さあ始まりますよ
月のない闇夜の晩。
真っ黒な闇に紛れて道を歩く人物がいた。
彼…いや、彼女かもしれないその人物の手には、鍵が握られていた。
キーホルダーも何もついていない、作ったばかりかのような鍵。
あるアパートの部屋の扉の前でその人物はピタリと足を止める。
手に持っていた鍵を鍵穴に刺し、ゆっくりと回すと…
小さな音を立て、扉は開いた。
表札に書いてある名前は……その人物のものではなかった。
つまり、他人の家に忍び込んでいるのである。
家の中に入ると、その人物は手に持っていた鍵を投げ捨てた。
そしてポケットをまさぐり、別のものに持ち替えた。
それは、手術などで使われるメスであった。
その人物は巷で噂になっている殺人鬼……通称「リストカッター」であった。
メスを片手にリストカッターは家の奥に進む。
この家はその人物のものではなかったが、構造をよく知っているかのように暗闇の中を器用に進んでいく。
やがて、寝室に到着した。
布団にくるまって誰かが寝ているようだった。
「薬は効いていますか?」
布団に話しかけたが返事はない。
「効いているようですね」
リストカッターは、メスを強く握った。
柄の部分を握っているにも関わらず血が流れてきた。
「言っておきますが金縛りではないですよ?意味が分かりますよね?」
やはり返事はなかった。
「簡単には殺さない……彼女が味わった苦しみを少しでも分かっていただかないと。この時のために殺さずに人をバラバラにする方法を勉強してきました。意識だけを残して動けなくする薬もです。そして、実戦も」
リストカッターは大きく深呼吸して続けた。
「全て!この時のためです!今までの事件も犠牲者も全て!言っている事分かりますよね?全部お前のせいだって言ってんだよ!」
徐々に声は大きくなっていった。
しかし、近隣の住民に気付かれる事はない。
このアパートには布団の住人以外いなかったのだ。
まるで人の目を逃れるかのように。
「…前置きが長くなりましたね。始めましょう。あの世の彼女を待たせてはいけない。」
そう言って布団をはいだ。
「…なっ!?」
リストカッターは驚き、声を失った。
布団の中にいたのはお目当ての人物ではなく…リストカッターを追っていた探偵、遠藤 新作であった。
新作はゆっくりと立ち上がり話し始めた。
「いやー、動けなくなったこの家のおっさんを助けたまでは良かったけど……布団の魔力に負けてつい、寝ちまったよ」
ニヤニヤ笑う新作を見ながらリストカッターはメスを地面に落とした。
そして新作はネクタイを直しながら言った。
「事件は終わりだ、リストカッター。いや、今こそ本名で呼ぼう」
「打ち切り」
作 BAU-R
「ふぅ」
その漫画が載っていた雑誌を閉じた。
ギャルOh!とミステリー漫画が載っているとは思えないような雑誌名だった。
最も、今読んでいた漫画……「探偵・遠藤新作シリーズ」以外の漫画も雑誌名を無視したかのような物ばかりであった。
「迷走していたんだよなぁ」
自分の身内のように溜息をついている人物の容姿は整った顔立ちにゴスロリ服、ロングストレートといった「美少女」の3文字がふさわしいいでたちであった。
生物学的には「男」なのであるが。
彼の名前は「峰 富士男」。
しかし、本人はこの名前を嫌っており「峰 富士子」と名乗っている。
高校を卒業したのをきっかけに「好きな事をやる。」をモットーにこのような姿をしている。
そして、「好きな事をやる。」をきっかけに彼が始めた仕事は。
「ちょっと、富士子ちゃん。休憩が長いぞ?」
後ろからポコンと富士子の頭をはたいたのは「寿賀 亜理抄」。
富士子とは対照的にボサボサの短い髪とジャージ姿。磨けば光りそうな美人なのだが、本人にはその気はなさそうだ。
また、富士子と違い生物学的にも「女」であった。
富士子は可愛く頬を膨らまして言った。
「先生ぇ~。今月は余裕があるんだからいいじゃないですかぁ?」
先生と呼ばれた亜理抄の仕事は漫画家であった。
つまり、富士子が選んだ職業も漫画家……まだ、実績もないただのアシスタントではあるが。
「それよりも、ほらこれ!」
富士子は先ほど読んでいた「探偵・遠藤新作シリーズ」のページを開き亜理抄に見せた。
作者名は「寿賀 瑠々(るる)」になっている。
亜理抄の漫画を描く時のPNであった。
「この号でギャルOh!は休刊になっちゃったわけで……結局、犯人は誰だったんですぅ?ネームぐらいは描いていたんでしょ?」
富士子の問いに亜理抄は寂しく笑って答えた。
「誰だと思う?」
富士子は腕組みして考えた。
「覆面つけた男はあからさま過ぎてミスリードぽいし……新作に泣きついてきた綾とか?でも、そのネタは前回の話と被る……って質問に質問で返さないでくださいよ!」
亜理抄はいつの間にかコーヒーを淹れており、淹れたコーヒーを富士子に渡して言った。
「実はよく覚えてないの。いや、考える前に打ち切りだったのかも……何しろ急だったからね。よりにもよって〆切直前に描き上げた時に休刊の話をされたのよ」
富士子はコーヒーを飲みながら言った。
「そういえば当時、買ってみてから休刊を知ってびっくりしましたっけ。雑誌が薄くなって言って嫌な予感はしていましたけど……」
「さあさ!過去の栄光より今の仕事!それを飲んだら続きをお願いね!」
今、描いているという漫画はSFコメディであった。
「パンダニャン」という宇宙から来た生物が巻き起こす珍騒動……
亜理抄は「探偵・遠藤新作シリーズ」が休刊で打ち切られるまでは、ミステリーやサスペンス漫画ばかりを描いていたが、それ以降はコメディや恋愛モノばかりを描く作風に変更した。
富士子は作風を変えてからアシスタントになったので、詳しい経由は知らない。
最も、コメディにしてからは万人受けがよくなった。
今描いている「パンダニャン」はアニメ化までされ、漫画家「寿賀 瑠々」を人気作家にまでしたのであった。
先ほど、亜理抄は「過去の栄光」と言ったが、ミステリー漫画家だった頃はマニア受けしかしていなかった。
(僕はその頃の方が好きですけどね)
マニアであった、富士子は心の中で思った。
女性が人形のように浴槽の側に横たわっていた。
微動だにしなかったが、ちゃんと生きた人間である。
動かない、というより動けないと言った印象が強かった。
女性の前に誰かが現れる。
その手には手術で使われるメスがあった。
「…リストカッターって知っていますか?昔あった漫画に出てくる殺人鬼の名前です」
横たわる女性は答えなかった。
「マイナーな漫画だから知りませんよね……まぁ、自己紹介だと思ってください」
リストカッターはごそごそとメスを持っていない方の手でポケットをまさぐった。
中からパンダニャンのぬいぐるみが出てきた。
リストカッターはパンダニャンに話しかけるように言った。
「さあ始まりますよ、寿賀 亜理抄。打ち切られた殺人鬼の復讐劇が!止める事は出来ますか?貴女が止めるのですよ、遠藤新作はいないのですから。できないと、最後に犠牲になるのは……」
「ちょっと、駄目駄目!」
よれよれのコートにふけだらけの頭の浮浪者のような男が警察官に引き止められていた。
男が入ろうとしたアパートの部屋はまるで刑事ドラマのように「警視庁」と書かれたテープで囲まれていた。
何か事件でもあったのだろうか?
男はため息をついて胸ポケットに手を入れた。
「あれ?」
男の顔から余裕が消える。
今度は下半身のポケットに手を入れる。
「あれあれ?」
今度は止めていた警察官がため息をつく。
「何をやってるの?ほら帰って帰って!」
「おい、何を騒いでいる?」
部屋の奥から中年の男が出てきた。
パリっと着こなしたスーツに丸刈りの頭。
いかにも「刑事」という風貌であった。
「あっ、津川警部」
津川警部と呼ばれたその中年男性は浮浪者のような男を見て険しい表情で言った。
「遠藤警部補。また遅刻ですか。何をしているんです?早く入らないのですか」
「い、いや入りたいんですけど、この人が通してくれませんので……」
「警察手帳を見せればいいじゃないですか」
「それがえぇと、見せたいんですけどね」
津川警部はため息をついて言った。
「今年に入ってから何回目ですか?おい、この人はこう見えてもキャリア組の敏腕警部補どのだ。お通しして差し上げなさい」
部下の警察官は道をあける。
遠藤はその警察官の肩をポンっと叩いて偉そうに言った。
「はいはい、ご苦労様。」
そのいずれ自分の上司になるであろう遠藤警部補の下の者への態度を見て、津川警部は眉を一瞬吊り上げた。
そんな津川の様子に気付かずに遠藤警部補は親しげに津川警部に聞いた。
「それでどのような状況で?事故ですか?コロシですか?」
「それは部下の亀刑事にでも聞いといてください。自分は調べ物がありますので」
そう言って津川警部は奥に姿を消した。
どその露骨な態度に周囲に緊張感が漂ったが、当の本人の遠藤警部補は気にした様子もなく、飄々と亀刑事に近寄って言った。
「亀ちゃーん。どんな事件か教えてよー」
ちゃん付けで呼ばれた亀刑事は50歳を超える老齢の刑事であった。
津川よりも年上であったが、出世には縁がなかったようである。
しかし、仕事はきっちりこなすところから津川警部や同僚の刑事からの信頼は暑い。
そんな亀刑事を「亀ちゃん」呼ばわりしているところも遠藤警部補が津川警部に嫌われている要因の一つなのかもしれない。
しかし、亀刑事は嫌な顔をせずに答えた。
「被害者の名前は初音 未来30歳です。この部屋の住人で、妹と二人暮らしです。現在はフリーターをやっているようです。死因は手首を切った事による失血死です」
そう話しながら死体の発見現場に案内する。
どうやら浴室のようだ。
「手首をかー。つまり自殺?」
その遠藤警部の言葉に亀刑事は首を振って言った。
「すみません、言葉が悪かったですね。手首を切ったというのは、つまり」
浴室の扉を開けた。
まず目に入ってきたのは転がった人間の手首であった。
「ずいぶん、豪快な自殺したもんだ。ロケットパンチってか?」
不謹慎な冗談を言いながら浴室を進んでいく。
浴槽には左の手首を切り落とされ真っ赤な湯船に浸かっている女性の死体があった。
その表情は無表情であった。
「縛られているわけでもなし……そしてこの顔である。殺されるのであればもっと恐怖に顔をゆがめそうなもんだけど。本当に自殺?」
浴槽を調べている津川警部が近くにいたが警部は聞こえないふりをして答えなかった。
代わりに亀刑事が答えた。
「触れたところ、筋肉が妙に萎縮していたので何か薬物を使ったのかと思われます。まぁ、詳しいことは解剖待ちでしょうな」
遠藤警部補はふけだらけの頭をガリガリと掻いた。
それまで無反応だった津川警部が露骨に嫌な顔をして言った。
「ちょっと、現場を荒らすのは……」
「あっパンダニャンだ。」
先ほどとは逆に今度は遠藤警部補が津川警部を無視して(無意識であろうが)言った。
浴槽の横に赤いパンダニャンが置いてあった。
「ほう、遠藤警部補はそのようなご趣味をお持ちで?」
津川警部の嫌味にも気付かずに遠藤警部補は言った。
「こういうのを知っていると女性受けがいいんですよ。特に中高生に。でも、赤いパンダニャンなんてはじめて見たな。パチモンか?」
「それはおそらくそこの死体と一緒にそこに浸かっていたから……」
そう言って亀刑事湯船の方を指差した。
「血の色が染み込んだのか……まぁ、原作のパンダニャンも返り血をよく浴びていたからなぁ……」
「子供向けの漫画のキャラじゃなかったのかよ……」
津川警部はあきれて言った。
遠藤警部補は赤いパンダニャンを拾い上げてマジマジと見つめた。
「ん?」
よく見るとパンダニャンの左手が切り取られていた。
浴槽を見渡す。
転がっているのは殺された本人の左手首だけであった。
「パンダニャンの手首はどこにいったんでしょうねー。」