑川さんと宮野君が?」

「そうなのよ。まぁ、もともと宮野君って戸松さん以外にも色んな女子とメールとかしてたしさぁ、別におかしいことじゃないと思うんだけど……」

 悶々と考え事をしていた藍の意識が覚醒したのは、そんな女子生徒の会話を聞いたからだ。

 藍の前の席とその隣に座る女子生徒二人に特に見覚えはない。コンピュータ教室といい、班分けの時といい、女子というのは誰でも噂話をしたがるものらしい。

 藍としては、緑川さん、という言い方に新鮮味を覚えた。無意識の内に自分のことは棚に上げておきながら、当然女子は誰でも、互いのことを下の名前で呼び合っているものだと思っていたからだ。

「待ってよ、それってさ……死亡フラグじゃない?」

「ちょ、不謹慎だって」

 藍の前に座る少女が、隣の少女を窘める。

「でもそういう事でしょ? え、マジヤバくない? だって前の二人も宮野君と知り合ってたって話じゃん」

 それは藍もコンピュータ教室で聞いた話だ。そう考えると、そう思えてしまう。

「まぁ、宮野君だけじゃないと思うけどね。あの顔だから目立っちゃうし。だって宮野君と同じ学校の出身の男子だっているでしょ?」

「そうだよねぇ。男子でも普通に女子とメールくらいするよねぇ」

 携帯を持っていない藍としては、そんなもんなのか? と疑問を持たずにいられなかったが、そういう話題が出るということは、少なくとも一理あるということなのだろうと結論付ける。

 当の本人はというと、少し離れた席にいるため話は聞えていないようだ。最初から多少ながらざわついている教室だ。特に気になりもしないだろう。

 無論、全ての生徒がこの一件について話しているわけでもないのだが、部活のことだったり入学セミナー延期の話だったりと、間接的には触れている話でなくもなかった。

「おい、少しうるさいぞ、こういう時だからこそちゃんとしろ」

 壇上の教師はいい加減腹が立ってきたらしく、怒鳴るとまではいかないが、そこそこの声量でクラス中の生徒を叱った。

 流石にそれに反論するような幼稚な生徒はおらず、静かになった教室で、教師は授業を再開した。


    # THE THRID PERSON


 藤堂東吾はとっくの昔に捜査に乗り出していた。


 彼が行動を起こしたのは、今から約四ヶ月ほど前、一連の事件の第一被害者が出てからすぐだ。

 その時は疑念で、第二の殺人が起きてから、それは疑念から確証に変わった。

 被害者二人には、何ら接点が無かったからからだ。

 そして第三の事件。場所は同じく学校。出身校、住所、名前、全てにおいて接点は無い。人間関係と言っても、高校生の人間関係なら九割がた学校が接点だ。それに塾や校外クラブという可能性も、調べていくにして潰れていった。

 しかし、事件の被害者、及び状況の共通点もないわけではない。

 一つ目は性別。全ての事件で殺害されたのは女子生徒だった。

 二つ目は年齢。被害者は一件目は中学三年生、二、三件目は高校一年生、つまり藍と同学年だ。

 三つ目は殺害方法。いずれも右の首側をすっぱりと切られて殺害され、阪神を血で汚していた。

 そして、いつどこで。時間と場所。

 全ての殺人において、いずれにおいて午後五時前後、学校の敷地内の特に人目につきにくい場所で殺人を実行している。


「何が言いたいかわかるか?」

 藍は正直、コイツはストーカーなんじゃないかと疑い始めていた。下校途中に自分の帰宅路で待ち伏せしていたのは言うまでもなく藤堂東吾であり、そして犯人の予想を勝手に話し始めた。別に藍は、藤堂が最初の事件から操作をしていたなんてことに興味は無かったが、話していた内容を聞くと、一応自分も被害者の基準を満たしてるらしいので、人事ではいられなくなった次第だ。

 横断歩道が赤になったのを見て、二人は歩を止める。まもなくして、目の前を車が横切り始めた。

「今回の件でハッキリした。アイツは自分と同学年の女子生徒を狙ってる」

 自分と同学年、というのは初耳で、藍はおもわず訊き返す。

「被害者が私達と同学年というだけであって、犯人が同級生とは限らないでしょう?」

「アホ。現場で争った形跡などが見当たらない事などから、呼び出して殺人を行ったと考えるのが自然だ。化学準備室や校舎裏に呼び出せ、かつ事件の起こった時間帯に学校にいて目立ちにくいとなれば教職員、もしくは生徒の可能性が高い。そして一月には中学三年生が、四月からは高校一年生がやられてる時点で、自然に考えれば犯人も同じように進級したと考えるべきだろう。わざわざ的を同級生に絞る理由は分らないが、他の学年であれば、高校生が中学校の敷地に、中学生が高校の敷地に入らなければいけなくなるから目立つ。そういう事なら既に警察が犯人の目星をつけてるだろう。しかし未だに犯人が見つからないということは……そういう事だ。無論警察もそういう風に見てるだろうけどな」

 確かに理屈で考えればそういう事になるな、と納得する。わざわざ他の学校に入るというリスクを犯す必要性が無い。

「俺の良そうだと、このままじゃ四人目が出る。出来ればそれは防ぎたい」

「元同属としてですか?」

 藍が疑念を口にする。

「それもある。そして俺にはこいつはもう止められない。だとしたら、止められるのはお前しかいない。警察は事前に事件を抑止できないし、何より犯人を捕まえる以外に止める方法が無い」

 嫌な雰囲気になったなと、藍は会話をするのですら億劫になる。

 少しずつ、『走る』こと意外に興味を抱き、普段は考えもしなかったことを考えてだしている。

 変わり始めている、今までと違う自分を自覚している。

 自分の無意識下の変化に、意識がついていけていないような気がする。自分が自分にすら追いついていない、それは喪失感というものなのか。

 どちらにせよ、自分の思考が自分の許容を超えていることは事実だ。

 今だってそうだ。億劫になるくらいなら走って逃げればいいものを、わざわざ相手の話を聞いてやっている。これを異常と言わずになんという。

 だから、

「私に……囮になれと言うんですか?」

 藤堂の次のセリフを予測できた。

 驚いたな、と、言葉と対照的にまるで驚いていないように言いながら、藤堂はそれを肯定して補足を始める。

「お前に犯人の目星でもつけててくれれば話は早いんだがな、残念ながら分らないようだし、それに犯人を確保するにあたって、相手を無抵抗に殺害できる『目』を持ってるんだから必然的に同一の能力を持つお前にお鉢が回ってくるのは当然。だいたいあっちの能力の見当は……いや、お前のと機能は同じか。ただ原因が違ってるから起こす行動やおきる結果が違うだけ。そして動機の見当がついてるって言い方が正しいのか。いやに難しいな。こういう話は」

 そのくらいは藍にも予想が出来る。目的が無く、動機が行動と直結するということは、動機がそのまま結果に現れることになる。藍が『走り』たいという動機で結果として走っているのだから、犯人がやっている事は一つだ。

「犯人は、『戮す』ために戮す『道』を凶器に辿らせる。目に映る『道』を辿るという行動は私と一緒ですね。ですが原因が、動機が違うだけで、ここまで面倒なものになってしまう」

 もし、犯人を捕まえる為に強硬手段に出るとしたら、あちらには一度も凶器を振り回されてはいけない。『道』どおりの軌道を描けば、その瞬間に藍は死に至る。行動の為だけに設定されるのが、彼らの目に映る『道』という、理不尽な力なのだから。

「確かにな。だが『戮そう』と思わなければ殺せない。お前が『走ろう』と思わなければ走れないのと同じだ。そう思うために必要なもの、それは対象だ。殺すのなら人、走るのなら足場、つまり道。それがなければ行動は起こせない」

 意味はわかっても真意がわからず、藍は藤堂に尋ねる。

「私と同じなら、犯人が『道』見るために人を見なければ殺せないという理屈は分りました。つまりどういうことですか? 先輩は何が言いたいんですか?」

「見られなければ大丈夫って事だよ。つまりな……」

 少しだけもったいぶって、藤堂は結論を出す。

「先手を打てばいい。先手必勝、一撃離脱だ」

「となると、やっぱりそいつが犯人であると言う確証が必要になりますね。でも確証を得るにはやってもらうのが一番」

 こういうのをジレンマというのだろうか? と今までの人生で一度たりとも使ったことのない単語について考える。

「ああ、でもお前にならできるかもしれない。あえて犯人に『道』を見せておいて凶器を持ち出させ、そして」


「無理ですよ。『道』は見えた時点で肯定です。辿りさえすれば成功し、辿るのを、進行しているのを邪魔されることは『道』の性質上ありません。進路に手を出せば斬られますし、ナイフとは別の軌道を掴む事は『道』を辿っているかぎり、『道』を見ている限りは不可能です。道を辿るという行為も、道を辿ったという行為にしても、どちらも必ず成功するものですから」

 目に映る『道』を辿りさえすれば成功する『道』。

『道』を辿りさえしていれば、例え雨あられのように弾丸が降り注ごうが、ミサイルがぶち込まれようが関係ない。『道』はその時既に肯定されているのだから、起こってから防ぐ準備をしたのではもう遅い。おそらく弾丸やミサイルは、行動が完結するまでは当たらないだろう。

 しかし、先手を打てば、必然的に『道』は見えない。先に銃を撃てば邪魔されないというルートは存在しないから『道』は存在しないものだ。

 つまり先手を打つ勝負になる。無論「辿りさえすれば成功する」という『道』のロジックを解明して穴を見つけるという方法もあるが、今のところは先手を打つというのが最善策だ。

「そんで、その先手を必ず成功させなけりゃ、次手の『戮す』という『道』を相手に辿られてジエンドだ。となると先手を必ず成功させる必要がある」

 そして、と一旦藤堂は間を空ける。

「必ず成功する行動が出来るのは、辿れば必ず成功する『道』を見れるお前だけだ」

 その時、藍はほんの少しだけ高揚した。


    # THE THRID PERSON


 眠たい、今日はもう寝てしまおうと、自分の部屋の電気を消して、藍はベッドに潜り込む。時計を見ると、まだ九時を過ぎたくらいだった。

 いつもなら、そろそろ『走る』準備をしている頃合だ。だが今日は『走り』に行こうとは思えない。

 目的なんて、必要ないと思っていた。

 だが今は、その思いが揺らぎ始めている。

 止めることが出来る。藤堂のその言葉に、高揚を覚えたのは事実だ。

 だが、何故?

 繋がりがある、それは、少し前に朝のニュースで一連の事件についてやっていた時に抱いた感想だ。

 どうしてこんな感想が浮かんできたのか、ただニュースを見ていただけなのに。

 あの感情について、考えた時があった。確か活動班を決めているときに、教師に対して同じ班の女子生徒が不平不満を漏らしていた時だ。

 彼女と教師の関係。彼女達が勝手に教師に対して抱いている感想。嫌いというのは、半端に分っているから出てくる感情――。 

 同属嫌悪。

 ふと、そんな単語が脳裏に浮かび上がった。

 私があの事件の犯人に対して抱いている感情は、同属嫌悪なのではないか?

「違う……」

 自分でも聞き取れないような小さな声で、呟いた。

 認めない、絶対に認めたくない。何でそうまでして自分が拒否しているのかがまるで分らない。だが認めたくないものは認めたくない。第一、走ることと殺すことでは、全く行動が違うじゃないか。

 行動が違っても、得られる感覚は同じだという自分の結論を無視して、藍は自分を納得させる。

 違う。違うと信じたい。

「ああ、もう」

 せっかく寝ようと思ったのに、これでは寝付けそうな気がしない。勢いをつけて跳ね起きると、手早くランニングウェアに着替える。藍は家から飛び出した。

 

 寝れそうになければ、『走り』たいとも思えない。いつもと違い、夜の街をトボトボと歩くだけになってしまった。

 じじじ、と街頭から音が聞える。無心で光っているんだな、と無機物に対して下らない感想を抱いた。

 ふと我に帰ると、いつのまにか駅までついていた。家から駅まで、歩けば二十分ほどは掛かる筈だ。という事は今は午後十時前。いつもならそろそろ帰ろうかと思い始める時間帯だが、今日はそんな風には思えなかった。


 何を買うわけでもなくコンビニに入るが、財布は持ち合わせていないので立ち読みでもしようかと雑誌コーナーに向かう。が、あいにく藍の興味をそそる本はなかった。

 帰ろうかと出口に向かうと、スタンド灰皿の前で若者が三人ほどたむろしていた。設置場所が悪いので、ちょうど出口を出てすぐの通るのに邪魔になる位置取りだ。全員が髪を金髪に染めてアクセサリーの類も派手。不良とかそういう類としか言いようがない。自動ドアを抜けると、すぐに出てきた藍を三人が睨め付けてくる。

 心中だけで溜め息をつきながら通り過ぎようとしたところ、突然に体の重心がいきなり前方にずれる。足首あたりに何かの感触、足を掛けられたと瞬間的に察知する。二、三歩ほど踏み出してバランスを保つ。

「テメェ人の足踏んでんじゃねぇぞコラ、あ」

 夜中で近所迷惑なのも意に介さず声を張り上げる。

 ――悪態のレベルが小学生だな。

 男は立ち上がると、襟を掴もうと右手を延ばしてくる。反射的に藍はその右手を掴み上げた。

「放せクソがっ!」

 ああ、どうしてこんな事になったのやら。

 人事のように思いながら残る二人を見てみると、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべていた。

 どうにかこの手だけでも放してもらいたい。そんな願望を抱いて、無理だよなと諦めかけたところで、ふと妙案が浮かんだ。

 自分とあの殺人犯は同属だ。つまり動機が違って、起こす行動が違うだけで、行動の邪魔をされない『道』を見るという点は同じだ。


 つまり『走ろう』なんて思わなくても、『折りたい』と思えばいいじゃないか。


『道』は、あくまで行動を成功させる過程だ。必然的にそれは、失敗する過程ではないということ、邪魔が入らない過程なのだ。

 だから、『走る』という動機でなくても、『折りたい』という目的でもいい。当然、そんな物騒な動機でもいい。

 べきょ、と嫌な感触が、自分の手から伝わってきた。

「えっ?」

 そう言ったのは他でもない、藍自身だった。意識などしていない。自分が男の右手薬指を握っていた。思いついたときには既に行動は実行されてしまっていた。

 呻きながら、指を折られた男はその場で蹲る。

「ん、ひ、ひ、ひ、ひ、ひぃ、ひ、ひ、」

 連続的に、何か空気の抜けるような音が聞えてくる。自分が笑ってるのかと気づいたが、藍本人としてはどうでもよかった。

「テメェなにし……」

 言葉は、続かない。その時既に、藍は二人目を見ながら、正確には二人目を対象として『折りたい』という凶暴な願望を抱き、その『道』を辿っていた。

 人の腕というのは酷く脆いものらしい。『折りたい』という願望を実現するために、藍の眼球は掴むべき箇所と軌道、すなわちそれが、『折りたい』という願望を満たすことの出来る『道』だ」

 体格差は関係なかった。というより、見えている間に辿れば実現できる『道』が設定されているという時点で、体格差や反撃は問題にならないという答えは出たも同然だ。

 脇の下辺りに潜り込み、肘を掴んで突き上げ、余った手で男の手首辺り掴むと、肘を掴んでいた手を二の腕辺りにまで移動させると、加減は一切なく、根元は突き上げ、手首は引き下げる。テコの要領で肘を逆に折り曲げられた男は悲鳴を上げる。

 今度は衝撃のような感覚が伝わってきた。折れたかどうかなど、『道』を辿った時点で確認するまでもなかった。

 そこで藍はふと我に帰った。しまった、やりすぎたと。

 しかし不良は明らかに自分達の方が立場的に不利だと察したらしい。元より相手は男が三人。対してこちらは女子高生一人だ。残った一人が腕の折れた男と付き添って、指の折られた男は自力でその後を続く形で勝手に逃げてくれた。馬鹿なんじゃないかと思ったが、気にする必要もないかと言う結論にたどり着いた。

 ――ナイフでも持ってたら、『斬りたい』って願望でもいいのかな?

 持っていなければ、そんな事は分からない。だが刃物の強度や切れ味によっては出来かねないなと、藍は想像しながら興奮した。


『走る』以外で、久しぶりに生きている実感が湧いた瞬間だった。

 

    # THE THRID PERSON


 血飛沫は、まるで噴水のように男の首から噴出していく。

 路面のパレットには、赤い絵の具がこれでもかと言うほどの量がぶちまけられていた。

 そこにある、絵の具の塊のようなそれを眺めながら、奇妙に不気味に笑うのは――。


    # THE THRID PERSON


「国枝さん? 大丈夫ですか?」

 肩を叩かれ、ぐわん、と視界が下から上へと一気に引き上げられる。

 次に襲ってくるのは鈍い頭痛。ひどい寝不足の時に感じるような、頭の中で響いてやまない癖の悪いタイプだ。

「気分でも悪いですか? 無理しなくてもいいですからね」

 わざわざ席まで寄ってきた教師に心配されなて、状況を整理する。

 今は一時間目の国語の授業中だった、そしていつの間にか眠りこけていたらしい。授業中に寝ていたのがバレたことに、少しばかりショックを受けた。

「いえ……大丈夫です……スミマセン……」

 酷い夢だった。昨日じゃれあった男三人が殺される夢。そして何か刃物で彼らを殺して笑っている誰か。第二回戦をするつもりは藍には毛頭無いし、そんなことをしてあの犯人と同属になるなど御免こうむりたい。

 そう言いながら、藍は席から立ち上がる。あれ、なんで立ち上がろうとしてるんだ? と思考したときには、既に足がもつれてその場にへたり込んでいた。

 椅子を引いた音か、それか藍自身が倒れかけたときの音かが相当大きかったらしく、教室中に少しざわめきが広がる。

「大丈夫じゃなさそうですね。保健室に行きましょう。立てますか?」

 立とうと机の脚を持って力むが、思うように力が入らない。

「ちょっと誰か保健室に……」

 顔を伏せている藍の頬が引きつった。もとより人付き合いの悪い自分と積極的に接しようと思うヤツいない。特に女子生徒は、自分達のコミュニティ付き合いの方が忙しいだろう。どうにか一人で立とうと思っていた矢先、

「立てる?」

 そんな男子の声が降りかかってきた。反射的に見上げると、そこにいたのは今月中旬に予定されていた新入生セミナーで、同じ活動班になっていた男子生徒だった。

 宮野利久。

 班決めのときに視線があって、藍は、鏡に映った自分を見ているようだと思った。

 その男が、自分の目の前にいる。

 不安が、藍の身体中を駆け巡る。

「じゃあ頼めますか?」

「はい。大丈夫です。ゴメン、腕借りるよ」

 前半は教師に、後半は藍に耳元でそう呟き、藍の腕を自身の方に回した。

 背筋が、凍った。

 自分に触れてきたことへの意外性ではない。

 自分に似ている目。

 今学校で起こっている殺人事件の犯人は、自分の同類。

 藤堂の話どおりなら、犯人は同級生。かつ同級生の女子生徒を、人目のつかないところで殺している。

 視界が真っ白になったかと思うと、同時に一際大きな物音が聞えた。

 反射的に藍は利久を突き飛ばし、その衝撃で利久が机にぶつかったのだろう。藍自身もその衝撃で自分の席にぶつかって、その場に崩れ落ちた。

「え、ちょっ……」

 宮野が動揺している。無理もない。手助けしようとした相手に突き飛ばされたのだから。しかし藍は、そんな宮野の態度ですら、白々しい演技をしやがって、くらいにしか思えなかった。

 無論のことながら、その一部始終を見ていたクラスメイト達の間で、喧騒が広がった。

「お前がセクハラしたからじゃね?」「違うって」「ちょっと止めなさいよ」「あの子大丈夫なの?」「欝系だとは思ってたけどアレ相当自意識過剰じゃない?」

 何か聞える。本人を前にして遠慮なく友達同士で言い合っているが、藍としてはどうでも良かった。むしろそれだけ平和ボケしていられる彼らがうらやましく、かつそんなことを思ったところで、宮野利久と二人きりになるという最悪の状況が迫り来るのをまだ回避できていないのに変わりはなく、立場を変わって欲しいと切に願った。

 そんな絶体絶命の状況の中で藍は、

「いいわ宮野君、私代わるから。大丈夫? 立てそう?」

 そんな神託じみた声を聞いた。


    # THE THRID PERSON


 藍は自分の身体を支えている人物を一瞥する。

 整った容姿、藍ほどではないが色白な肌と茶髪交じりのロングヘアーを後頭部、それも左に少しズレた位置でまとめてポニーテールにしている。

 緑川未空。

 藍のクラスのクラス委員だ。

「あなた、相当変わってる」

「あなたに言われる筋合いはないわよ国枝さん」

 的確に指摘したつもりだったが、緑川には鼻で笑われた。

 階段までたどり着く。藍が手すりを持ち、危なげにフラつく藍の隣を緑川が歩く。

「授業中はいつも寝てて、その上教師にはバレてない。学年でその存在を知ってるのはクラスの人だけ。というかクラスメイトですら貴女のことよく知らないんだけど、人付き合いも悪いし、昼食の時なんてどこにいるのか誰も知らないし」

 どうやら彼女は友達関係で忙しい他のクラスメイト達とは少し違っているらしいと感じた。普通、自分に関係ない人が、特にいじめられていたり目立ったりしてなければ誰も気にしない。そんな自分のことを知っているというだけで、藍にとっては歴史の新事実の発見並に驚愕ものだった。

「みんな人付き合いで忙しいんでしょ。自分の居場所を確保するので精一杯。普通はそんなもんでしょ」

 藍が喋るのをひとしきり聞くと、緑川は苦笑いと呆れを足して二で割ったような複雑な表情を浮かべた。

「何?」

 藍が訊く。

「そういう自分と他人を差別化してるところが、人と付き合えない要因なんじゃないかしら。端的に言うと足枷」

「枷って……」

 まるで余分なものという言い方に、藍は違和感を覚えた。

「枷っていうのは後からつけるものでしょ? 私は最初から客観的に見てただけだから、別に後からついたものじゃない。それに、私は人との間に居場所がなくても、恐怖はないし、そこにいて満たされるわけでもなかったから」

 藍の多弁が終わると、緑川は目を丸くした。

「あなたって意外と喋るのね。二人きりになったから、少しは喋ってくれるかとは思ってたけど……ここまでとは思ってなかった……私、あなたのこと誤解してたわ。もっと寡黙な人かと思ってた」

 そんな誤解に、少し笑う。

「喋る機会がないだけよ」

 藤堂といい、最近は他人とよく話すな、と最近の自分について評価していると、いつの間にか保健室の前まで着いていた。

「失礼します」

 緑川がノックするが、誰も出なければ返事もない。ドアの隙間からよく見なければ気付かない微妙な程度に光は漏れているが、それが窓から差し込む日の光なのか、それとも室内の人工的な光なのか見当はつかない。

「職員室かしら?」

 緑川は職員室のある二階を見上げるが、藍は無視してドアノブに手をかける。そして拒絶の手ごたえはなく扉は開いた。

「開いてるし……」

 本来いるべき教員の防犯精神の無さに、クラス委員はあっけに取られる。

「物騒なものね。最近は危なっかしいっていうのに」

 緑川が溜め息をつく。

 クラス委員にもなるくらいだから責任感の強い性格なのだろう。そんな人間なら、こういうのはいけ好かないというのは分からなくもない。が、

 ――危なっかしい……なんて程度で済む話ならいいけど……。

 それが藍の――藤堂の話では犯人と同属であるとされる人間として抱いた感想だった。だが悪戯に緑川を不安にさせるわけにもいかない。ここは一般的な意見を言うべきだと藍は頭痛に耐えながら思考を働かせる。

「何か急用があったんじゃない? 私としては、寝れれば関係ないんだけど……」

 とりあえず藍は腰を下ろそうと周りを見渡し、一番近くにあった軽い傷の手当などをするときに病人を座らせる革張りで背もたれのない長椅子に座る。あの男から離れたからか、少し落ち着いてきた。

「そうね。もしかして、あなたの言ってた急用と関係があるんじゃないかしら? この時間なら……そうだ、今日の一時間目と二時間目は一年の三、四組が体育じゃないかしら。何か大きなケガを負ったか何かで、一度ここまで運んでそのままにしてて、部屋の戸締りを忘れてたとか」

 緑川の意見を意にも介さず、藍は保険室内を一通り見渡し、部屋の隅にカーテンレールがしまっているのが見えた。その向こうにベッドがあるのだろう。既に体調不良の誰かが寝ているのか。

「大きなケガって……床に血痕が残ってないのは?」

 視線はカーテンに止めたまま問う。

「オキシドールで拭き取ったんじゃない? よく知らないけど。ていうか、ケガっていっても種類があるでしょ? 体育なんだから出血を伴うようなケガよりも、打撲や骨折って方が自然じゃないかしら。もしそんな大袈裟に出血する事態があったとして、それって一体どんな競技よ?」

 冗談めかしに緑川が訊いてくるが、藍はそれどころではなかった。

 この妙な胸騒ぎは何だろうか? 他の物を見渡す。物は多いが整理はされているデスク、各種薬などが置かれている木製の古い棚、カレンダー。

「無用心ね。最近は三人も殺されてるのに」

 ふと、隣で緑川が、当たり前のことを当たり前に漏らした、らしかった。

 女子。

 同級生。

 二人きり。

 藤堂から聞いた、殺人条件と現場の共通点が浮かび上がる。

 授業中、人気はない。女子生徒が来る可能性も無くはない。

 最悪の結論が、藍の脳内で浮かび上がる。

 目に付くのは、カーテン。

「ちょっと、国枝さん?」

 たったに、三メートルの間を駆けて、破かんばかりの勢いでカーテンを開け放つ。


 広がるのは、真っ白なシーツと畳まれた掛け布団。


「はぁ……脅かしやがって……先輩の馬鹿」

 そりゃ流石にないかと安堵する。いくらなんでも、それは頻度が多すぎるというものだ。

 それに、宮野利久という容疑者候補、あくまで候補ではあるが、彼は一時間目、さっきまで国語の授業中にいたというアリバイがある。

 ――流石にそれはないか。それより寝よう。疲れ……。

 そこまで考えて、いらぬ雑念が入り、藍はつい想像してしまった。

「どうしたの? 顔色悪いけど」

 改めて問いかけてきたことに藍は疑問を持ちかけたが、それだけ動揺が顔に出ていたということなのだろう。

「いや……怖くてね」

「怖いって何が?」

 藍の言い分に疑問を持ったらしく、緑川は聞き返してくる。

 保健室。緑川が去れば、藍は一人。

「なんとなくね……目撃者はいないんだし、もしかしたら殺人犯に殺されるかもって思っただけ。授業中だから人は来ないし」

 黙って聞いていたクラス委員は気の毒そうな顔をしていた。犯行が行われているのは午後五時前後というのは知っているのだし、それが自分でも詭弁だとは分ってはいるが、本能的に発生する恐怖というものは、どうしても抑える事ができなかった。そしてそんな理屈に合わない事を他人に聞かせてしまったのが情けなく、藍はこんな無駄な話は切り上げようと無理やり話を変える。

「何言ってるんだろ私……。ゴメン、もういい。ありがとう。そろそろ授業に戻った方がいいよ」

 半ば彼女に拒絶の意思を示すように言うだけ言うと、藍は室内用のスリッパを脱いで、ベッドの布団に潜り込む。

 カーテンを閉めないと、と思い立ち手を伸ばしかけたところで緑川がその手を止める。

「カーテンなんて閉めたら、余計に怖いでしょ。いいわ、保健室の先生が帰ってくるまではここにいるから」

 椅子を引っ張ってくると、緑川はブレザーの懐から文庫本を取り出した。よくそんなものを入れていたなと思い指摘したくなったが、それよりも何故彼女がここに居座ろうとするのか理解できず、藍はつい口出ししてしまう。

「でも授業……」

「今更一緒よ、あの先生、教えるの下手糞だから、途中で授業に戻ったって分んないわよ。正直サボれる口実ができてうれしいわ。それに今の学校の治安状態なら、もし先生に何か言われても、豆腐メンタルな体調不良の女子高生の心理を描写して、センチメンタリズムな言い訳ができるしね」

 飄々と、かつ堂々としたクラス委員のサボタージュ宣言を聞き、藍は思わず噴出して、そして一つ訂正する。

「それをいうなら『描写して』じゃなくて、『加工して』じゃない?」

「『編集して』でもいけるけどね」

 二人は互いのセリフに失笑した。


    # THE THRID PERSON


 気がつくと二時間目が終わっていた。一時間ほど寝ると大分楽になった。保健室には教員が既に戻っており、それゆえ緑川は教室に戻っていた。藍は教員に一言声をかけてから、保健室を後にした。

 気分が楽になると、過去のことを冷静に考えてしまうこともあり、利久を突き飛ばしたのはやりすぎたと少し反省した。

「もういいの?」

 教室に戻ると、最初に声をかけてきたのは緑川だった。それに連れられる形で、緑川と仲が良いらしい女子が三名ほど群がってくる。その内一人は新入生セミナーの活動班で一緒だった人だ。

「ゴメン。もう大丈夫だから」

 そう言いながら人ごみを掻き分けて、藍は利久の方に歩いていく。

 数人の男子と話していた。闖入者に気付き、利久以外の男子生徒も藍を見据えるが、藍は利久以外には見向きもしなかった。

「何?」

 どう言っていいのかわからないが、少なくとも親切心だったのだ。それを拒絶した事に、少しは誠意を払わなければいけないかなと思い、おもむろに口を開く。

「ごめんなさい。さっきはその……調子が悪くて動揺してたから……心配かけてすみませんでした」

 考えをまとめてもいないのに口に出してしまい、案の定セリフらしいセリフにならずにどもってしまうが、最後だけは意地のようなものできっちり言い切り、頭も下げた。

 ふいに、藍は鼓膜が何の音も伝えてないのを自覚した。思わず頭を上げると、クラス中の視線が藍と利久に注がれていた。

「ああ、いやいいって別に。具合は?」

 動揺はしていたらしいが、言い淀まないのに少しばかり藍は心中で賞賛した。

「平気。ありがとね」

 急に恥ずかしくなって、だが顔には出さずに藍は席に戻った。ノートの類が机の引き出しに戻されていた。緑川がやったのだろうと適当に予想する。

「普段喋らないヤツが喋ると……ってヤツだな、まるきり」「でも謝っただけじゃん」

「馬鹿。普通あの空気であんなことして、誰かに言われたわけでもねーのに、あんなちゃんと謝れるかっての」「ちょー意外なんですけど」

 色々聞えてくるが、藍は聞えていないフリをした。こんな事、ただのマッチポンプに過ぎないはずなのに、藍は妙に清清しい気分になっていた。


    # THE THRID PERSON


 四時間目が終わってすぐのことだった。

 いつも通り、文芸部室に移動しようとしたところを緑川に声をかけられた。

「あなたがいつも食べる所で一緒に食べていい?」

 予想外の事態だった。いくらさっき話したとはいえ、少しだけだ。それに彼女だっていつも一緒に食べる面子がいるだろうに、そちらはいいのだろうか? といろいろな考えが藍の脳内で交錯する。

「いつも一緒に食べてる人たちはいいの?」

「ええ。正直ね、あんまり楽しくなかったから適当に断ってきたわ」

 私といたって同じだろうにと、藍は少しばかり意地の悪い笑みを浮かべてみたが、人と一緒に昼食を摂るというのは面倒そうだと気付くとそれも落胆に変わり、立ち話で憂鬱な気分を引き伸ばすのも非合理的だとと考えながら文芸部室に向かって歩き出す。その後を追うように緑川がついてくる。


「あ? お前どうした? 後ろにいる娘は」

 先客がいた、というより、彼が元々ここの住人らしいのだが。

 オーバーリアクションと言っても差し支えないほどに口大きく上げて硬直している先輩の後ろの席に適当に腰掛けると、その横の席に緑川も座った。

「緑川さん、これがここの部活の先輩の藤堂先輩。先輩、彼女は私のクラスでクラス委員を勤めてる緑川未空さんです」

「聞き間違い立ったら別に良いが、お前俺を『これ』って言わなかったか? んん?」

 藍は無視してコンビニ弁当を鞄から取り出す。隣で緑川も自前の弁当を出していて、藍はそれに釘付けになった。

「ねぇ……それで足りるの?」

 藍の筆箱より一回り小さいくらい、両手にすっぽり収まるくらいの大きさしかない小さくてカラフルで少女チックな弁当箱――その上、プチトマトやレタスなど色とりどりな代わりに野菜ばかりの昼食を見て、藍は堪らず訊いてしまった。

「いや、あなたこそ、それ全部食べれるの?」

 対して藍は朝の気分で買ったのでから揚げ弁当で、大きさは緑川の弁当の二倍くらいはあった。藍はこれが普通くらいの量だと思っていた。実際一人前だし、なにより緑川の弁当はほとんどお菓子箱みたいなものだろうというのが藍の見解だった。

「いやその……体重とか考えないの?」

「体重ってそんなに変わるものじゃないでしょ。それより精のつく物食べないとすぐに貧血にならない?」

 互いに会話が上手くかみ合わない。見かねた藤堂が口を挟む。

「国枝。普通女の子ってのはあのくらいが普通だ。気になる年頃だろ普通」

「はぁ、可愛いもんですね、見た目を気にして省エネにつながるっていうのも」

 価値観は違うが一応は納得したらしい、藤堂は続いて対象を緑川に変更する。

「それで緑川さんだっけ? こいつを普通の女子高生としてみたら行かんぞ。毎夜毎夜何キロも走ってるこいつからすりゃ、このくらいのカロリーなら十分処分できちまうよ。よく言うだろ? 食べないダイエットより食べても運動するダイエットの方が健康的だって。コイツの場合、食べる量が運動する量に追いついてないんだって」

「毎日走ってるの? 凄いね国枝さん」

「特に目的があるわけでもないけどね」

「そうそう。とりあえず馬鹿みてぇに走ってるだけだからな。つーか、お前今何キロぐらいよ?」

「藤堂先輩でしたっけ? 淑女にそういう質問は失礼ですよ?」

 笑顔なのに笑っていない緑川を見て、思わず藤堂はたじろぐ。

「スマン、無かった事にしてくれ」

「別にいいよ。四月から変わってないと思うし」

「え、何キロ?」

 自分も聞いてんじゃねぇか、と内心で藤堂は愚痴った。

「四十三」

 緑川がぎょっとする。藍の身長は大体百五十五センチ。単純にBMI指数を出したら十七ほどで痩せ型である。ちなみに適正な体重の指数は二十二、つまり藍の身長だと五十三キロなので、どれだけ藍が軽いかは分るだろう。

「ちょっとショック……」

 ちびちびと小さな弁当箱を遠慮がちにつついている自分と、バクバクとから揚げを食べている藍を比較してしまったのだろう。第三者の藤堂からすれば相手が悪いと断言できるのだが、本人からすると相手が誰であれ、身近に存在していただけで相当ショックならしい。一応運動部じゃないから藍が当然体重を気にしているように見られているのかもしれないが、それは部活に入っていないという情報による誤解生み出した風評だろう。ご愁傷様、と藤堂は心の中で合掌した。

 ファストフードでテイクアウトしていたハンバーガーにかぶりつきながら、改めて藤堂は藍を見る。

 ――確かに、いい食いっぷりではあるな。

 育ち盛りで食べ盛りな男子高校生の藤堂に負けず劣らずの食いっぷりだ。走る走らない以前に遺伝的な何かがあるのだろう。痩せの大食いというヤツか、と思いながら藤堂は三十代辺りの藍が心配だなと哀れみを込めた視線を向けていた。

 そして、哀れられている本人は誰よりも早く食べ終わった。

 ふう、と小さく息をつきながら、さっきまで良質のタンパク質と炭水化物で埋まっていたプラスチックの容器を安っぽいコンビニ袋に入れる。室内にクシャクシャと小さいのに煩い音が響く。

「いるか?」

 余りに物悲しそうに藍が弁当の亡骸を見つめていたので、思わず藤堂は大きいサイズを頼んでし余っているポテトの容器の向きを、藍が取りやすいように変えてみる。

「頂きます」

 遠慮は無用とばかりに、割り箸で器用に三本ほどのポテトをまとめて摘んで口に運ぶ。飲み込まないうちに芋加工食品の運搬は第二陣に突入し、当然かな、両頬はハムスターのように膨らんだ。

 それでも飽き足らず、さらに箸をポテトに延ばす。

「国枝さん、ちょっと落ち着こう。飲み込まないうちに口に入れるのはよくないって、喉に詰めたら大変だから」

「ふぁふぃふぉうふ、ふぁふぃふぉうふ」

 見かねたのか、見るに耐えなかったのか、緑川が国枝バキュームに歯止めに掛かる。藍は何か余裕な空気を出しているようだが、頬を破裂させばかりに膨らませ、さらに見てる人間に不快感を与えないように、行儀よく口を開けずに喋ろうとするものだから、一体彼女が何を言っているのかさっぱり分らない。

「国枝、あんまり食べ過ぎて太るなよ」

「ふぁふぃふぉうふへふっへ…………大丈夫です。食べれる時に食べとかないと。じゃがいもは貴重なビタミンCの摂取源ですから」

「お前ん家はそんなに家計が切迫してるのか?」

「そういうわけじゃないですけど……」

 否定しながらまだポテトに端を伸ばす藍を見て、藤堂はおもむろにポテトの容器の向きを自分の方に戻した。

「その辺でやめとけ」

 流石に止められれば藍も無理やり食べるような事はせず、素直に引き下がる。

「それよりも、お前に話しときたいことがあるんだが……」

 やりにくそうに藤堂はチラチラと緑川を見るが、藍はその様子に気付かずに言ってしまう。

「事件のことですか?」

 がっくりと藤堂が肩を落とす。

「関係ない子がいるんだから、むやみやたらにその単語を言うな」

 それは別に緑川に不快感を持っているわけではなく、あくまで藍が無用心にその単語を出したことへの非難だ。

「あの……スミマセン。私邪魔ですか?」

 空気を読んで緑川が申し出るが、藤堂は首を横に振る。

「ああ、もういいよ。ここで下手に出て行ってもらって誤解されたらマズいしね。出てもいいが、その場合他言は無用ということで。それも無理なら……やっぱり一通り聞いてくれるとありがたい」

「はぁ……分りました」

 様子が分らず、緑川が怪訝な表情のまま了承して座りなおす。どうやら話が気になるらしい。それならそれで、藤堂としては他人に話されなければ別にいい。

「国枝……それから緑川さんも。放課後は特に用がないようなら、物騒だから校舎には残るなよ」

「事件と関係あるんですか?」

 まっさきに聞いたのは当然緑川だ。藤堂のように個人的に調べているわけでもなければ、藍のように犯人と同じ性質を持ち合わせているわけでもないので、疑問に思うのは至極当たり前だ。

「ああ。犯人はいずれの事件でも、女子生徒を午後五時前後に殺害してる。しかも被害者の年は一定している。一月に殺された子もここで殺されたのも同い年だ。だから君達も含まれるって事。言いたいのはそれだけだ」

 最後の一言を聞いた藍が、堂々と嘘をつくな、と言いたげな表情をしたが、藤堂はあえて無視する。それもそうだ、藤堂は藍に『お前は一連の事件の犯人を止めるべきだ』という話を何度もしている。それを藍が不満に思うのは当然だろう。しかしそういう顔をしたということは、やはり自分の言ったことを忘れてはいないらしい。藤堂からすれば、その確認ができれば十分だ。

 ようやく食べ終わった緑川が弁当箱を鞄に収めながら、こくりこくりと頷く。

「ご忠告ありがとうございます。一応先輩もお気をつけて」

「そうですよ。妙な共通点にこだわって、実はただの無差別な犯行で自分が巻き込まれるなんてドジはしないでください」

 そこまで話したところで、タイミングよく昼休み終了のチャイムが鳴る。五時間目までは後五分だ。三人は揃って席を立つ。

「んじゃまぁ、部活はないからサヨナラだな」

「ええ。さようなら」

「先輩、また来ていいですか?」

 緑川が鞄を片手に藤堂に問う。

「ああ、いつでも良いよ。となりの奴も喜ぶだろ」

 意地の悪い笑みを浮かべながら、藤堂と女子二人は部室の出口で別れる。

 当然、藍はふざけたセリフを言った藤堂を、曲がり角に達するまで睨め付けていた。


    # THE THRID PERSON


 藤堂から離れて、緑川の第一声は、

「面白いけど紳士的な先輩ね、あの人」

 どうやらそれが第一感想だったらしい。藍としてはただあの部室に居座る迷惑な人としか思っていなかったので、そういった感想は少し新鮮だった。

「ならいいけど、っていうか一応聞くけどまた来るつもり? あんなところに」

「え、あなたいつもあの部室で食べてるんじゃないの?」

 こりゃ毎日来る気か、と藍は落胆した。藍からすれば先輩の話が面倒くさくて二度と来ないと思だろう、という腹だったので、藤堂の印象が緑川には思いのほか良かったというのは誤算だった。

「そんなに良かった?」

「ええ。頼りになりそうじゃない。あんな忠告してくれて」

 確かにそれは一理あるのかもしれないが、藍には関係のない話だ。何故なら当の藍自信は、あの先輩に事件の犯人を止めろと言われているのだから。

 目的無く、動機のために『道』を辿り行動して悦楽する同類を。

 暗に殺せと言っているのだが、しかし藍としては当然人殺しなど御免被りたいところだ。しかし昨日の夜のあの出来事を思い出すと、思いのほか、思いついてからは楽なのかもしれないと思いつつもある。だが昨日のことも目的はなかった。ただ『走る』こと上手く出来ずにフラストレーションが溜まって、あの出来事がきっかけになって凶暴な願望を抑え切れなかったというだけの話だ。

 しかし確固たる目的を持って願望を抱けば、犯人を止める事も不可能ではないのかもしれないとも思い始めている。

 相手はおそらく殺害することを動機にしている。ならそういった願望を抱く前に始末してしまえばいいのだ。『道』は必ず成功する道筋しか写さない。つまり『道』を見たという事は、後は辿ればチェックメイト、積みというわけだ。つまり犯人が『道』を見る前に藍が『道』を見ればいい、それだけの話なのだ。

 だが問題は、犯人の断定だ。証拠を得るには『道』を見させて人を殺させるか、自白しかない。しかし前者の場合、証拠を掴んだ時には、既に藍は死んでしまっている。それでは意味がない。

 証拠がないのなら無理に実力行使には出れず、逆に証拠を得ようとすると殺される。俗に言う二律背反だ。しかしこれさえクリアできればどうとでもできる、それこそ煮るなり焼くなり好きに出来るのだ。

「国枝さん?」

 ふと現実に意識を戻すと、既に進退は教室の前まで来ていた。随分と真剣に考えていたようだ。

「次って何の授業だっけ?」

「理科総合。今日は実験じゃないから教室」

 それは良かった、移動する手間がなくていい。

 自分の席に戻ると、引き出しから教科書やノートなどを取り出す。

 ――でも証拠を掴むにも……私は『走った』ことしかない。

 後は『折った』くらいだが、あれを殺すために『道』を見てきた相手に通用するかどうかは分らない。第一、殺される前に一発で仕留めるなど不可能だ。

 相手を殺さない限りは。

 たどり着く結果は一つ。どれだけ他の方法を模索しようとも、結局そこに辿り着いてしまう。全く持って不愉快だ。


 いつものことながら、藍はそれほど授業に集中できていなかった。

 授業を受ける気以前に、彼女はそれよりも気にしなければならないことがあった。

『走る』という動機以外でも自身は『道』を見れるということ。

 緑川未空という少女という、全く普通の人間との関係を築いたこと。

 自分がこのままでいいのか、それともこのままではいけないのか。正直、楽しかったのは事実だ。だから彼女は考えれない。考える気もしない。だから活動していないという点では眠っているのとさしてかわらない。

 休み時間をはさんで二度目の終了のチャイムは六時間目終了の合図だ。清掃は省略されてすぐに下校となる。五分ほどして、すぐに担任の教師が教室にやってきた。クラス委員、つまり緑川の合図で全員が礼をして着席する。

 授業を聞いていたがつまらなく思い、回りの生徒の人間観察をしていた。

 隣同士で話している者、机の下で携帯電話を操作している者、いつもの藍のように居眠りをしているものと様々だ。なんとなく、有象無象の中で利久がどんな表情をしているのかが藍は気になって、利久の方を見た。

 利久は彼から見て右前の席に座る緑川をチラチラと見ていた。

 そう言えば、藤堂が共通点があるという話をしていたなと藍は思い出す。

 一つ目は性別、全員が女子。二つ目は藍と同学年、そして学校の敷地内で人目につきにくい場所で、午後五時前後に殺されてる……そこまで思い出し、もう一つあったのを思い出す。

 首の右側をすっぱりと切ったということだ。

 藍は自分を鍵者として、被害者に向き合っているのを想像する。

 刃物で右の頚動脈を傷つけるとなると、犯人から見れば左側だ。もし藍が自分から見て左の位置を切りつけるとなると、右手ではなく左手では物を持とうとするだろう。いや、自然に考えれば藍は右利きだから、自分から見て右、つまり左側を切りつけようとするだろう。わざわざ左に振りかぶろうとは思わない。ではなぜ、そんなことをするのか?

 答えは必然的に出てくる。犯人は左利きだという予想。

 左利きなら、切りつけるのは必然的に右になる。

 反射的に利久を見る。ノートを必死に取っている、シャーペンを持つ手は……右手だ。

「はぁ……」

 違うじゃないか、と自分の予想の外れっぷりに腹が立つ。そしてそんなことより、本来犯人を捕まえなければいけない警察の捜査の遅さにも腹が立つ。

 校内で二度の殺人が起きている。警察はそろそろ生徒を疑ってもいいだろうが、藍は警察が生徒に事情聴取をしているという話を全く聞かない。

 それから少しまどろんでいると程なくチャイムが鳴り、藍の意識は現実に戻される。

「起立、気をつけ、礼」

 指示に従い、礼をする。次の授業までは少し時間がある。

「緑川さん、ちょっと……」

 授業が終わって程なくして、教室中がざわつき始めた時、ふと声が聞こえてきた方向を見ると、利久が緑川に話しかけているところだった。途中からは小声で話しているため、この距離では教室の喧騒にまぎれてなかなか聞き取れない。

 二人が何を話しているのが、少しだけ気になった。


 六時間目も五時間目と同じように過ごすと、後は掃除がカットの上、部活も中止なので即下校だ。授業終了から五分ほど経つと、程なく担任が教室に入ってきて、ホームルームが開始された。

「え~本日は部活は中止。寄り道はせずにすぐに下校してくださいね」

 殺人が起きたために部活が中止になっているのに、男子の中には小さくガッツポーズを取っている不届き者がいた。機能も同じような反応を示していたが、彼らに対して特別不快感を感じたり同調する気はないが、なんとなく藍は宮野利久がどういう表情をしてるかが気になって、ちらりと横目に見た。

 落ち着きがない。チラチラと緑川を見ているような素振りを見せている。しかしその表情は、どちらかというと緊張より恍惚を抑えている、という方が納得できた。

「起立、気をつけ、礼」

 クラス委員の合図とともに礼をして解散となる。ある者は周りに集まった友人と話しながら、ある者は一人でと、各自、自由なタイミングで出口へと向かう。

 ――さっさと捕まえてくれれば、一番楽なんだけどな。

 鞄を机の上に置きながら、ふとそんな事を考える。鞄をあけるが、特に持って帰る物もないなと思い、そのまま鞄を閉める。

 だが、おそらく警察が犯人にたどり着くにはまだ時間が掛かるだろう。藍と違い、藤堂と違い、自分達とは違う立場の人間を察知するのは難しい。

 ――でも、そんな偉そうな事、本当に宮野利久が犯人じゃないと言えたことじゃないよな……。

 瞬間、その予想の結果を思考する。

 ――緑川さんっ!

 確証はない。教室を見渡すが、利久も緑川も既に教室にはいない。

「アイツっ!」

 鞄を引ったくり、藍は周りが迷惑そうな顔をするのも気にせず教室から飛び出す。


 最初に藍が当たったのは下駄箱。しかし二人とも教室からは出ていない。

 今までの犯行は、全て午後五時、被害者は藍と同学年の女子。いずれも緑川未空は当てはまる。藍は下駄箱付近を見渡し、教室へ戻ろうとする。

「おいっ!」

 大声で呼び止められて、思わず振り返る。

「さっさと帰れって言ったろ……全く」

「先輩っ……」

 なりふり構っていられない。早口で藍は藤堂に説明する。何の確証もない犯人候補と、何の理屈もない予想。しかし利久が緑川に話しかけていたのが妙に気になった藍は、それらを全て話した。

 普通の人ならば気にも留めてくれないが、元同類らしい藤堂は藍の意見を尊重した。 

「分った。俺も探してみよう。俺は校舎の外を見てくる。だからお前は校舎の中だ。可能性としては低いが、ゼロじゃない」

「分りました」

 言い切る前に藍は藤堂の隣を抜ける。一年から三年の全てのホームルーム教室、図書室、職員室、特別教室棟の鍵の開いてる全ての教室……全ての教室をくまなく捜すが、見当たらない。

 ふと教室に掛かった時計を見る。午後四時四十五分。手がかりが全くない上、反抗が開始される正確な時間が分らない。

 ――どうしたら……。

 根拠も無ければ証拠もない。その上可能性は限りなくゼロ。しかし藍は焦っていた。どうしても見つけたかった。人海戦術という単語が脳裏を掠めるが、誰も相手にしてくれないとすぐに選択肢から排除する。

 ――あっ……。

 そして、一番確実な方法を今頃思いついた。

 できるかどうかわからない。だがやるしかない。『走る』以外でも、今までにできたのだから、この目的だからといって出来ない道理はない。

 ――『緑川さんを見つける』

 藍の視界が切り替わる。

 ユラユラと湯気のように、淡く揺れながら湧き出るのは、自らが起こそうとする行動を、確実に成功させる『道』だ。それが藍の視界の一部を上書きする。それは何度か曲がり角を曲がって昇降口へと繋がっていく。

 ――外かっ!

 スリッパをローファーに履き替えることなく、藍は昇降口を飛び出す。室内用のスリッパでは走りにくいことこの上ないが、気にしている場合ではないと本能は告げているので、藍はそれに従った。

 昇降口から出るとすぐに左に曲がる校舎を半周する。先に繋がっているのは体育館の裏。そしてそこに――

 いた。

「緑川さんっ!」

 緑川は武道場をバックに立っていた。振り返ると、藍の緊張した面持ちが気になったのか、少々強張った口調で訊ねる。

「どうしたの?」

 藍としては能天気なことだと思いながらも、彼女が無事であるのに安堵して、周囲を警戒する。

「どうしてこんな所に来たの?」

「それは私の勝手……」

「いいから」

 語気を荒げて再度訊ねる。

「宮野君がその……話したいことがあるっていうから……」

 僅かに頬を赤らめながら答える。藍は苦虫を噛み潰したような顔をした。こうやって、甘い話をダシにして、三人もの人間を騙して殺してきたのかと。

「いつごろ来るかわかる? 宮野君」

「え、いやそれは……知らないけど……」

 腕時計で現在時刻を確認する。午後五時ジャスト。とにかく間に合ったようで、藍は思わずホッとした。

「とにかくここから逃げ……」

 そこまで言いかけてやっと気付く。外の捜索は藤堂が行っていたはずだ。なのにここにはいない。こんな所、既に調べていてもおかしくないはずなのに。

「藤堂先輩見なかった?」

「え、昼休みに一緒にご飯食べたのが最後じゃないの?」

 安堵が緊張に切り替わる。藤堂はどうなった? 一体彼はどうしている? 目を離したのは校舎の中が最後だ。

 ――無事でいてください。

 緑川を探し出した時と同じように『藤堂を見つける』という目的を持って視界を切り替える。思いのほか、『道』は短かった。すぐ向こう、武道場裏につながっている。辿り、そして藍は見た。

「藤堂先輩っ」


 そこに広がる、赤く塗りたくられた光景を。


    # THE THRID PERSON


 利久は完全に油断していた。

 緑川を体育館裏まで呼び出した。あとは『戮す』だけ。堪能できると校舎とは反対側、武道場の裏から見ていた。距離は三十メートルもないだろう。

 目を見開き『戮そう』と思い、懐の得物の感触を確かめて、獲物に背後から近づこうと視界が切り替わる寸前だった。

「おいテメェ、何してやがる?」

 肩に手を置かれて振り返る。そこにいたのは、利久とは違う色の濃い茶色の長髪、趣味の悪いガラシャツを内側に着た男だった。

「懐にしまってる物、出しやがれ」

 焦燥感が利久の心を支配する。どうしてここにいるのか。自分しか知りえない場所に、自分と獲物しかいないはずの場所に第三者がいるという異常事態。心臓の鼓動は早くなり、背中から太腿までの皮膚が一気に発汗する。

 このままでは殺害に失敗する。しかし目の前の男に対応しなければ、いずれ自分が犯人だとバレてしまう。

 それだけは避けなければならない。

 意を決して、『戮す』という目的を持ちながら視界を切り替え、振り返り――

 手中のサバイバルナイフを横一文字になぎ払ったその時、利久は見た、

 自分達と同じ類の、遠く先を見るような、願望だけを見る目は、確かに何かを見ていた。

 男の目は劣化こそしているが、未だに機能している目だった。


 それに構わず、利久はナイフを藤堂の首筋に目掛けて一線する――

 だがやはり目は機能しているのか、目の前の男はソレをできるだけ避けて――


 利久の刃は、男の肩から腰までを切り裂いた。


    # THE THRID PERSON


 水風船に入ってる水が赤かったのなら、この光景は、その水風船を落としたような光景なのだろう。

「藤堂先輩っ!」

 叫びながら藤堂に駆け寄る。口元に自分の耳をあてがうと、空気が流れている感触がした。発見が早かったのか、まだ生きているらしい。

 緑川に救急車を呼ぶように指示しながら、首に布をあてがい止血まがいなことをする。

 傷口を見て、ふと気付く。

 傷は左肩から→腰にかけて袈裟斬りにされていた、つまり犯人が切りつける方向は、右上から左下。今までとは斬る方向が逆だ。

 そこで今更思いつく。

「馬鹿が……」

 自分の思慮の浅さに歯噛みする。

 何が利久は犯人じゃないだ。

『道』を見ているのだとしたら、必然的にそれは辿りさえすれば確実に殺せるということだ。確実に殺せるというのなら、警戒されないために後ろから近づいたという可能性だってあったじゃないか。

 後ろからなら、右手で持った得物で切りつけたら、斬りつけるのは必然的に右側になるじゃないか。

「クソ……」


 まもなく救急車が到着して、藤堂はそのまま移送された。警官のような服装の男が話しかけてきたが、何も喋る気にはならかかった。代わりに自分と違い冷静な緑川が事情を説明していた。

 ――私が、もっと早く気づいていたら……。

 こんな事にはならなかった。もとより、この事件が起きてから、すぐに調べればよかったのだと、無茶苦茶な自責に満ちた思考を巡らせる。

 だがそれはもう、自責によって藤堂がこのような目に遭ったのを肯定しようとする心理作用であって、事実とはもう何ら関係ない。

 藍自身、内心では気付いていた。だが自分を責めなければ、一体誰を責めればいいのか分らない。この犯人を止められたのは、自分だけなのだから。

 犯人。

 そこまで来て、ようやく藍はいつもの冷静さを取り戻す。

 事の発端は、そいつだ。


 そいつさえ、いなければ。


 そして、他人ではなく自分に復讐を誓う。

「緑川さん……ちょっといい?」

 話しかけ辛かった。だが遠慮している暇はない。一折の説明をし終わり武道場と体育館を結ぶ小さな渡り廊下に座っている緑川に話しかける。

「緑川さんなら宮野君の電話番号知ってるよね?」

 学校の緊急連絡網は個人のプライバシーの為、自分達が連絡する生徒以外の電話番号は知らされないようになっている。だが緑川と利久では出席番号が近いため、緊急時の連絡ルートが同じ、当然知りえているのだ。それに、緑川が陸とメールのやり取りをしているといううわさも、どこかで耳にしていた気がする。ならば知りえていてもおかしくない。

「教えてくれない? 彼の電話番号」

 一番悪いのは、この事件を起こした張本人に他ならない。


    # THE THRID PERSON


 利久は驚いていた。

 あの死体が――本当に死んでいるかは分らないが――発見されたのが異常に早かったからだ。

 事件現場に居合わせてはマズいと離れようとしていたが、救急車のサイレンの音が聞えてきて、野次馬に混ざって武道場裏を見ようと舞い戻ってきたのだ。

 さっき自分が居た場所にへたり込んでいる一人の少女。

 今日、自分が保健室まで連れて行こうとした女子生徒だった。確か名前は、国枝藍。

 もしかすると、彼女も。

 そんな希望的観測を立てる。しかし性質が悪いのは、本人は当然知らないが、そんな希望的観測が事実と一致している事だった。

 自分との、同類。

 藤堂東吾。利久はその名を知らないが、彼は名は知らずとも彼が自分と近しい存在である事は理解していた。

 あの時、何かを見ていた。

 実際、無抵抗に彼はやられてしまったが、しかし何故か、いつもと違って殺しきれたという自信がない。確信が持てない。

 ――なんでだろうな……。

 今までには無かったことが、今は起きている。

 現在は現実だ。なのに空想よりも、楽しいことが起きている。

 リアルというのは、どんなエンタテイメントよりも面白い。

 それが彼の持論。故に『戮して』きた。

 殺す事で実感できる。自分が存在してるという事実を。

『道』を辿れば満たされる。『戮したい』という自分の動機が。

 もし、自分と同等の力を持つ同類を『戮せる』としたら、それはどれだけ楽しいのだろうか? どれだけ自分で自分の存在を認識できるのだろう?

 そして彼女は、一筋縄では殺されてくれない。利久にも、そのくらいのことは分っている。あの先輩をあんな短時間で見つけれたのは、彼女が同類ゆえ、おそらく『見つける』という目的を持っていたのだ。自分が『道』を見ることで『戮せる』ことからも、十分に推測できる。

 行動を成立させるのが『道』だ。だからこそ『戮す』という動機以外でも実行できる。

「楽しみだなぁ……」

 今までにはない殺しをしたい。それが動機かもしれないが、何よりも同属に出会えたという喜びから この時、宮野利久は初めて目的を持った。まだアヤフヤな目的だ。具体的な方法までは浮かばない。だが今はこれで十分だ。

 確かに持てたのだから。

 殺したいという動機ではなく、殺すという行動の目的を。


『同属と殺しあう』


 そんな物騒極まりない、故に純粋すぎる目的を。


    #  THE THRID PERSON


 サイレンの音が聞える――そんなどうでもいい感想が、ぼう、と浮かび、そして消えていく。意識は明確でない。


 ――ああ、これは望郷だ。


 藤堂東吾はまどろんでいた。

 彼が『道』を際限なく見れていた頃――今の国枝藍や一連の事件の犯人のように、確実に成功する『道』を見れていた、最後の時の望郷だ。

 自分が何をしでかしたかも、そして最後にあんな目にあって、『道』という己を束縛する事によって自由にするモノを失う事になったのだ。

 喪失感は重圧のようにすら感じられた。

 だが開放されたと考えれば、幾分楽ではあった。

 彼が『道』を見るには制限がついた。制限がついた時点で、本来の『道』を見る目という価値は半減する。いや半減では済まされないのかもしれない。失敗する可能性もあるのだから、それでは『道』としての価値はない。どこまで走れるのか、アクセルを踏んでみるまで分らない自動車のようなものだ。

 だから『殺されない』という目的を持って『道』を見続けていたにもかかわらず、藤堂が殺されかけたのは、彼の『道』の性能が、昔の彼の、ひいては国枝藍や彼を切りつけた犯人よりも劣っているが故だ。

 意識はまだ、戻らない。

 だが、藤堂東吾は生きている。


 生きている彼の存在は、彼らの死闘の原因になる。


    # THE THRID PERSON


 当然のことながら、利久のところにも連絡網が回ってきた。

 内容は分っているつもりだった。

『つもり』の五割は期待、もう五割は期待すまいという現実的思考。

 そんな曖昧な期待を持ちながら、鳴り続ける電話の受話器を取る。

『お早うございます。宮野さんのお宅でしょうか?』

 凛とした声。だが利久は微かに宿る疲労や疲弊の色を感じ取った気がした。彼女の声を聞いての純粋な感想なのか、それともあの時、あの場所に国枝と一緒に彼女もいたから。そういう風に勝手に感じてしまっているのか。

「はい宮野です。もしかして緑川さん?」

『ええ。そう。連絡網が回ってきたから……』

「また何かあったの?」

 これで高校では三件目、町の中では四件目になる。だからこういう反応をするのが自然だと利久は思った。

『ええ、その様子だとまだ知らないみたいね。地方新聞になら出てるけど……まだ見てない?』

「ああ。まだね。また殺人?」

 少しばかり緊張しながら、問うた。肯定でも否定でも。どちらにしろ彼は高揚する。殺せたのなら劣化しているとはいえ同類殺しの自信がつくし、殺せなかったのなら、まだ上がいるかもしれないという夢が膨らむからだ。

 どちらにしても、今の彼はポジティブな思考しか持ち合わせていないということなのだが、当の本人は全く気にしていない。

 そして受話器の向こうから、返答があった。

『いや、今回はすぐに見つかったから一命は取り留めたのよ。意識が回復したって話は聞かないけどね。で、一応職員の会議があってから、午後から学校に来るようにってことらしいわ。それにしても物騒なものね……宮野君も気をつけてね』

 自分が犯人なのだから、殺されるわけもない。笑いがこみ上げてくるが、利久はかろうじて飲み込む。

「ああ。それよりも緑川さんだよ。気をつけてね」

 もう殺す事はないだろうが、表向きの自分の性格上、こう言っておくのが自然だ。

『あと……昨日のことなんだけど……話ってその……今できる?』

 ああ、その事か、と利久は少し落胆した。

 利久は自分でも少しは自覚している通り、容姿は良いし、表向きの性格も良い。故に異性に好かれる事も無くはない。そして告白するような素振りでおびき出して殺してきたのだ。別に殺す相手はどうでもよかったのだ。だが、呼び出して確実に来る、そして誰にも話さない人間を選べば、彼自身、捕まるリスクが減るのもまた事実だった。

 今までは。

 だが今は違う。

「ゴメン……やっぱり無理だ。なんていうのかな、なんでもなかったってことにして欲しい。いいかな?」

 こう言っとけば大丈夫だろうと、端的に思う。案の定、

『わかった。じゃあまた後で。次の人に回してね』

 緑川の返答は、至極単純なものだった。物足りなさを感じなくはないが、いまさらそんなものはどうでもいい。

「分りました。失礼します」

 言いながら、そっと受話器を置く。


 一命は、取り留めた。


 まだ死んでいない。しかしまだ意識が戻ってはいないらしい。だが早く殺しておかないと、いつ意識が戻るか分らない。

「ふっ」

 堪えていた笑いを漏らす。

 生まれてこのかた十六、七年。その中で一番の苦笑。

 今までは、ただ『戮す』という動機に従って殺してきた。

 だが殺せなかった男を殺すとなると。どうだろうか?

 いまや『口封じ』という明確な目的があるじゃないか。

 そして、それを邪魔するであろう国枝藍も、目的の為に、過程で殺す。

 それすらも目的だ。


 このとき、宮野利久は明確な目的を持ちながらにして、藍と藤堂を戮すと決めた。


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 藤堂は、まだ生きているらしい。

 なら次に気にするべきは犯人の動向だ、

 リビングを出てすぐ、つまり廊下という微妙な位置には、キャスター付きの小さな机があり、それにはデスクトップパソコンが置かれていた。リビングのコンセントが全て使われていたので、仕方なく廊下にあるコンセントを使おうということでここに置かれている代物だ。藍としてはテーブルタップを飼ってきてリビングに置いた方がよかったのではないか思うのだが、今はそれどころじゃないと、それらの事情を脳から排他して、パソコンを立ち上げた。

 宮野利久の電話番号は緑川から入手した。電話番号からその住所を調べられないかとインターネットを使って調べてみようと思い立ったのだ。パソコンというのは使い慣れないが、家に存在しているのは一応記憶していた。

 ショートカットからインターネットを呼び出す。ここまでは母親がやっているのを見たことがあった。当然使かったことなど皆無に等しいので、文字を打つ時は、キーボードを見ながら人差し指で押す。まずはキーボード上に横一列に並んだ数字のキーで電話番号を入力して、さて『宮野』と打とうとした時だった。

「被ってる……」

 数字の『7』とひらがなの『や』の位置が同じ事に気付いたのだ。ダメもとで五十音順でない不親切なキーボードの配置の中から『みやの』の三文字を探して打ってみるが、案の定『n7k』とわけの分らない文字しか表示されない。

 ――弱ったなぁ……。

 親は仕事で出ている。藍は一人っ子だし、兄弟がいたとしても今日は学校だろう。インターネットで検索しようにも、文字が打てないのでは話にならない。

「あ」

 何か違和感に気付いて藍は思わず大きく口を開ける。確かローマ字入力だった筈だと今頃思い出したのだ。情報処理の授業も入学してから余りやっていないし、中学の頃は真面目に受けていなかったから、なかなか思い出せなかったのだ。

 ――って……。

 キーボードはABCDの順番に並んでいないし、間違えてひらがなの方を打ちそうにもなる。当然ローマ字は理解しているし、書けなくはないが、これなら何か文字を手書きで入力できた方がありがたい。擬似神経衰弱を開始するべきかどうかと考えていたところで、ふと思いついた。

「電話帳の方が早いんじゃ……」

 完全アナログ派の藍からしてみれば、テレビとデカい電卓を合わせたような不思議機械よりも、百科事典を思わせる重厚な電話帳の方が頼もしい。

固定電話の下に敷かれている電話帳を引っ張り出して、宮野という苗字がないか調べてみる。五年ほど前に発行されていたので期待はしていなかったが載っていたので驚いた。住所を確認する。特別近くも無ければ遠くもない。学校に行くのと同じくらいの距離だ。これなら走って行ける。

 ――いや、無駄か。尾行したところで外で殺そうとするはずがない。

 何で調べたんだと自分で思うが、そんな自分の感想は無視して電話帳を閉じて、元の場所にも戻す。

 誰が犯人かという、論理的な証拠はまだない。

 しかし藤堂が生きているとなれば、犯人は黙っていないだろう。顔を見られている可能性があるし、あの藤堂のことだから見ていても不思議じゃない。十中八九、犯人は藤堂を殺しに来る筈だ。そこを狙えば全てがわかる。当然宮野利久が犯人かどうかも分る。藍は推理小説の探偵ではないのだから、犯人は誰だという証拠を上げる事はできない。だが殺そうとしていたところを現行犯で見つけ、そして現行犯で逮捕することなら、藍でも不可能じゃない。

 むしろ藍の性格や能力からすれば、後者の方が現実的だ。

 ――病院で張り込むのが一番現実的かな……。

 両親は共に働いている。働くといっても母親はパートであるが、超健康体であるため午後十時には既に寝静まっている。問題は父だが、一々帰ってきて子供の部屋を確認してはいないだろう。一応冷蔵庫の側面に張られているカレンダーを見てみると、丁度いい事に父親は夜勤だった。バレる心配はない。

 そうなれば後は病院の場所だ。現実的に考えると、高校から一番近い総合病院だろう。大体位置は分っているし、建物の大きさが大きさだ。住所を一々調べる事もないだろう。

「念のために、今日は病院に行ってみるかな?」

 誰にとも無く呟いたその一言は、閑散としたリビングで反響することなく霧散した。


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 午後からの学校は、ひどく息苦しかった。


 宮野のことは疑っているし、緑川はあんなことに巻き込んでしまった。その上藤堂は当然来ていない。これを息苦しいといわずになんと言えばいいのか、到底藍の脳内語録では結論を出せる筈もなかった。

 ――ま、授業があるわけでもないなら別にいいけど。

 流石に学校も、もう学校内に犯人がいると疑って掛かっていた。校長の話も、暗にこの中に犯人がいるなら出て来い、というような内容だった。そんなことで犯人が出てくるなら、とうに自首しているだろうにと藍は思った。

 気がかりだったのは、宮野利久の表情。

 こんな状況だというのに、いつもと変わらない。

 いやむしろ、その内面を隠そうとしている風にしか、藍には見えない。決め付けているからなのか、それとも同属だからそういった事情が分ってしまうのか。

 どちらにしても、他のクラスメイトとは一線を画している風に見えた。

 ――私に、こいつを止める事が出来るのだろうか?

 藍が一番気にしていたのは、それだけだった。

 実力。という点において、自分と犯人――おそらくは宮野利久――との間には、どれほどの差があるのだろうか?

『道』を見る目という力には、差があるのだろうかと。

 ――いや、藤堂先輩は特に何も言わなかったし、自分は元同属だといってた。やられたけど生きてるって事は同じだけ……いや、『道』を見てなかった可能性だってあるんだし……だめだ。分んない。

 藍の性分からして、考え事は苦手な方だ。体感したことの理屈を後から考えるのならば、多少は出来なくもないが。

 ――そんな事、考えても仕方ないか。

 どちらにしても、止められる者は藍しかいない。それならば、もう実力差がどうとかなんて、言っていられない。

 ――それに『折りたい』ってのは使えたんだから、多少は使えるのかもしれない。

 相手は『戮す』という動機で動き、藍は『折りたい』という目的で行動する。賞賛はある。藍にだって考えがないわけではない。

『戮す』や『走る』といった動機を満たす為、動機が原因の『道』。

『折りたい』や『見つける』といった具体的な目的を達成する『道』。

 辿れは成功する。その点では全く同じだ。しかしこの二つには違いがある。

 それは選択肢の幅だ。

 例えば『戮す』という目的の際、その方法はいくつもあるだろう。

 首の切断、腹を切り裂く、頭に一振り……。

 しかし、『首を切断する事によって殺害する』という目的の場合、その方法は限られてくる。そしてその中で成功する方法はかなり少ない。

 そして『道』は、どれにおいても辿れば必ず成功する方法である。確実な方法が複数あれど、体勢、相手の思考、環境……その他もろもろの可能性を考慮し、『道』はより確実な一つに『道』を絞る。

 そして当然のことながら、選択肢の中から取捨選択するには時間が必要だ。故に、最初から具体的な目的を持って『道』を見る事によって、その時間を短縮することが出来る。

『逃げる』『折りたい』『見つける』……様々な動機や目的のために『道』を見てきた藍だからこそ至れる結論だった。

 おそらく、『戮す』ことしかしてきていない利久は知らない。だがそれも一度きりだ。観察していれば相手だって学習して、自分も同じような行動を取るだろう。『戮す』目的をより具体的に、そして明確にすることで、目の機能が『道』を洗濯する時間を減らし、実行できる『道』をより驚異的なものにしようとするはずだ。

 それを避けるためにも、手を打たなければいけない。


 とはいえ、そんなに簡単に妙案が思い浮かぶわけはなく、藍は頭を抱えた。

 ――まったく、考えるのがイヤだから『走って』たのに。

 愚痴るが、それは心の中にだけで留めておいた。

 そして、その判断は正しかった。 

「君さ、今日は病院にでも行くの?」

 後ろから声が掛かってきて、藍の思考はそこで途切れた。声が聞えてきた方向へと、藍は振り返る。

 宮野利久だ。何で彼が自分に話しかけてくるのか分らないが、もし子土江でも声に出していたら、こんな馬鹿げた事でバレるところだった。

「どうして私に訊くの?」

 藍は尋ねる、だが宮野は無視する。

「俺は行くよ。今日は病院に」

「へぇ。どうして?」

 もしかしたら……そんな思考が過ぎる。だがそれは予想でしかなく、また可能性の一つでしかない。

「俺は先輩のことをよく知らないけど、お見舞いに行こうと思うんだ。君はどうする? 行く? 行かない? 同じ部活の先輩なんだろ? むしろ君の方が行くのは自然じゃないのかい?」

 これはもう、自白も同然だ。しかし自白ではない。明確な証拠もないし、言葉だけでは証拠としては不十分だ。

 しかし、この様子ならば、あからさまに挑発してくるような言動を見せているのだから、必ず利久はこっちが欲しいもの……殺人を犯してきた証拠を現場を見せてくる筈だ。どんな形かは分らないが、そんなことは問題ではない。

 藍としては、それは望むところだ。

「そう。私も行くかもね」

 藍はあえて回答をアヤフヤなものにした。

「君、もしかして見てないの?」

 利久のその質問は要領を得ていない。故に藍は尋ね返す。

「何が?」

「分ってるだろうに。『道』だよ。『同類を見つける』って目的でもさ、『道』は見えるんだよ」

 囁いた。瞬間、藍は『同類を見つける』という目的を持って『道』を見る。

 道は、見えない。

 それは当然だ。『道』は、辿りさえすれば目的を達成するものであって、答えを出すものではない。辿ることで、物理的な行動を起こす事で達成できる目的ではない。

「冗談だよ。今のは確認だよ」

 そういう事か、と藍は歯噛みする。

 質問する事自体が目的だったのだ。

 それに対して、藍が動揺するか否か。それこそが利久の目的だった。

「良かったよ。ちゃんと反応してくれて。おかげでいいいお見舞いができそうだ」

 そう言いながら、利久は藍の側から立ち去った。


 後に彼らが口を利くのは、それから九時間ばかり後のことである。

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