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$1$ 望郷

    $1$ 望郷


    # THE THRID PERSON


 空間は人間にとって繋がりの深いものだと、国枝藍は解釈している。


 彼女にとっての望郷は、景色や聞えてくる音、匂い、空気や温度だったりする。そしてそれは空間に囚われている。それは幼い頃に見た、どこまでも続く水平線であったり、港に綱で繋がった船が軋む音であったり、嗅いだ磯の香りであったり、吹き付ける潮風や日差しであったりするわけだ。しかしそれらを都市部で見ることも聞くことも嗅ぐことも感じることもない。その空間には、その空間に合った情報が存在しているからだ。

 それは聳え立つ摩天楼であったり、人込みから聞えてくる喧騒や、自動車のエンジン音だったり、デパートの食品売り場の果物売り場の匂いだったり、夏のエアコンの効いたコンビニから出るときに感じる外気温との温度差だったりだ。

 たまにはこうやって、帰宅路を小学校頃に通っていた道に変えて、ノスタルジーに浸るのも悪くないなと藍は思う。

 まだ高校も一年生であるが、そんな彼女の人生にだって過去はある。そして望郷する時には、決まって今の自分は消えてしまう。絶対的に懐かしむだけであって、相対的に今の自分と比べたりはしないのだ。

 昔の自分が綺麗だとか、今の自分が汚いとか、あの頃はよかったとは思わない。何故なら今は今で満足しているのだし、過去と現在を比較できるほど、過去を明確に、それが体験した現実であったという自覚が曖昧だからだ。

 そして決まって彼女の場合、人で望郷することは無い。昔なじみに出会ったとしても過去のその人と、今目の前にいるその人を比べてしまうだけであって、過去のその人そのものではないからだ。

 逆に空間は、あの時とさして変わっていない。少し古びているかもしれないが、確かにあの時に感じたものを思い出す。少しばかりの変化は重要ではなく、その場所が持つ意味が同じでさえあればよいのだ。

 つまり望郷というものは、対象が変化していないことが、その意味があの時と同じであるのが前提だ。

 同じだけの時間が与えられたとしても、人間は場所よりも大きく変化してしまう。

 小学校の頃には散々登った歩道橋を名残惜しく降りながら彼女は思う。変化しない場所ではなく変化し続ける人間で、望郷することはあるのだろうか、と。


    # THE THRID PERSON


 四月にもなると、この時間でもまだまだ明るいな、と利久は人事のように思う。

 さらさらと、春の風がどこからともなく吹いてきて、彼の頬を優しく撫でる。すると彼の嗅覚が梅の香りを察知する。

 そして風がやむと、再び鉄の匂いが充満し始める。

 梅の酸っぱい匂いと鉄の苦い臭いが混ざり合い、奇怪な香りを形成して辺りに漂い始める。季節限定といえば聞えはいいが、大量の出欠が無ければそれも生まれる事はなく、無いに越した事は無い臭気だ。

 西に太陽が傾き始めているが、まだ雄飛にはなっていない日差しの元。

 桜の花弁の絨毯が、校舎裏、一本だけ場違いに生えている桜の木の足元には、上から振ってきた桜の花弁が敷き詰められていた。

 その桜の花弁の絨毯は、桜の木を境に、右は桃色、左は真紅に綺麗に分割され、両方とも色鮮やかなのに、天と地のような埋められない差を作り出していた。

 より正確に言うならば、境は桜の木ではなく、それに寄りかかる一つの亡骸。

 冬のゴミ捨て場と、春の桜の木下と。

 色彩はまるで違うのに、利久は確かに望郷していた。

 空気の硬さは別物だ。

 多少違う。だが、地にぶちまけられた血の色と、香ってくる鉄臭さだけは、どうしようもなく似通っている。音はしない。校舎の裏に聞えてくる人的音源は存在しない。せいぜい遠いグラウンドの方から野球部のノック音が聞えてくる程度だ。

 人が寄ってきてもいけないな、と今頃になって思いつく。殺したのはもう数分も前になるというのに。

 前は軽率すぎた。そう思って今回は他のクラスから対象を絞り込んだ。話したいことがあるといっておびき出して、そして戮した。

 だが自分がやったのは『戮す』という行動を邪魔されないように、ただ道を辿らせただけだ。考える必要も、選択する責任も無い。行動さえしていれば結果がついてくる。これほどに楽で楽しい事は無い。

 こういう事をする人間が他にもいれば、それは同類になれると思う。

『戮す』ために戮す。

 目的は無い。動機しかない。

 それはただ、行動を起こす原因でしかない。

 だから彼は、自分自身を世界で起こっている事象以外の何物でもないと再確認する。


 楽でいい。


 ああ、こういう日々が続けばいい。行動派なんだって良かったのかもしれない。だが動機が衝動を生むのかも、衝動が動機を形成しているのかも区別がつかない。それは分らないが、どちらかは必ず起こっているのだと、目の前の惨状を理由に結論付ける。

 何も理由が必要な事じゃない。答えなくてもいいことだ。


 これを幸福と呼ばずして、一体何を幸福と呼べばいいのだろうか?


  # THE THRID PERSON


 午後九時半、父親は帰っていないし、母親は健康優良児である為に既に寝静まっている。

 藍は中学の頃から着続けている、自腹で買った白主体のランニングウェアに身を包み、真っ白なランニングシューズを履いて家を出る。


『走る』ために、走る。

 それが彼女にとって、走ることの定義である。


 こうやって『道』を見続けて、正確無比に辿っている間は、交通事故にも遭いはしない。

 そうだとはいえ、彼女は音楽を聴きながら走ったりはしない。走るときに聞こえてくる風を切る音や流れていく人々の喧騒さえも、彼女にとっては『走る』ことによって得られる感覚の一部だからだ。せっかくさらに盛られているなら、全部食べつくさなければもったいないし、バランスも悪い。そして何より、それすらも楽しみにしているのだから。

 肌を撫でるのは、都市部独特の自動車の排気を含んだ空気。

 靴越しに足の裏から感じるのは、舗装された硬くて黒いアスファルト。

 頭に感じるのは、彼女の黒いショートカットの黒い髪。

 足全体で感じるのは、脚そのものの躍動で、

 自分の脚の動きに比例して進む身体の速度に合わせて流れていく視界。


 そして瞳の視界に映るのは、彼女の『走り』を得る為の『道』。


 その道を辿れば、何者にも邪魔をされない。

 踏み切りや信号に引っかかることも、向こうから走ってくる自転車とぶつかることもない。

 瞳に映る『道』が三十度ほど右に曲がる。左手にはマンションの玄関が見えるから、おそらく人が出てくるのだろう。未来予測というわけでもないが、邪魔をされない過去道を見続ける以上、彼女の邪魔になるものに関してだけならば、こうして間接的に未来予測が出来るのも自明の理。

『道』に従い、進路を少しそらすと、結果として気だるそうに出てきた高校生くらいの茶髪の男を回避する。『道』を見ていれば必然的に顔を見ることもなく、闖入者の存在は藍の脳内から消えていた。

 彼女が『走る』ことに目覚めたのは、中学二年の頃だった。

 特別部活に入っていたわけではなかった。陸上部に入るつもりも毛頭無かった。

 なのに、ある時思った。走りたいと思った。

 速く走るのではなく、走るために走る。

 動機に従って行動する。しかし目的は存在しない。だからすぐに飽きるだろうとも思った。

 だが、それどころか日常になった。というより、依存し始めていた。

 それをしていなければ落ち着かない、とりあえずそれをすれば安らぎ、そして楽しめる。


 彼女は『走り』続けていた。


 かれこれ今年で三年目、まだまだ『走る』ために走り続けたいと思っていた。


    # THE THRID PERSON


 マンションを出た瞬間、彼の前の前を一人の少女が横切った。

 その少女は、走っていた。


 正確に言えば、『走る』ために走っていた。


 動機は衝動、湧き上がる感情は、人が生物であるが故に避けようのないモノ。

 目的は思考の産物。行動した後に、目的は行動とともに省みるモノ。

 振り返るという行動は学習する上で必要だ。

 動機で行動してもいい。それを後に見返せるのならば。

 しかし目的があったほうがいい。明確な理由があれば、後に自分の行動を振り返る時に端的に過去を省みることができるから。

 だが、その少女は振り返りそうにない。いや、今のままでは絶対に振り返らない。

 現実を見ていない。『走る』という感覚が、おそらく彼女の中で現実よりも高い位置に存在しているのだろうから。

 現実よりも『走る』方が、彼女自身にとってリアル。

 彼にはわかる。自分も昔、あんなふうだったから。

 確認する為、彼は『見る』。

 今の彼は、衝動だけではなく明確な意思と思考による目的のために『道』を見れる。しかしそれは内から湧き上がって来る衝動、動機となるものが薄い分、力は弱い。

 だが、十分に見て取れた。もし自分が『走る』という目的を持っていた際に、『道』を見ていたときの『道』を、少女は辿っている。

 つまり彼は、昔の彼と同一の存在だ。

 だから彼は望郷する。少女を見て望郷する。彼女が過去の自分と同じだからこそ、そういう感情が芽吹くのだ。

「馬鹿野朗。『持ってる』人間がそれを趣味にだけ使っていいわけは無いんだよ」

 もう見えなくなった少女に向かって、少年――藤堂東吾は呟いた。


    # THE THRID PERSON


 ピピピピピ、と自分で仕掛けた不快な電子音で、藍は脳を覚醒させた。条件反射で目覚まし時計の上部を叩く。

 目を開けると、頭がいやに重いのに気付いた。寝不足だなと思いながら藍は体を起こすと、寝巻きのまま洗面台まで行って顔を洗い、そのままリビングまでいく。父も母ももう仕事に出ている。いつものことだ。父は出勤、母はパートで、平日に一番遅く起きるのは藍だ。一人でいるのに怖くはないが、朝食を取りながら新聞を見るのが個人的にイヤなので、代わりに朝の情報源としてはテレビを使っていた。

 未だにブラウン管テレビではあるが、地上デジタル放送の完全移行までは一年とちょっとくらいの猶予がある。それまではこの年代者も現役だ。テレビを点けると、丁度ニュース番組が放送局を地域局へと切り替えたところだった。

『○○市の学校内で起こった殺人事件は、一月に同町の中学校で起こった殺人事件と、遺体の損傷の仕方や現場の状況が酷似していることが、警察関係者への調べで明らかになりました。この事件は先月十三日、県立○○第一高等学校の敷地内で、この高校に通う高校一年生、沢尻博美さん十六歳が殺害された事件で、話によりますと、一月に同じ町の中学校の敷地内で起こった殺人事件と類似した箇所がいくつも見られ……』

 朝から物騒なニュースをやってるな、とテレビのニュースを見ながら憂鬱な気分に浸りながらキッチンに行って食パンをトースターに入れる。自分が通う学校で起こった事件なのだから、それも二倍増しだ。

 同一犯によるものと見られる事件は二件、被害者も二人。

 一人目は今年の一月、中学校の敷地内で女子生徒一名が殺害された、というものだった。こちらはまだ藍が中学に通っていた頃、つまり四ヶ月ほど前の話になるが、事件の起こった中学校は藍が当時通っていた中学校から特別近いわけでもないが、遠い距離でもなくいので犯人がこの辺りに来てもおかしくないという話になって、一週間ほどは部活が中止になった記憶がある。

 そして今回、五月三日に殺害された二人目。学校内で広まっている話だと、発見されたのは教室。窓側の壁に両足を伸ばして座り、壁にもたれかかるような状態だったという。

 首の右側の内頚静脈及び頚動脈を綺麗に切断。出血多量で死亡したのだが、その出血で衣服に血液が付着したのを除けば、死体は恐ろしく綺麗だったというのだ。

 争った形跡も無く、目は閉じられていたのだという。

 前にやっていたニュースでゲスト出演した推理作家は犯人像がイマイチ掴めないといっていた。私怨による殺人ならば連続性があるわけも無く、殺人そのものが目的ならば、目を閉じるという行為――死を悼むというのはおかしく、かつ学校内で行う意図もわからない。犯人の目撃情報などが皆無である事から、自然に考えるのならば犯人は学校内の人間ということになり、一月に中学、卒業式と入学式を終えて五月に高校で起こっている事から今年高校一年生になる人間、および中学から高校へと人事異動があった教員といことになるが、んな見つかるリスクを増やす点から推測するに、自分を捕まえられるものならば捕まえてみろ、という警察への挑戦なのではないかとも言っていた。

 だが藍には、その解釈は誤りだと察しがついた。

 そういった感情が湧くのが、彼にとっては学校であるというだけなのだろう。そうしたい、『戮したい』と思うのが、偶々学校であっただけだ。藍が夜の街を見て『走り対』と思うように。 

 殺人という行動によって得られる感覚を、藍は知らない。

 だが、藍は内心気付いていた。

 この犯人は自分と同じだ。

 藍は『走る』ために走っている。

 そしてコイツは『戮す』ために戮している。

 違いは無い。ただ走るか戮すかという行動の違い。意味は同一だ。

 意味と言っても、おそらく人格が違う時点で変換も置換もしようがないが、しいて一言で表すなら、有体に言うのなら、それは、愉悦というモノなのだろう。愉しむということなのだろう。自分にとっては『走る』こと。他に方法の転換のしようがないそれが、偶々この犯人にとっては『戮す』という少々物騒な方法であったというだけに過ぎないのだ。

 だから本来ならば、同属の存在に悦ぶべきなのだろう。


 しかし、なんなのだろうか? この心の内から湧き上がって来る、苛立ちと嫌悪の入り混じった感覚は。

 焦げ臭さに気づいたときには、トーストは既に真っ黒になっていた。


    # THE THRID PERSON


 藍が高校に入学してから二ヶ月が経とうとしていた。

 授業は基本的に惰眠の時間。藍にとって学校の授業はその程度のものだった。テスト週間の前に焦るが、焦るだけで結局特に何もせずにテストに望むことも少なくない。せいぜい提出物に手をつけるかつけないかくらいだ。成績は下の上か中の下くらいのものだろう。一応欠点は未だにとっていないため補習は受けたことはないが。

 しかしそれも中学までの話。高校になればそうはいかないんじゃないかと思っていたが、正直その実感が湧くわけも無く、この一ヶ月と少しの間も中学の頃と似たような態度で授業を受けていた。小学校から中学校までの九年間で積み重ねてきた居眠りの技術は円熟期というものを知らず、未だに成長し続けている。中学二年を過ぎてから、居眠りがバレたことは一度も無い。もちろん先生が呆れている、または諦めていて起こさないという線も捨て切れていないのだが。

 一時間目は数学。当然のように惰眠で過ごして気がつくとチャイムが鳴る。二、三時間目の情報A。教室移動でコンピューター教室に移動。パソコンの画面に向かうため、この授業ばかりは眠ることもできないし、眠ろうにも教師は生徒の全ての画面を把握しているらしいので、適当に受けることにする。

 コンピュータ教室は、教卓側にホワイトボード、四列に席があるが、椅子の向きは左に列は左向きに、右に列は右向きになっているので、教師の方向に顔を向けようとすると顔を九十度ほど曲げなければならない。だが教科書を見るなり、中央にある教員のPCを映し出すディスプレイを見ながら聞くのなら、わざわざ教師の方に顔を向ける必要性は無く、故に教師も生徒を見ようという意識が薄く、画面に向かって話している封にも見えなくもなかった。

 生徒のPCの画面は教師に監視されているので、インターネットをしようとすれば中央ディスプレイにて晒し者にされるために誰もやらないが、隣人と話すだけなら特に問題はない。

「へぇ~、あの二人って付き合ってるんだ」

「らしいよ。前にユリからメールで聞いたときにはビックリした~」

 藍の隣の生徒が、その隣の生徒とそんな話をしていた。機械を操作しながら器用な事だと、藍は慣れない配列のキーの中から神経衰弱のようにローマ字一時ずつ探しながら思っていた。

「ビックリって点ならさ、未空って宮野君に気があるらしいじゃん」

「え、ウソ? マジ?」

 誰だそれ? と思いつつ、脳内からその名で検索をかけると、女子のクラス委員の名前が浮かび上がってきた。

 宮野、というのは男子生徒だろう。女子生徒ならばそれはそれで珍しく難しい話になるが、そういう話にしては話の雰囲気が軽すぎる。

「まあ宮野君って結構ルックスいいしね~。でも今はほら、千賀子がメアド交換したって話てたからそっちなんじゃない?」

「ゴメン、千賀子って?」

「ああそっか、私と同中なの、二組の戸松千賀子」

 誰だよ千賀子、と藍は内心で呟いた。

「へぇ~。っていうか宮野君って付き合ってるとはいかなくても結構仲のいい子がいたって話じゃなかった?」

「それがホラ……さ……例のホラ……」

「ああ……なるほどね……」

 盗み疑義着ていた藍としては、急にテンションが落ちたのについて行けず、『え、なにどうしたの?』と訊きたかったが、実行に移すのはやめておいた。しかしすぐに藍の疑問は拭われる。

「あのさ、これは噂だからね、噂だから誰にも言わないでね?」

「え、なになに?」

 ここに盗み聞きしている人間がいるんだけどなぁ、と思いながらも、藍も他言はしないと勝手に女子生徒に約束した。

「例の殺されたって子もだけど……一月に中学でも同じ事があったじゃない? その時の被害者の子さぁ、宮野君と付き合ってた子らしいの?」

「ウッソマジで? 気の毒だね~」

「でしょ? 一人ならまだしもコレで二人目だからね」

 全然気の毒そうに聞えないながらも、藍はあまりに不謹慎な事を考えてしまった。

 それはあまりにできすぎじゃないか、と。


 四時間目の現代文は一時間目同様に居眠り。

 それにしても自分は何も変わっていないな、と、昼食の席の取り合いでごった返している教室を後にしながら藍は思う。

 四月の頃、最初は誰もが敬語で呼び合っていた。しかし一週間も経った今ではもうクラスの人間は呼び捨てや名前や相性で呼び合っている。唯一藍だけは例外で『国枝さん』と呼ばれている。藍も誰かを呼ぶ時は苗字に君やさん付けだ。

 理由は至極単純で、人と接する機会が少ないからだ。

 昼食時間は教室を出て、適当に開いている教室で弁当を食べている。この時間帯は生徒棟一階の端の方にある選択教室は教師が見回りに来る可能性があるので危ないが、転落防止のために三階の渡り廊下は開閉されていない事情で、特別棟の三階にあるこの文芸教室辺りは、二階の渡り廊下を渡ってから三階に上がらなければいけないという少々厄介なアクセス事情の為、必然的に無人状態になる。文芸部員が来るかもと最初は思っていたのだが、どうやらこの学校の文芸部員は、部員同士で集まって一緒に弁当を食べたりはせずに、学年ごとにそれぞれ別の場所で食べているらしい。その為藍は、ここで一人で弁当を食べている。他人と食べるのは落ち着かないのだ。

「はぁ……」

 学校に来てから初めて声帯が震えた気がする、と考えながら窓の外を見る。当然それは生徒等側ではなく裏側、坂の上にある学校の校舎の三階から見える町並みだ。ふもとの町が一望できる……といっても、学校があるのはどちらかというと田舎なので、田んぼと民家、少し向こうに鉄塔が見えるくらいの閑散とした風景である。

「はぁ……」

 二度目の溜め息は、卵焼きを割り箸で二つ、四つと分割しながら。一口、というより半口サイズになった卵焼きを次々と口の中に放り込む。

 そして、それは突然だった。

 がらら、と開く筈の無い古びた教室のドアが開いたのだ。

 立っていたのは、コンビニ袋を左手に下げだ男子生徒。

「……あ、なんでこんなトコにいんの? ぼっち?」

 それはコッチのセリフだと、藍は内心で呟いた。

 地毛なのか染色したのか茶色い髪を、長い所は耳たぶくらいまで伸ばし、趣味の悪いガラシャツを内側に着て、その上左手首には銀の腕時計、右手首には存在理由が無さそうなシルバーの鎖のようなものを巻いていた。準不良、といえば良いのだろうか。個性的過ぎると言うのだろうか。

「まぁ随分と悲しい女子高生だな。こんな辺ぴなところで一人で飯食ってるなんてな。便所飯の方がまだ落ち着くだろ……って、ここなら同じか」

 無視するつもりが、鼻で笑ってしまった。

 ランチメイト症候群というものがある。簡単に言えば、昼ご飯を友達と一緒に食べられないことに恐怖を抱くというデリケート極まりない精神から来るものだ、と藍は勝手に解釈していたが、傍目から見れば藍もそのように見えることは自覚していない。

「俺が言ったこと、そんなに可笑しかったか?」

「いえ別に。私は人が話題作りの種に自分に話しかけてくるのが面倒くさいから、最初から人のいないここに来てるだけです」

 最初の頃は教室で食べていた。中学校ではそれが普通だったし、給食だったから、というのも一つの大きな要因だろう。しかし高校に入ってみてビックリしたのが、弁当になった途端というのと、教室を移動してもOKという先生の発言があると、誰も彼もが友達と食べ始めるのだ。正直、その繋がりの強さなのか、依存心なのかに藍は面食らってしまった。だが自分には関係ないことだと思って喧騒の中もくもくと食事を続けていたのだが、近くに固まっていた女子のグループが自分に気付いたのであろう、クスクスと笑い始め、しまいには、『こっち入る?』などと話しかけてきたのだ。

 何のことは無い、相手の勘違いから来ているのだろうと思い、丁重に断ったのだが、そのグループの別の女子生徒が『別に大丈夫って、何が?』と言って大笑いして、それが次第に伝播し始めたのだ。察しているつもりなのかタダの予想なのか、シャイだのかまってちゃんだのと本人を前にしてほざき始め、鬱陶しかった。風景なら風景らしく雑音を発していればいいものを、わざわざ人を巻き込むのが煩くて面倒くさかったのだ。翌日からは人気の無いこの辺りを目に付けて、ここに落ち着いた――という経緯がある。恐怖心ではなく、あくまで面倒だから、という理由だ。現にあの日はグループの真っ只中で一人で食事はしていたのだから。

 簡潔にそれをまとめて目の前の男に話すと、

「ふーん。構ってもらえるだけ良い方だと思うけどなぁ……ナイーブな年頃だし仕方ないといえばそうだわな。まぁ一人の方が落ち着くって言うのはわかるな。勿論、俺としては馬鹿共と一緒にいるのも楽しいけど、さ」

 といいながら、提げていたコンビニ袋からパックのカフェオレと菓子パンを数個取り出す。クシュクシュと、煩わしいのに虚無的な音が文芸教室の空気に霧散していく。

 そして男子生徒は、自分のことは無視して食事を開始した。さっきの会話から少し面倒と思った藍であったが、突然無言になったこともあり、とりあえずは保留ということで自分の昼食をいつも通りのタイムで食べ終えた。藍が食べ終わった時くらいに丁度男子生徒の方も食べ終えて、ゴミを一式全てコンビニ袋に入れて袋を縛ったかと思うと、こちらに向き直った。

「一年生だよな。名前は?」

 また面倒な……と思ったが、こういうタイプの人間は悪戯に人のことを喋らないのは少ない人生経験から知っている。

「一年四組、国枝藍」

「いや、組までは訊いてないよ」

 男子生徒は冷静にそう返答したが、

「君達っ、ここで何してるの?」

 という、半ば悲鳴めいた女の声が聞こえてきた。

「あ?」

 気付かなかったがドアの方を見ると、女性教師が一人立っているではないか。一昔前のファッションセンス四十代前半くらいの女性教師。ご丁寧に左手の薬指には結婚指輪まではまってる。食器洗いのときとか邪魔にならないのか、と藍は少しズレた感想を抱いた。

「ああ、文芸部っす」

「それはそうだろうけど……一応、組と名前。部員でもないのに勝手に侵入してた、なんてことは無いと思うけど。部活の名簿どこだったかな……」

 そう言いながら、脇に抱えていたファイルを漁り始める。

 げ、と藍は呻いた。あくまで心の中で。

「信頼されてないっすね俺。二年一組の藤堂東吾です」

 二年だったのか、と少し驚く。三年と言われてもおかしくない容姿だ。とはいえ、高校生にもなれば見た目だけで学年を判別するもの難しいかとも思う。現に藍のクラスにも、教師と間違えそうな老け顔の大男がいる。

 はいはいと言いながら、女性教師は名簿を見つけ出して、あら、とまるで室内に小鳥でも入ってきたかのような素っ頓狂な声を上げる。

「あれ? この部活って新入生一人も入ってないわよね。どうしてかしら?」

 ふざけんな馬鹿、と藤堂という二年生をにらみつけた。視線だけで意図を伝える。

 そんなことは聞いてないし、なにより藍が知っているのは藤堂一人だ。それでよく文芸部などとぬけぬけと言えたものだと逆に感心してしまう。

「……って、ああ、もしかして、ちょっと遅めの新入部員かな?」

 気付いた時には、女性教師はそんな物凄く迷惑な勘違いをしてくれていて、

「はい。そうっす。入部の相談受けてたトコで」

 と、勝手に、しかも堂々と嘘をつかれてしまっていた。

「いや別に……」

「別になんだ?」

 勝手にこの教室に入ってきて昼食を食っていただけで、文芸部員になるつもりは無い、とは言えない。それはそれで話がこんがらがるし、なにより勝手に教室に侵入していたのならば、それはそれで問題がある。

 それを誤魔化す為、そして焦った藍が思いついたのは一つだけだった。

「相談って言うか……ほとんど決まってたからっていうか……」

「ああ、もう入る気満々なんだ」

 自爆した、と察した。もう少しいい言い訳が思いつかなかったのかと自分でも思う。

「いきなり入部は出来ないから、とりあえず仮入部届けを生徒会の方で貰って、そこの先輩に出したらいいわ。それじゃ」

 そういい残して、女性教師は立ち去ってしまった。

「……かはぁ……」

 頭を抱えて机に額を思い切り打つ。自分の思慮の浅さに腹が立つ。引き返す道はもう消えたのだと自覚すると、腹立ちも二倍増しだ。

「ああ、そうか、面倒だよな……」

 そう言いながら藤堂が自分の座っている席の引き出しを覗く。何か良い言い訳でもあるのかと、藍は内心期待してしまったが、

「生徒会室までいくの面倒だろ、はい仮入部届け」

 手渡されたのは、期待を裏切る一枚の紙切れだった。


    # THE THRID PERSON


 仮入部届けという不確定要素が、五時間目の藍の脳内スケジュールを狂わしていた。

 今日は五月中旬にある新入生セミナーとは名ばかりの一泊二日の山中散策ツアーの説明会が五時間目に視聴覚室で行われていた。

 無論藍はそれを真面目に聞くつもりなど毛頭無く、もっぱら昼寝の時間として認識していたし、そうするつもりだったのだが……。

 ――何の因果なのかな……これ……。

 仮入部届け、組と名前だけは書いたが、希望部活名はまだ書かれていない。

 文芸などに興味もないし、そして文芸とは程遠い先輩しかいない文芸部。名は体をあらわすという言葉が裏付けるように、体を表していない名ほどに意味のないものはない。

 しかし性質の悪いものだと思う。意味のあるモノは有限だ。人の命もそうだし、道具や星にすら始まった時から終末というものが付き纏い、そしてそれが最後に付きまとっていた相手を破滅させる。逆に言えば、意味のない物に終わりは無い。意味がないというのは始まってすらいないからだ。始まりと終わりは二つあって一式、一組であって、単体では存在しない。つまり意味のないこの文芸部は延々と存在し続けるのではないかと、下手なホラーよりも迷惑な妄想を、藍は仮入部届け一つで繰り広げていた。

 ――でも、なんであの人はあんな部活に入ってるんだろう?

 名前だけの部活に意味はない。しかし現実にはそこに所属している部員がいる。入部しているということは目的、つまり意味があるはずだ。その先輩について考えるが、全く彼の意図が読めない。

 意図がないとすれば簡単だ。それはつまり、藍と同じで感覚に重きを置き、思考を二の次にしているタイプ、つまり目的が無くとも動機だけで行動してしまうタイプだ。だが藍には、彼がそういう風には見えなかった。感じなかった。

 何故だろうか?

 その理屈が分らない。それを分ろうと思ったことが今までは無かった。考えることは後回しにして、感じることだけを真実としていた藍にとって、第一印象を受けた原因を思考することで理解するというのは、もはや苦行以外の何物でもない。それではどっちが重要なのか、考えてしまった時点で逆転してしまう。

 予定よりも二十分は遅く、藍は回転を止めた脳を休ませた。


    # THE THRID PERSON


 自分でも、何でこんなことになっているのかと思う。

「仮入部届けは先生に出せばいいけど、ここの顧問ってあんまり来ないから来た時でいいよ。職員室に行っても捕まらないだろうしな」

 そんな適当な助言をするのは、この学校でただ一人藍と同じ部活に所属していて、そして唯一の先輩である藤堂東吾だ。

 放課後、部活に行くのは面倒くさいと思ったが、やっぱり辞めると言ったら、あの女性教師と対面した時に部活のことを聞かれて入部しなかったと答えた時の返答を考えると、それもさらに面倒くさいうえ、昼休みにあの教師がまた文芸部室に来ないとも限らない。それならいっそ藤堂という先輩を攻略してしまえば文芸部室は自分の領域になる。そちらの方が合理的だと藍は自分を納得させて部室に来ているのだった。

「ここって何をする部活なんです?」

「基本的には何もしない部活だ。各員自分の目標に向かってなんなりと励んでくれ」

 それを部活と言ってもいいものかと藍は思う。同一の目的を持つものが集まるから部活というのだろうに。

「よくもまぁ同好会に格落ちしないですね」

「正論だな。今年も人数少なくなったし、いつ同好会にされてもおかしくないな。つっても、そうなった所で別に何も困らないけどな」

 強がりでも何でもないのは承知している。部室に入ってくるなり、その辺りにあった椅子を三つほど並べて作った簡易ベッドに寝転がっているのだから、活動をする気が無いのは聞くまでも無い。

「っていうか国枝、お前友達いないの?」

 遠慮も無ければ気も遣わず、単刀直入に藤堂は質問してきた。

「はい」

 返答に戸惑うことすら面倒臭い、といわんばかりに藍も何も飾らず返答する。

 良く見れば狭い教室だ。広さは普通の教室の半分ほどしかない上に、本棚が教室でいう所の教壇と向かい側にあるために余計に狭く感じられる。

 風が吹けばガタガタと音を鳴らしそうな、田舎の家の窓のような磨り硝子の引き戸を開けると、図書館ならば白地に赤い文字のデザインの持ち出し厳禁のラベルが貼られていそうな、表紙のデザインから厚さまで、第一印象は重々しいというか物々しい雰囲気の本ばかりだ。中には小説のようなものもあるが、当然のごとく全てが厚物のハードカバーで、文庫本のような小ぢんまりとした物は一つも無い。それを人といり見た後に先輩を一瞥し、思わず溜め息をついた。

「先輩にこんな高尚な趣味があるとは思いませんでした」

「俺の本じゃねぇよ。昔からあるんだよ」

 冗談のつもりだったが、どうやら本気にさせてしまったらしい。悔いた藍は弁明する。

「安心してください。冗談ですから。先輩なんかが本を読むとは思ってません」

「お前、さらりと馬鹿にしやがったな。俺だって漫画くらいは読む」

 そういう本を言ったつもりは無かったが、どうやらこの先輩の脳内では本といったら紙が束になって綴じられてさえいれば何でも本らしい。勿論漫画も本の一種ではあろうが。ちなみに藍の本の定義は、図書室にあるものという安易ながらもまともな価値観なので、漫画は類似品であって純粋な本ではない。

「別に何でもいいですけど、先輩は何でこの部活に入ってるんですか? それとこの部活が存在していることにも疑問を持ってるんですけど……」

 それと同時にチャイムが鳴った。時計を見ると午後五時丁度を指していた。少しタイミングが悪かったな、と思いつつ、先輩の返答を待った。

「それはそのうち分るさ、それと最後に一つ……」

 藍の疑問を誤魔化しながら立ち上がり 平らな学生鞄を肩にかけて椅子を引くと、すれ違い様に藤堂が小さく呟く。


「お前、なんで走れるのに走ることしかしないんだ?」


 あまりにも意外、かつ動揺を誘う発言。

 がらがらと音を立ててしまる教室の扉を、藍は眺めていることしかできなかった。


    # THE THRID PERSON


 藤堂が、最後に言った言葉が耳から離れない。

『お前、なんで走れるのに走ることしかしないんだ?』

 知っているのだろうか? いや、万に一つも無いし、知っているのだとしたら、問い詰めて来ない理由が分らない。

 ランニングウェアを着て、真っ白なランニングシューズを履けば、今の自分は全身真っ白という奇妙な姿だ。

 いつも通りに、いつも通り特に取り決めも無く町中を走り回っていた。

 この時間になっても人工による光でまだ明るい商店街、本通りから少し離れた駅裏を走り抜けると、黄色がいくつも浮いていた。それが縞模様の黒が闇と同化した踏み切りだと気付くのに半秒ほど必要としていたが、目は踏み切りの方に『道』を曲げたので、藍はそれに倣う。

『お前、なんで走れるのに走ることしかしないんだ?』

 いつもは音楽を聴きながら走ったりはしないが、今日ばかりはあったほうがよかったなと後悔した。いつもなら有り得ないが、今日ばかりは違った。

 あの男とは初対面の筈だが、あちらが自分の『走る』姿を見ていたとしても不思議ではない。藍の顔を覚えていた、という単純な話。

 だが、そうだとしたら、覚えていた人間を自身しかいない部活に引き込んだのは偶然なのだろうか?

 もちろん、ただ人数がいないからとか、廃部になるのを防ぐためとか、そういういかにもな理由も考えられる。だが藍からしてみれば、自分の『走る』という行為を知っている為に、それと関連性があると考えずにはいられない。

「はぁ……」

 今日の中で何度目かも分らない溜め息をつく。『走れ』ていない。ただ走っているだけだ。走っているだけで『走る』ことに集中できていない。これでは作業だ。思考ばかりで感じれていない。走っている時に得られる、五感全ての感覚による快楽と悦楽に、全然浸れていない。

「なんで……」

 疑問に思うまでも無い。自分を否定されたからだ。

『走り』たいという動機が、何らかの目的を定めて、走るという行動を起こさせる。

 しかし藍はどうだろうか? 走りたいという動機はあっても、目的はない。

 それはおかしい。人は目的の為に行動するのだ。目的がない行動というのは、一体それはどういうことなのか?

「なんで……」

 他人に否定されて、なぜ自分がこんなにもイラだっているのか、藍にはそれが理解できない。他人の意見なんて関係ないじゃないかというのが藍の理屈だ。故に関係ないもので揺れ動いている自分自身の、何もかもが分らなくなっている。

 曲がり角に差し掛かると、『道』が急激に右に曲がった。普段なら昨日のように曲がった『道』を辿るのだが、今日は足が止まってしまった。

「よっ」

 目を見張った。曲がり角から現れたた男には見覚えがあった、という程にヤワな印象ではない。つい四時間ほど前まで部室に一緒にいた先輩だ。着ているのは制服ではなく黒い文字で英字がプリントされた赤いシャツとジーンズではあるが、それは藤堂東吾で間違いない。

「お前今日も走ってるのか。走るのは趣味か? 本気で走るんだったら陸上部にでも入って、目的を達成させようと頑張ってるだろうからな」

 今日も、という言い方から、『走って』いる自分の姿を見たことがあるんだなと察した。

「目的の為に走れば、それは本気なんですか?」

 苛立ちの原因を作った男に対して、藍は問うた。

「立ち話もなんだ、座ろうぜ」

 藤堂の右手人差し指が指した方向には、申し訳程度の大きさのベンチと、そのとなりに爛々と白く輝く自動販売機があった。


「で、何だって? 目的のために走るのがどうとか……」

「目的の為に走れば、それは本気なんですか?」

 二人の手には缶コーヒーが握られていた。あいにく藍は走る時には何も持って出たりはしないので、藤堂が自分のも買うついでに奢ったものだ。

「青春だねぇ。そんなことに疑問を持つなんて」

「茶化さないでください」

 苛立ちが蓄積していくのが分った。自分が本気で訊ねているのに、目の前の男は自分を嘲笑っているかのようで、本気にはなっていない。茶化しているだけのように思える。だがそういった第一印象を安直に口に出してしまったことへの後悔から、自分が惨めなのではないかという負の連鎖に陥ってしまった。

「人が走る場合、走るというものには二種類ある。一つは急いでいる時、事態が切迫している状況。二つ目は走ることを目的や手段としている場合だ。前者の場合に派生するものは無いが、後者の場合、さらに二つに分岐できる。自分に挑むものであるか、他と比べるものかだ。目的地までを走りきるか、目的地にたどり着くまでの速度を比較するかという二択だ。じゃあこの二つの共通点はなんだと思う?」

 コレが分らんようでは話にならんな、とでも言いたげに藍の目には映った。それが誤解だったとしても藍にはそう見えて仕方なかった。実際には違うのだろうが、藍の主観がそう見せていた。

「さぁ……」

「ゴールがあるか否かだ」

 決定事項であるかのように、藤堂は言い切った。その物言いが、藍のしゃくに障った。

「フルマラソンでも、実際に辿り着けるかどうかは別としてゴールはある。競走でもまた然り。最終的に到達する地点が存在する。だがお前はどうだ? 走りたいように走るだけ。目的も何もありはしない。強いて言うなら動機と目的を混濁してるだけだ」

「走る練習じゃあダメですか?」

「ダメかどうかは俺は知らんが、少なくともお前には当てはまらない。練習という目的は本番というもっと大きな目的があるからするものだ。本番に望まない、本番に向かっていないお前に練習は必要ない」

 そう言われるとぐうの音も出ない。だが藍からも一言言ってやりたいことがあった。

「別にどっちでも構いませんけど、少なくともあなたが私が『走る』のを止める理由はありません。権利も無ければ義務も無い」

 すると飄々とした態度で、藤堂は缶コーヒーを一口飲んだ。

「私が勝手に走ってるだけなんだから、お前が口出しするなって?」

「そうです。私は…………趣味、そう趣味で走ってるんです。なら口出しさせる筋合いはありません」

 そうだ。趣味なら問題ないじゃないか。いい抜け道を思いついたのと同時に、それを思いつけなかった自分の思慮の浅さが情けなった。そして、ならなんでこの男は人の趣味にこうも口出ししてくるのか思うと鼻持ちならない。

「確かにそうだな。俺にはお前を止める権利も義務も無いし、それを止める必要も無い。なんせお前の趣味だからな。ただな、やりたいことだけやって現実から目を背けてるお前に言えたセリフか? お前は『持ってる』のに自由にだけ使うだけで『持ってる』者としての責任を放棄してる。趣味としては愉しむが、できるくせに趣味としてしか走らないのはおかしいだろう。だから俺はこうやってお前と話しに来たんだよ。わざわざ」

 ほんの少し、藤堂の物言いには怒りのような色が見え隠れした。

「責任?」

 その意図が読めずに藍は困惑する。

「お前は走ってて気付かないか? 『走る』ために走るお前は、どっかの誰かに似てないか? そいつはお前と同じものを『持ってる』んじゃないのか?」


 持っている。


 何を持っているかどうか、わざわざ訊くまでも無い。

「趣味は勝手だがな、できる奴が趣味でしか走らないのは、現実に起こってる事件を解決させれる能力を持ってるのに走るしかしないのはおかしいだろうが」

 そう言いながら藤堂は席を立つ。藍はそれを黙って見ていることしかできない。


 そしてそれから連想した。今日の夕方の光景を。

 張り付いてくる。纏わり付いてくる。それは人そのものではなく、藍の主観から来るそれは、その人の印象から形成された鎖であり、楔であり、藍の心の内のその人間を気にする心情。

 他人からどう自分が見られているかを気にしている証拠。

 他人の意見を取り入れたいという願望の根源。

 それに対して、藍は呟く。


「鬱陶しいのよ、お前」


 カキョン、とスチール缶が場違いな、素っ頓狂な音を立ててへこんだ。


    # THE THRID PERSON


 今日は昨日説明があったセミナーの班決めをしていた。当初は出席番号で五人ずつの班と決められていたが、多数の生徒からの要望があり、最終的に藍のクラスのクラス委員の緑川未空による説得で『ケンカが起きないように公平にやるのであれば』『あくまでクラスでの交流の機会なので、当然班はクラス内で、男女の比率は全ての半で平等にして、女子だけ、男子だけという班は無いように』という条件が教師陣から提示されて、自由に決めていいことになった。

 教師陣からの条件により必然的に全ての班が男女混合班になるので、ただのざわつきだけではなく、少し合コンのような雰囲気が教室中を包んでいた。ある者は異性の選別をし、ある者は異性のグループに誰が話しかけるか、同性によって形成された小さなグループ内でジャンケンを繰り広げていた。

 活動班、と言っても大したことをするわけではなく、今回宿泊する施設の敷地を使ってオリエンテーリングをしようというだけだ。オリエンテーリングがそれほどポピュラーではないのと新入生セミナーという性質上、大会のような真面目な競技ではなく、あくまでレクリエーションという形になるのは、見るまでもなく予想できた。

 当然藍にも、その先もある程度予想できた。

 校内で殺人事件が起こった点を除けば、この学校は普通科の普通の高校だ。生徒の比率は三対二で僅かに女子の方が多く、一クラスが三十人で班は六つなので一班につき女子は三人、男子は二人という編成になる。

「ねぇねぇ、やっぱあっちがいいかな?」

「ええ、右はいいけど左はなくない?」

 同じトリオになった女子生徒二人が、男子ペアを指差しながらそんな会話をしていた。

 クラス委員で発言力のある女子の計らいで、女子だけでトリオを、男子だけでペアを作り、異性のグループに交渉して一つの班を作るという方式になった。なので担任の老年女性教師と、副担任の新任男性教師は黙って教室の後ろの席に座って、時折言葉を交えて見守っていた。ちなみに女子で余った藍は、必然的に二人でいた女子のペアに、パズルの隙間を埋めれるようにして半ば強制的、消去法で決まった。

 教室の左端の方で利発そうな顔立ちの男子が、後ろのあどけなさの残る大人しそうな男子を後ろに引き連れて、他の女子トリオと交渉していた。アレは決まるな、と藍は直感した。後ろの男子生徒も容姿だけなら相応に良いが、なによりも引き連れている男子の方が、背がすらりと高く美形で、後ろの男子が引き立て役に甘んじてしまっている程だ。あんなのに優しく声をかけられたら、誰でも断れないだろうな、と自分ならあの態度が気に食わないから断れるだろうに、人事のように見ていた。

「つーかあそこ男子もだけど女子もレベル高くない?」

「だよねー私も思った」

 どうやら自分と同じところを見ていたらしい。女子の容姿に関しては、藍は良く分らない。男子も同じようなものだが、女子に関してはさらに興味がないからだ。

「どっちがいい?」

「えー、彼氏にするなら背の高い方だなー。低い子は弟と交換したいー」

「ちょ、それ弟可哀想」

「だってアイツウザいんだもん。あの子だったらイジるの面白そうじゃん」

 どうでもいいけど、ウザいって汎用性が高い単語だなと藍は思った。主に悪い意味にしか使われないが。

「少し静かにしてください」

 少し教室が騒がしくなりすぎたのか、担任教師が余り響かない声で注意した。

「うわ、ババアウザー」

 そう言う自分達こそ五月蝿いのだと思うのだが、果たして本人達はそれに気づいているかどうか? 藍は少し考えてみたが、気付いていたとしても目を背けるだろうから結局彼女らに何を言っても無意味なんだろうな、という結果にたどり着いた。

 そんなことを考えていると、少しずつ思考が自分のことに切り替わってくる。一人だけで他に誰も話しかけてこないからだろうと結論付けたが、今の彼女達の光景に、何かが関連しているような気がしなくもなかった。

 藍が殺人犯を同類だと感じたのは、動機だけで動いているからだ。

 藍にとっては『走る』という行為が、犯人にとっては『戮す』という少々物騒な方法であったというだけ。だから本来ならば、同属の存在に悦ぶべき、そう思ったが、実際に感じたのは、心の内から湧き上がって来る、苛立ちと嫌悪の入り混じった感覚だった。

 これが何なのか、理解できない。

 自分が殺人犯に対して良くない気持ちを抱いていることは分るし、殺人そのものを否定したいわけで無いのも重々承知している。だが結論が出ない……。

「ねぇ、君達決まってる?」

 ふと、優男のような声が藍の鼓膜を揺すっていた。

「ああ、決まってないよー」

 聞えてきた方向を見ると、藍たち三人に男子生徒が声をかけていた。二人の内の一人がそれに応じる。

 ――コイツっ……。

 藍が反応したのは、声を発した生徒。

 話しかけてきた優男風の男子生徒が名乗りをあげる。

「宮野利久。よろしく」

 ふと、視線が合った。今風に切られた長すぎない茶髪と細すぎない輪郭の顔は、見るものに圧迫感を与えず、少しずつ内心を溶かしていくような底知れない不気味さを宿しているように藍は感じたが、キャイキャイと騒いでいるところを見ると、残る二人の女子はそうは思ってないようだ。

 自分も利久を見ているし、利久も自分を見ていた。

 だけれど、互いに気付かない。

 当然だ。互いに互いの行動を見たわけでもなければ、それについて話してたわけでもない。第一、入学して一ヶ月しか経っておらず、今まで話す機会など無かったのだから、事実上の初対面だ。

 ただ視線が合っただけ。互いの目付きを見合っただけ。

 だがその時、互いに同じ感想を抱いた。

 互いに同じ感想を抱いたことを、後に互いに知る事になる。


 その目付きは、鏡に映った自分を見ているようだった、と。


    # THE THRID PERSON


「お前……馬鹿みたいに真面目だな」

「矛盾です」

 いつもと変わらない平穏な日々。部室に入ってくるなり自分に対する感想を述べた唯一無二の先輩に対して、藍は短く返答した。

「矛盾じゃないだろ。クソ真面目って単語もあるぐらいだ。不真面目でも頭の良いヤツはいるし、真面目でも馬鹿なヤツはいる」

 吐き捨てながら、藤堂は薄っぺらなバックを机に投げ置く。藍の視線は持ってきていた文庫本に固定されていた。昨日帰宅している時に古本屋に寄り道して仕入れたものだ。数年前の芥川賞受賞作だったと記憶している。

「その頭の良い悪いの判断材料は、勉強が出来るか否かという問題でしょう。道徳や倫理が伴わない知識は、社会的に利になりません。むしろ害になり得ます」

「どうした? 今日は随分と社会的な側面を見せてくれるじゃないか。そのままNGOにでも就職してみたらどうだ? それか公務員か」

 多分今の成績のままではどっちにしろ無理だろうな、と藍は半ば呆然と考える。

「そんなことはどうでもいいや。とりあえず携帯の番号教えてくれ。メアドでもいい。というかどっちも」

 溜め息をついて本を閉じて、今にも穴の開きそうな板張りの床を見つめる。

「私、携帯電話持ってないです」

「ああ、そうなんだ……ホントに?」

 それには、今時いるの? という意図が込められていた。

「隠す必要もないでしょう」

「友達とどうやって連絡取るんだ?」

「友達はいないと前にも言いました」

 休日は、専ら家で惰眠しているか外で走っているかだ。人と外に出て買い物に行ったり映画を見に行ったりということは無い。最後に人と外に出たのは、小学校の頃に子ども会の催しで映画を見に行ったくらいだ。それからは、せいぜい一人で衣服などの必要な品や本を買いに行くくらいのもので、積極的に外に出ることは走ること以外では無い。当然のように、携帯電話も持っていない。特に使い道が無いからだ。おそらく登録できるのは自宅の番号意外に思いつかない。他に挙げるなら、それは最寄の警察や病院の番号や、たまに行く本屋の番号だろう。当然、最初の一つにしたって外に出ることがないのだから、かけることは皆無だろうが。

「今でも携帯持ってない女子高生っているんだなぁ」

 そりゃいるでしょう、と思うが口には出さないで置く。

「クラスメイトとかに誘われたりしないの? カラオケとか」

「ありますけど丁重に断ってます。私がいてもいなくても同じですし、カラオケの場合、音痴なんで歌おうとか思わないんで」

 ふと顔を上げると、そこには呆れ果てている藤堂の顔があった。

「お前少しは社会性とか協調性ってもんを身につけたらどうだ? 少しは我慢しないと世の中生きていけねぇぞ」

 そう言いながら、藤堂は本棚から一冊の本を取り出した。一番とは言わないが、相当に厚い一品だ。臙脂色の革張りで金の文字という装丁は高級感に満ち溢れている。昔からあると言っていたが、まさか本当は読んでいるとは思っていなかったので、藍は少し驚愕した。

「ご忠告ありがとうございます」

 のだが、藤堂は読むはずも無く、椅子の上に置くと、ほかに二つほど椅子を並べて横になる。あの本は枕として使用するつもりらしい。少しでもあの藤堂があの本を読むのかと考えてしまった自分が馬鹿らしく、藍は溜め息をついた。

「お前、溜め息ついてばっかりだな」

「先輩こそ、少しは先輩らしいことして下さい」

「それもそうか」

 少しの間、寝転んだまま藤堂は考えている風に顎に手をやっていたかと思うと、次の瞬間、急に上体を起こした。

「お前、犯人の目星とかついてないか? 俺の言ったこと意外で」

「またその話ですか」

 それを聞いて憂鬱で、かつ鬱陶しくなった。本を鞄に戻しながら、藍はいつでも帰れるように準備をする。

「特には何も」

「特には? どういう意味だ?」

「深い意味はありませんよ」

 深い意味はないし、特に理由もない。ただ、今日の六時間目。

 あの男子生徒、宮野利久という男子生徒の目付きが、まるで自分のようだったと感じただけ。それだけの情報で犯人だと断定できるわけも無く、する気も無かった。

「それに、判断できたところでどうしようもないでしょう。先輩には何か方法が思いついてるんですか」

 当然だな、と藤堂は断言する。

「お前があいつを止めればいい」

 何で私が。

 義理もなければ義務もない。そして何より理由がない。なのに止める理由はない。非常識な先輩のセリフに戸惑ったり、冗談なのかと誤解することもできず、藍は苛立った。  

「ふざけないでください。私は関係ない」

 勢いよく立ち上がり、真っ直ぐに、ただ藍は藤堂を見据える。

 藤堂も、ただ座ったまま藍を見据えていた。

 まるで、哀れむかのような、仕方ないとでも言いたいかのような、そんな自分を見下した視線に見えて仕方なかった。

 ぎしり、と何かの音がする。

 それが歯軋りだと気付くのに、少し時間を要した。

 この状況で、どう対応していいのか分らない。故に藍が取れる選択肢は目の前の先輩から、現実から逃げる以外に無かった。

「失礼します」

 そう誤魔化して、鞄を乱暴に掴み上げると、藍は部室から出て行った。


    # THE THRID PERSON


 それから一時間も経たない内に、藍の同属は三人目を殺戮していた。

 藍が『走る』ために走るなら、

 彼は『戮す』ために殺戮する。

 行動が違えど、得られる感覚の為に行動するという動機において、二人には何ら違いは無い。

 目的は無く、動機だけで行動する事も。

 その行動の為に必要なものを持っているかどうかも。

 右半身を血染めにした姿、今までに二度は見ているその姿。

 一度目は冬のゴミ捨て場。

 二度目は桜の木の下で。

 そして今は、体育館の裏側で。

 彼らは履き違えている、端的に言えば本末転倒だといえばいいだろう。

 重要な事柄とそうでない事柄、それが逆転しているのだ。

 目的に向かうのではなく、『そうしたい』という願望を満たす為。


 客観的視点から見た時、その姿を依存という。


    # THE THRID PERSON


 走ろうか、走るまいかと考えた。

 ――悩んでも仕方がないか……。

『走り』たくないと思うなど、異常な事態だ。『走る』ことはすなわち、悦や安楽に直結するからだ。

 しかし一方で藍は、それも当然かと思い始めていた。

 藤堂東吾という他人との接触だ。

 ああやって、相手が親でもないのに本心から話したことなど随分と久しぶりのことだ。それに藤堂は、自分に対して拒絶の意思を表さないだけではなく、実際に拒絶するつもりも無さそうで、まるで観測されているかのような気分だった。

 着替えを済ませて靴を履き、そっと家を出る。当然鍵もかけるが、その時は音ができるだけ聞えないように、ゆっくりと回すように心がける。

 カチン、と個気味のいい音だけは誤魔化せないが、このくらいなら聞こえないはずだ。鍵がちゃんと閉まっているか、一度ドアノブを回して確認すると、いつも通りに藍は夜の街に躍り出る。

 最初に感じたのは、今日はいつもより少し寒いということだった。走っていて感じる風が、いつもよりピリピリしている。寒気でも入り込んでいるのかなと適当に考えながらも『道』だけはしっかりと見る。

 ――ああ、これだけはやっぱり何物にも変えがたい。

 こうやって『道』さえ辿って走れていれば、もうそれ以上は望まない。極端な話、過去道を見る目とその『道』を辿って走れる足さえあれば、そのほかは何も要らないようにすら思えてしまう。だがそんな事はない筈なんだと藍は考え直す。走っているという実感を持つためにも、とりあえず五感は必要だ。それに腕を動かすのだって走るのに必要な重要な要素だ。足を動かすだけで『走る』言えない。五体を満足に動かして初めて『走る』と言えるのだから。

 こうやって走っていてると、藍はやはり思考を放棄してしまう。

『走り』たいと思うことの、一体どこがいけないのかと。


    # THE THRID PERSON


 次の日の朝は、騒々しかった。

 朝起きたら連絡網が回って来たのだ。学校内で二度目の殺人事件が起きたという旨だった。警察による現場検証などもあるため今日明日は休校、外出は禁止。明後日に説明の集会があるらしい。

 ニュースは大々的に放送されていた。

 いよいよ警察も本腰を入れてきた。事情聴取もあるかもしれないなと思いながら、藍はパジャマのままリビングのテレビのチャンネルを、頻繁に変えていた。

 母親は買い物に出かけたらしい。父親は当然出勤。学校は物騒だと言うのに、この家だけはいつも通りだなと、藍は呆れ気味に微笑んだ。

 ああ、これは望郷だ。

 いつの間にか、自分の現在は、学校と『走る』ことだけになっていたのかもしれない。いつもいる自宅を懐かしむとは、また自分も随分と余裕が無いんだなと思った。それだけ、学校や『走る』という日常しか見ていなかったということだろう。

 装飾品は一切になく、ブルーレイレコーダーとそれが入ったラック、その上には場違いなブラウン管テレビ、あとあるのはソファだけでテーブルすら置かれていない閑散とした自分の家のリビング。改めて見ると随分と味気のない物なんだなと思う。


 しばらくの間、特に見たい番組があるわけでもないがテレビを見ていると電話が鳴った。見ると、知らない番号表示されていた。藍は受話器を取る。

「はい国枝です」

『ああ国枝。俺だ。藤堂』

 藤堂なんて知り合いがいたかと少し考えてみると、なんのことはない、部活の先輩だと思い出し、それと同時にこの状況に疑問を抱く。

「何で先輩が私の家の電話番号知ってるんですか?」

『世の中には電話帳って便利な代物があるのを知らないのか? 走ってるお前と出くわした時からこの辺に住んでるのは見当ついてたからな』

 やはり『走って』いる自分を見たことがあるらしい。つまり昨日の出会いはやはり偶然ではなかったのだ。もしかしたら『走る』上で必然的に通る自宅近辺のコースを把握しているのかもしれない。

「先輩の家って私の家の近くなんですか?」

『ああ、近いって程でもないけど遠くはないな。二十分も歩けば着くだろうよ。って、そんなことよりも大事な話がある』

 話を変える藤堂の口調には、昨日とは違う緊迫した色が宿っていた。

『三件目、三人目の被害者が出た』

「校内殺人ですか? 知ってますけど、それが何か?」

 自分には関係ない。ぴしゃりと藍は言い放つつもりだった。

『気付いてるのに止めないのは罪だろう? アイツはお前の同類だ』

「アイツ?」

『言わずとも分るだろう。犯人だよ』

 なんであなたは言わずとも分ると勝手に思い込んでるんだ? と脳内の藍は逆に問い返したくなった。が、電話に応対している意識は脳内の藍は興奮していた。自分の思考と無意識の温度差に少し戸惑う。

「もういいじゃないですか。ほっといてください。私と犯人のことだと言うのなら、それこそ藤堂先輩には何にも関係のない話でしょう?」

 自分でも驚くくらいに、声を荒げていた。

「それに私は犯人が誰かなんて知りませんし、知りたいとも思ってません。第一、私が関わったところで事件を解決させることなんて無理です。何で先輩は事件にそんなにこだわるんですか? これは学校と警察とかの大人が解決させる問題であって、私達子供が興味本位で手を出していいことではないでしょう」

 みしり、と藍が握る樹脂製の受話器が小さな悲鳴を上げた。

 なんで自分がこんなに他人の言葉に対して喚いているのか?

 思考は答えを見つけるべく、客観的に自分自身を見つめていた。

『お前は『持ってる』だろう。だが、『走る』という目的の為に走ってる。そのために何かを使ってる』

 どうして『目』のことを――『道』を見る目のことが分るのかは知らない。知ってるのなら隠すつもりもなく、藍は尋ねる。

「先輩は、私が『走る』のを認めないんですか?」

『認めないというよりは気に食わないが正解だな。お前が『持ってる』のに責任を果たさないこともおかしいと思うし、『走る』ために走るというのも異常なことだと思う』

 異常。

 その単語が、藍の意識に異変を生じさせる。

 今の自分は、そんなにもおかしいのか?

 自分はどこか壊れているのか?

『行動が起きるまでには原因と過程がある。動機が目的を定め、そして目的の為に人は行動する。目的を発生させる原因が動機だ。目的は行動を起こすのだから、動機は基本的に行動と直結しない筈なんだ。だがお前はどうだ? 目的が無い。『走る』という動機のために走るという行動を起こしてるだけ。お前が走る場合、動機が行動と直結している、目的と動機が同じだ。それは単純であると同時に無意味だ。動機と目的が同一ならば、それはもう目的とは言えない、目的が存在しているとは言えないだろう。目的の無い行動に、一体どんな価値があるんだ?』

 価値なんて、そんなの物はどうでも良かった。

 ただ『走る』という感覚が楽しくて、だから走っているだけなのだ。

 それのどこがいけないというのだろうか?

『動機とは衝動だ。そして時に動機は目的を作らずに人を行動に走らせる。だが大抵の場合、人はそれで失敗して後悔する。当然だな、成功とは目的を達成することだ。目的のない行動が成功する道理はない。だがお前は違った。何かを持っていたから、『走る』ために『走る』という目的の無い筈の行動が成功……いや、失敗しなかった。『走り』たいという願望を抱くのは勝手だ。だが実際にはあってはいけない。それは本末転倒だ。気付かない内に全てにおいて動機による行動しかできなくなる。それは人が本来するべき行動じゃない。そしてつまらない動機や下らない固定概念ばかりに振り回される事をな、一般的には依存というんだ』

 受話器の向こうの藤堂は、なおも続ける。

『お前が走るのは、麻薬をやる奴と変わらない。日々の生活が苦しいから楽になりたいという動機のために、快楽を得る為に麻薬を手に入れるという目的を求めて、そしてクスリを使うという行動に走る。行動に依存していけば、いつしか目的が動機に塗り換わる。最初の動機はどこへやら、一度ある行動に依存してしまうと、行動を起こす為に目的が決められて、いつしか薬が欲しいという目的が動機になる。快楽を得たいという気持ちが、麻薬を手に入れるという目的以外を認めない。お前も同じだ。自我の確認という動機の為に「走る」という目的を設定し、そして走った。走る楽しさを知ったお前は、いつしか「走る」という行動以外で自我を確認しなくなる。このままだとお前はいずれ、自分の価値を「走る」という目的でしか見ることができなくなる。それはおかしいと思わないのか? お前はそれしかできないような人間なのか?』

 この人は、『走る』以外にも、人は生きていると実感できると言いたいのか?

 それとも、自分のやっている『走る』という行動が間違っていると言いたいか?

 どちらにしても、今の藍には理解できない事だった。

『分っただろ? 行動によって動機が侵食されると、動機が目的を変えてしまう。結果、行動の為に人は生きていくことになる。末路は二つだ。行動か目的か動機かも分からないものに身を任せ滅びていくか、もう何で自分が動いているのか分らない。その時人は自分の行動に疑問を持つかだ。前者なら今まで通りしていけばお前はその末路を辿る。しかし後者は今、そうやって考えれていないと選べない選択肢だ』

『走る』ために走って滅びるか、

『走る』ことをやめて、別の目的の為に走って生きるのか。

 選べるわけがない、そんなの、『走る』ために走って滅びる方が楽に決まってる。思考しないで済むから走りたいと思うのだから。

『正直、俺としては事件の方はどっちでもいいんだよ。俺が気にかけてるのはお前だ。人は変わろうと思い、行動すれば変われる。「走る」ためではなく、目的を持って走ればいい。それだけでいいんだ。なのに、何でお前はそれをしない? 思い浮かばなかったからか? そんなわけはないだろうな。じゃあ面倒だからか? それとも苦痛だからか? どちらにしろ、目的も無く走るのは、彷徨ってるのと変わらない』

 今までは彷徨っていたのだろうか? 

 ふとした疑問から藍は、今自分が人生の転換期にいることに気付いた。たった十六年という少ない時間であったが、それでも大きな変化であることに変わりはない。

『目的が動機によって作られなければいけないのと同じで、行動は、目的の為に存在しなければ意味が無い』

 それ以上聞きたくないのか、それとも聞く必要がなくなったからか、藍は受話器を耳から放した。

『よく考えろ。お前のためを思って、こんな事を言ってるんだから。でなけりゃわざわざ電話までしないさ』

 受話器を戻す時、そんな有体なセリフが聞こえた気がした。


    # THE THRID PERSON


 せっかくの臨時休業だ。こんなにたくさん時間があるなら走らなきゃ損だなと藍は思いついた。時計の針は、午前十時を回ろうとしている。

 いつも通りにランニングウェアに着替えて外に出ようとした。ふと、玄関を出そうなところで足が止まる。

 一旦靴を脱いで、自分の部屋に戻る。机の引き出しから携帯音楽プレイヤーとイヤホンを取り出してポケットに乱暴に入れると、再び玄関に舞い戻る。


 主婦や老人で賑わう商店街をそれて、タンクローリーのような大型車が行きかう四本車線に沿うように、藍は走り続ける。何故なら、見続ける『道』は延々と真っ直ぐに続いていたからだ。

 走っている時は、ただ走ってさえすればいい。

 今まではそう思っていた。だが今は違っている。何故なら、その走ることそのものについて考えさせられているのだから。

『走る』ことがいけないこととは言われていない。

 だが、それだけに使っているのは彷徨っているのと同じだと言われた。

 そのことだけに使うのがいけないと言われた。

 だが藍は性格的に、どちらか白黒つけてしまいたい。授業中は居眠りばかりしているが、好きなこと、気になっていることに関しては、半端な事は嫌なのだ。

 すぅ、と見えている『道』がたまに薄くなってしまう時がある。その感覚がとても恐ろしい。まるで吊り橋を渡っていて、その先がなくなってしまうと感じる。焦燥、といえばいいのか、目をつぶって、思い切って飛び越して先に進むべきか、後ろに振り返って引き戻すべきか。

 だが藍は目をつぶれない。藍にとって目をつぶるという行為は、道そのものをなくしてしまうのと同じだからだ。そんな事はできない。視界を失ってもなお歩を進めるという行為は、藍にとっては自分から落ちることと同義だ。

 それでも、目を閉じてしまった。

 必然的に、足が止まった。曲がり角の無い四本車線に沿うようにある歩道なのだから直線に『道』があるのは分かりきっているのに、見えていないと辿れない。

 ふと、怖くなって、藍は思わず振り返る。

 後ろには、地平線の彼方まで車道が続いていた。

 砂漠の真ん中で、何の装備も無く置き去りにされたような。

 ロケットで月面に着いたが、肝心のロケットが不時着して壊れてしまったかのような。

 深い深い落とし穴に嵌ってしまったかのような。

 来れはしたけれど帰れない。

 ――どうしよう。

 誰にも訊けない。元々一人だったのだ。都合よく助太刀や道連れが現れたりはしない。でも現れるんじゃないかと妄想してしまう。それが希望的観測だと分っていても、その妄想を止められない。

 誰が来れば手っ取り早いだろうか? 母か、父か。いや、本来自宅にいるべき時に、こんな所まで走ってきていたのだ。つれて帰ってくれたとしても、後から叱られるのは目に見えている。それは避けたい。

 藤堂はどうか? 癪に障るが、しかし頼めば黙っていてくれそうだと最初は思ったが、あの男波乱が『走る』事に関しては否定的だ。むしろ両親に連絡して、自分が『走る』のを止めるように仕向けるのではとすら思えてしまう。

 ではあの女性教師。ダメだ。よく思い出せたなと藍は自分を褒めてみるが、気休めにしかならない。面識が無いし、何より今は学校だろう。何か用事が出来て車に乗ってこの辺りを通ってくる可能性など万に一つも無い。

 いや、しかし学校の先生は五十人以上いるじゃないかと思いつくが、それなら全員、自宅学習中である自分がここにいることを指導するだろうと全部却下。

 こういう時にだけ、友達が欲しいと思う自分はゲンキンなのだろうなと、藍は自虐する。

 遠くから、なにやらサイレンの音が聞ええる。

「……帰るか」

 何でこんな場所に着ていたのか、自分でも分らない。どのくらいは知っていたのかの見当もつかない。全く最悪な一日だと思って振り返ろうとした時、藍の横を物凄いスピードで白いワゴンが通り過ぎていった。

 それに縋りつくように、赤いサイレンを灯滅させたパトカーが追って行く。鼓膜に響く追い越したパトカーのサイレンの音は、ドップラー効果でおかしな変質を遂げていた。

『そこの車、止まりなさい』

 パトカーの中にいるであろう警官がスピーカーまで使っているスピード違反者を追いかけている光景だった。

「あっ」

 パトカーを見て阿呆みたいな声を出した直後、藍は駆け出した。

 迷子だと知らせても、やすやすと連れて帰ってくれるわけがない。むしろ反対、この時間帯に自分が街中にいたらおかしいと思って警察に補導でもされたらたまらない。自分の高校の情報は回っているだろうが、そうだったとしても今は本来、外に出ていていい時間帯ではない。

 走るときに邪魔はされない。だが『道』を見てない今は、補導されてもおかしく無いということに今頃気付いた。

 いつもなら、こんな事態は有り得ない。

 だって『道』を見ていれば、『道』をを辿って走ってる間は邪魔はされない。邪魔をされないように、よりスムーズに、何者にも侵されないよう走るために『道』を見ているのだから。

 補導もマズい。おせっかいな主婦や老人に見つかっても面倒くさい。

 逃げなくてはいけない。

 誰にも見つからないように、逃げ帰る。

 久しぶりに藍は、明確な目的を持って走り始めた。

 当然、その瞳に『道』を映し出すことなど、いつもの半分も出来ていない。

 だが確かに、視界に映っているのは、『走る』という動機ではなく、『誰にも見つからないように、逃げ帰る』という目的を成功させる『道』だった。


    # THE THRID PERSON


 それに気付いたのは、走り終わってからだった。

『走る』ために走るときにしか使わなかった目を使って『道』を見て、とにかくその道を辿って走り続けてた。

 誰にも見つからないように逃げ帰る、という明確な目的を持って、だ。

「……知らな……かった」

 昨日なのか、一昨日なのか、それとももっと前なのか。その時にも渡った歩道橋の上で息を切らしながら、心中を吐露した。

『走る』という目的以外でも、目は機能している。無論十分とは言わない。『走る』時よりも性能や精度は劣る。その証拠に、駅の近くでパトカーにすれ違いかけた。普通に景色を見ていなければ、今頃どうなっていたか分らない。

 予想などしていなかった。強いて予想していた結果というのなら、それは全く意味の無い結末、もしくは走っているうちに『走り』たいという衝動に駆られてしまうという二つだった。

 しかし、現実には、多少使えたのだ。

 衝動ではなく、目的のために。

 一瞬、顔の皮膚が引っ張られた気がした。

「えっ」

 反射的に顔面に触れるが、もう表情は元通りだった。

 誰かが引っ張ったのかと思うが、そんなわけは無いと自分で否定する。

 では誰が? どうして?

 言うまでも無い。

 藍自身が、笑ったから。それ以外に説明のしようが無い。

『走る』以外のために走る。

 目的を持って走る。

 しばらく忘れかけていた感覚を思い出し――。


 ――藍はその時初めて、空間以外に望郷した。


 望郷というものは、対象が変化していないことが、その意味が、過去と同じであるのが前提だ。

 ならば空間以外でもいい。そして、それについて人という短絡的な答えしか出していなかった自分に嫌気が差した。

 それと同時に、その答えを出した今の自分に微笑む。

 昼の一時を回っていた。藍は、あの時の虚無的感覚から、もう既に午後三時か四時でも何ら不思議には思っていなかったから、この遅すぎる時間の進み具合には、流石に呆気に取られた。

 遅すぎる。私の方が、まだ早い。

 相対性理論に基づけば、光よりも早いものは無いというのに、そんな感想を抱いた。

 それが出来るようになる頃には、私は時間旅行ができているのかな、とか、その時の走る目的は、『時間を越える』という目的なのかなと、下らないことを想像する。

「ああ、本当に下らない」

 そう言いはするが、やっぱり藍は微笑んだままだった。


 ランニングウェアのままだなと思いつつも、特に着替える理由も無いので、家にたどり着いた藍は、自分の部屋に戻って財布だけ持つと、家を出る。

 いつもなら学校に行く途中にコンビニ弁当を買うのだが、今日は学校が無いのでわざわざ買いに行く。

 すると、

「よっ。国枝か。なんだその格好、また走ってたのか?」

 嫌な先客、藤堂東吾という部活の先輩がいた。

「ええ、まぁ」

 たまには弁当以外のものにしようと思い、藤堂のいる辺りにあるサンドイッチなどをしばし眺めてみたが、あんな水の上に浮きそうな食べ物で腹が太りそうには思えず、しかしやはりいつもの弁当とは趣向の違うものが食べたいと思い、少し視野を広げてみる。

「お好み焼き……?」

 関西風と広島風、どちらにしようか悩んでいると、

「違いとか分るか? 関西が混ぜこぜで、広島が生地と素材が分離してる」

「そのくらいは知ってます。ご飯も一緒にですよね?」

「大阪人になれとは誰も言って無い」

 無視してお好み焼きと、一緒に白ご飯が入ったパックを手に取る。パックにはご丁寧に『当店で作っています』というシールが貼られていた。、ドリンクコーナーでペットボトルのお茶を一本取ってそれをレジに持って行き、会計を済ませる。

「お前……お洒落とか興味ないのな、年頃なのに」

「いいじゃないですか、動きやすいですよコレ」

 当然藍はランニングウェアのことを言っているのだと思い込んでいた。

「いや、それもだけど財布の方」

 ああ、と藍はポケットに入れかけていた水色の物体を見る。

 ポケットに入りそうな大きさの、小学生が持っていそうなファスナー付属の正方形に近い形の財布だ。あまり買い物はしないが、それでも全くしないわけではなく一番頻度が多いのは喉が乾いてジュースを買う時だ。自分でも困っているのだが、高い方と安い方の両端からお金を使ってしまう癖がある。故に価値が高い札や逆に低い一円、五円玉が藍の財布に入っていることは少なく、逆に十円玉や百円玉がひしめき合っていて、子供っぽいデザインの財布は、見た目に反して重量感満載だ。今でも人に向かって投げれば訴えられかねない威力を発揮できるだろう。

「小学校の頃からずっと使ってるんですよ。無駄に丈夫だから破けたりもしないんでずっと使ってますけど」

「物は大切にする性質なんだな」

「特に思い入れがないってだけですよ」

 藍は事実を告げたつもりだったが、その顔は誤魔化しの余地無くはにかんでいた。


 コンビニを出てすぐにある公園のベンチを指差す。

「お前、どうせ家で一人寂しく食べるんだろ? そんなら俺とあっちで食おうぜ」

 何で自分が一人で家にいることが分るのだろうか? と藍は驚いたが、何のことは無い。一人でコンビニに昼食を買ってきているのだから、普通そう考えるだろう。自分だけコンビニで昼食を買って家族と団欒するというのは想像しがたいものがある。そういう家庭が合っても不思議とは思わないが、自分がとなるとどうしても想像できない。

 足の裏の感覚が硬いアスファルトから柔らかな芝生に切り替わり、公園の敷地に入ったことを察する。

「先輩もですか?」

「何が?」

「昼食、一人で?」

「ああ、まあな」

 ぶっきらぼうに答えながら、藤堂はサンドイッチの包装を破る。

「お前だってそうだろう。でも一人のヤツが二人集まれば、そりゃもう一人じゃないぜ」

「そうですね」

 ――アレ?

 自分が、微笑んでいる。

 俯いているから、見られてはいないかもしれない。だが自分が、他人の下らない冗談を聞いて、そんな顔をしている事に屈辱を感じだ。

 何も不都合は無いのに。

「お前、考えすぎなんだよ」

 声が掛かってきて藤堂に向き直ると、ペットボトルを片手に青空を眺めながら、サンドイッチにパクついていた。

「楽しいときは楽しくていいのさ」

「別に偽ってるつもりはありません」

「ないんだろうな。意識的には。でも無意識で『走る』ことと相対的に比べてるから、あんまり楽しく感じれなかったんだ。だから『走る』ようになってから、お前はあんまり感情表現が苦手になったんじゃないか? だから人と付き合うのも苦手なんだろう?」

「感情表現と人間関係は違うものでしょう」

 違うけど関係はあるね、と言いながら、一つ目のサンドイッチを食べ終わった藤堂は、さっきから持っていたペットボトルのフタを開ける。プシュ、と炭酸飲料特有の個気味のいい音がする。

「普遍的に見ればさ、誰だって愛想のいい人間と付き合いたいものさ。無愛想なヤツと付き合いたいなんてヤツはいないよ」

「愛想の悪い人間がいいという珍しい人もいますが」

 嫌味を織り交ぜ返答する。

「別に俺は愛想の悪いお前みたいなヤツいいとは一言も言って無い。だがまぁ、実際に付き合ってんだから説得力が無いか。訂正するよ。普遍的じゃなくて一般的だ。俺は一般的じゃないってことで」

 藍は弁当を食べ終わり、ゴミをレジ袋に入れて口をしばる。

「人は自分にとって都合のいい人間としか付き合いたくない。だから当然、結果としては自分にとって都合のいい人間で自分の人間関係を固める。だから最初っから接しようと思わない人間とは人間関係を構築できない。当然だな。電話番号を知らない人間に電話は掛けられない」

 話が長い、と思いながら、さっきまでいたコンビニに視線を向ける。そろそろゴミを捨てに行きたい。

 藍が黙って立つと、藤堂も後を追ってきた。

「お前、最近『走って』ないみたいだな。格好は今からでも走れそうだけど」

「だからなんで分るんですか?」

 走っていたが、『走って』いたわけではない。しかもさっきは目的を持って走っていた。藤堂が言っているのがそういうニュアンスではない事くらいは、他人にあまり関心のない藍でも理解できる。

「さっき言ったろ? お前は『走る』ことと物事を相対的に比べすぎる傾向がある。だが逆を言えば、『走る』こととあんまり接していなければ、接する時間が減れば、『走る』という指標の実感は減る。端的に言えばお前の脳内で『走る』と言う行為が風化していくと考えればいい。だから本来人が感じるように、普通に物事を楽しめるようになる。おまえ自身気付いているかどうか知らないが、だから今日は表情が結構豊かだ」

 本来。

 普通。

 言いたいなら言えばいい。だがそこに、それらの単語が使われている事に、自分が普通ではない、本来の形では無いという言い方に、藍は無性に腹が立って、怒りに任せてゴミ箱にゴミをねじ込むように突っ込んだ。

「本来人が感じるようにってなんですか? もともとの私をあなたは知ってるんですか?普通に物事を楽しむって言うのは、『走る』ことと相対的に比べる事じゃないんですか? ええ、あなたたちにとってはそうかもしれませんけど、私にとってはそういう事なんですよ。モノを楽しむって言うのは」

「違うよ。お前が『走る』ことに感じてる感想は絶対的なものだろう。目的を持ってたとしても何かと比べているんなら、趣味で走ってるほうがまだマシだ。なのに他の事に関しては『走る』ことと比べる。おかしいだろ。もともと物事を楽しむってのは絶対的なことなんだよ。他と比較するのが前提じゃない」

 おかしくない、と心の中で突っぱねる。

「自分の趣味を指標として、他のことを見る。そういう人がいてもいいでしょう?」

「そんなつまらん人間がいるとは思えんがな。何でもかんでも自分の好きなものと比べてるだけじゃ、それの本質は見えてこない。それにな、自分の中で物事を指標としていると、それの価値が次第に指標以外には無くなる。それじゃ本末転倒だ。それにな、そういう風に見ていいことと、見てはいけないことがある。お前の場合は、楽しむこと意外でも『走る』という行為と比べてる節があるから忠告してるんだ。自分達の正義と他人の正義とかな。そういう見方をするから、悪という本来存在しないモノが生まれて、戦争になる。人間って生き物は知能が高いクセにな、自分に都合の悪いものはな、『悪』っていう手っ取り早くて生理的嫌悪感を生み出す言い方をする。酷い言い方だが、今回の殺人事件だって見方によってはおかしくもなんとも無い。道徳や社会という都合に応じて悪とか罪とかって言い方をするだけだ。自然界では極々普通に起こってる現象、生命の奪い合い、弱肉強食による食物連鎖。ま、死体をくってはないけどな」

「身もフタも無いですね。それが正しいかどうかとか、先輩は考えてものを言ってるんですか?」

「お前が言えたことか。それと、社会という場にいる以上、人殺しはいけない。サッカーをするのに手を使っちゃいけないのと同じだ。束縛の無い存在は無い。全く束縛が無ければ、それは存在しないのと同じだ。サッカーだってストライキングもファウルチャージもなければただの殴り合いだ」

 ボクシングの方が観てて万倍楽しい、と藤堂は高らかに笑う。別に笑うところではないだろうと藍は不機嫌な顔をする。

「話がズレたな。ようは、お前は『走る』ことによって歪んでるってっことなのさ。直せとは言わない。言うつもりも無い。だがな、直した方がいいとは言わせてもらうぞ」

「どうして?」

「部活の先輩として、そして何より元同類として」

 えっ、と思わず藤堂を見るが、既に藤堂は踵を返していた。

「ま、『走る』のを悪いとはいわないけど、程ほどにな」

 結局話を誤魔化した。藍はそう感じつつも、藤堂が自分を気遣ってくれているのだと察した。

 思いやり、というのだろうか?

 自分にも、そんなものが身についているのかどうか不安になる。そしてすぐに、また他人と接することについて考えてると、半ば自動的に自分で自分を嫌悪する。


 どこまでも、延々と。藍は見えなくなるまで、その背中を見続けながら、藍はそんな事ばかりを考えていた。


 そうやって悩む事こそが、人にとっての成長の過程であるとも知らぬまま。

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