書架の旋律
書架の旋律
ある秋の午後のことであった。
私は診療を終えると、ベーカー街へ向かう途中、馴染みの書店へ立ち寄った。
その店は表通りから少し外れた場所にあり、決して大きくはなかったが、その蔵書の質には定評があった。古い旅行記や歴史書、時には稀覯本まで並ぶため、私は暇を見つけては足を運んでいたのである。
店内へ足を踏み入れると、古書特有の革と紙の匂いが鼻をくすぐった。
天井近くまで伸びる書棚には隙間なく本が並び、小さな脚立が数台置かれている。
会計台の傍らには古いギターが立て掛けられていた。
私はその楽器をよく覚えている。
店主は客足が途絶えると、ときおりそれを手に取り、簡単な曲を爪弾いていたからだ。
腕前は決して大したものではなかったが、その穏やかな旋律は妙にこの書店の雰囲気によく似合っていた。
しかし、その日ギターは壁際に置かれたまま、長い間触れられていないように見えた。
私はそこで初めて、いつもの店主の姿がないことに気付いた。
代わりに会計台に立っていたのは二十代半ばほどの青年であった。
青年は少し寂しげに微笑んだ。
「父をご存じでしたか、先生」
「もちろんだとも。もう十年以上の付き合いになる。だが近頃姿を見かけなくてね。体でも悪くしたのかと思っていたのだ」
青年の表情が曇った。
「父は先月亡くなりました」
「それは……失礼した」
私は深い後悔とともに帽子を取った。
老店主は気難しいところもあったが、本への愛情に溢れた人物であった。彼の穏やかな声を二度と聞けないと思うと、妙に胸が塞がれた。
「今は私が店を継いでいます」
「なるほど」
私は店内を見回した。
書架も陳列も以前と変わらない。しかし、どことなく店全体が静かになったような気がした。
数冊の本を購入すると、私は店を後にした。
その夜、ベーカー街でその話をすると、ホームズはヴァイオリンの弓を止めた。
「ほう。ペンブローク氏が亡くなったのか」
「君も知っていたのか?」
「実に知識欲の旺盛な男だった。二,三度ほど話をしたが、古書の話になると止まらなかったよ。」
「息子が跡を継いでいたよ」
「そうか」
ホームズは再び弓を動かしかけたが、その時、階下で扉の開く音が聞こえた。
続いてハドソン夫人が客の来訪を告げた。
部屋へ入ってきたのは、昼間私が書店で会った青年その人だった。
彼はひどく困惑した様子で一枚の紙を握りしめていた。
「突然お伺いして申し訳ありません。ですが、どうしてもホームズ氏のお力をお借りしたいのです」
「父は亡くなる前に、この紙を私に託しました。そして『もし意味が分からなければ、ベーカー街のホームズ氏を訪ねなさい』とだけ申したのです。」
そう言って青年は、一枚の紙片を差し出した。
そこには意味不明な記号が並んでいた。
「私には何が書いてあるのかさっぱり分かりません」
「君のお父上は音楽を嗜んでいたね?」
ホームズが尋ねた。
「ええ。趣味の範囲ですが、ギターをよく弾いていました」
青年は少し困ったように笑った。
「私は全く興味を持ちませんでしたが」
「ほう?」
「本の方が好きだったのです。父にはいつも呆れられていました。私は暇さえあれば本を読んでいましたから」
青年は懐かしむように目を伏せた。
「父はよくこう言っていました。『本は素晴らしい。だが本ばかりでは世界が狭くなる』と」
「なるほど」
「音楽でも絵画でも芝居でもいい、一つのものだけに閉じこもるな、と。もっとも、私は聞き流していましたが」
彼は紙片を見つめた。
「今になって思えば、この紙も父の最後の説教なのかもしれません。」
「いや、ペンブローク君。それほど単純な話ではあるまい。」
ホームズはしばらく紙片を見つめたまま黙していた。
「なるほど。」
「何かお分かりですか?」
「少なくとも暗号ではない。」
「では?」
「これはコード進行だよ。」
「美しい。」
「え?」
「実に美しい進行だ。君のお父上は最後まで音楽家だったらしい。」
「実際に聞いてみたまえ。」そう言うとホームズはヴァイオリンを取り上げ、記されている和音をなぞるように弾いてみせた。
やがて穏やかな旋律が部屋に満ちた。
Gsus4
Cmaj7
Am7
D7
Em9
Bsus4
Gmaj7
「しかし、このコード進行が何を意味するかは情報不足だな。他に何かお父上は言っていなかったかい?」
ホームズはそう言うと、再び紙片へ目を落とした。
「他に、ですか……」
ペンブローク青年はしばらく考え込んだ。
「父は最期まで店のことを気にかけていました。」
「ふむ。」
「それから……ああ、そういえば奇妙なことを言っていました。『答えはずっとお前の目の前にある』と。」
ホームズの目がわずかに細くなった。
「他には?」
「『本ばかり読んでいるから見えないのだ』とも。」
青年は苦笑した。
「父らしい皮肉です。私は子供の頃から本の虫でしたから。」
「なるほど。」
「それと、亡くなる数日前に店の本棚を大掛かりに動かしていました。模様替えだろうと思っていたのですが……。」
「本棚を?」
「ええ。一人でずいぶん苦労していたようです。」
ホームズはヴァイオリンを静かに卓上へ置いた。
「それは実に興味深いな。」
「何か分かったのですか?」
「いや、まだだ。しかし君のお父上は、この紙の答えを店の中に残したらしい。」
ホームズは微笑した。
「明日、書店を見せてもらえないだろうか?」
「店ですか?」
「ああ。私はね、ペンブローク君。君のお父上が残したかったものは、この紙の上にはないと思っている。」
翌日の午後、我々は書店を訪れた。
昨日と同じく店内には古書の香りが漂っていたが、昼の光の下で改めて眺めると、その蔵書量はなかなかのものであった。
天井近くまで届く書架には本が隙間なく並び、通路は大人が二人並んで歩くのがやっとという幅しかない。
ホームズは店に入るなり、挨拶もそこそこに店内の観察を始めた。
書棚の配置を見ては立ち止まり、背表紙を眺めては別の棚へ移る。
時折、巻尺を取り出しては何事かを測っている。
その様子は、まるで事件現場を調べる時と少しも変わらなかった。
「何か分かったのかね?」
私が尋ねると、ホームズは棚板の一つを軽く指で叩いた。
「まだ推測の域を出ないよ、ワトソン。」
そう言いながら彼は店の奥へ進んだ。
やがて会計台の脇に置かれたギターの前で立ち止まる。
「これがお父上のギターかな?」
「ええ。父の愛用品でした。」
「なるほど。」
ホームズは弦を一本弾いた。
静かな音が店内へ響く。
「よく手入れされている。亡くなる直前まで使っていたらしい。」
そう言うと、ホームズは再び書架へ目を向けた。
しばらくして、彼はふいに私を呼んだ。
「ワトソン、こちらへ。」
私は彼の立つ場所へ歩み寄った。
ホームズは書架の側面を指差した。
そこには小さな真鍮の銘板が取り付けられていた。
A
とだけ刻まれている。
「ただの棚番号ではないのかね?」
「そう考えていたのだが、調べてみると違った。」
ホームズは一冊の本を取り上げた。
「これはアンソニー・ホープ。」
続いて別の本を抜き取る。
「こちらはアーノルド・ベネット。」
さらにもう一冊。
「そしてアレクサンドル・デュマ。」
「なるほど!」
私は思わず声を上げた。
「この棚にはAで始まる作家の本が集められているのか。」
「その通り。」
ホームズは満足そうに頷いた。
「Bの棚にはBで始まる作家、Cの棚にはCで始まる作家が並んでいる。」
「つまりコードの頭文字は……」
「書架を指しているのだよ。」
ホームズは紙片を広げた。
Gsus4
Cmaj7
Am7
D7
Em9
Bsus4
Gmaj7
彼は店内を見回した。
「すると、この暗号は……」
「本棚の中の道順なのだよ。」
ホームズはゆっくりとGの書架へ歩み寄った。
「まずは Gsus4。」
彼は棚を眺めながら言った。
「Gの棚、右から四番目。」
そう言って一冊の本を引き抜く。
その本の見返しには鉛筆で小さく"C"の文字が記されていた。
「次はCmaj7。」
「数字は理解できます。しかし、この maj と m は何なのです?」
ペンブローク青年が尋ねた。
ホームズは紙片を指で示した。
「そこが君のお父上らしいところだ。」
彼は G の書架へ歩み寄った。
「音楽ではメジャー・コードは明るく、開放的な響きを持つ。」
ホームズは右手を伸ばした。
「だから右。」
続いて左手を挙げる。
「マイナー・コードはどちらかといえば陰りを帯びた響きだ。」
「それで左なのですか?」
「おそらくね。」
ホームズは微笑した。
「厳密な音楽理論ではない。だが音楽好きの人間なら誰しも持つ感覚だよ。」
彼は書架の一冊へ指を向けた。
「例えば Cmaj7 なら C の書架の七番目を基準に右。」
「Am7 なら A の書架の七番目を基準に左。」
「そして D7 のように記号が付かないものは?」
「中央だ。」
実に曖昧な規則だが、その曖昧さこそペンブローク氏らしい。彼は数学者ではなく音楽家だったのだからね。」
ホームズは今度はCの書架へ向かった。
「右から七番目。」
本を抜く。
今度は"A"の文字。
「Am7。」
ホームズは手際よくAの棚へ移動した。
「左から七番目。」
「そのようだね、ワトソン。」
ホームズの声にはわずかな愉悦が滲んでいた。
「実に本屋兼音楽家らしい暗号だ。」
彼は続いてD7、Em9、Bsus4と順に辿っていった。
そして最後の指示である Gmaj7 に到達すると、その動きを止めた。
「これだ。」
そこにあったのは、ごくありふれた一冊であった。
青年は首を傾げた。
「父はこの本を何度も読み返していましたが、特に珍しい本ではありません。」
「だからこそ良かったのだろう。」
ホームズは微笑した。
「最も価値あるものを隠す時、人は豪華な箱を用意したがる。しかし本屋は違う。」
そう言うと、彼はその本をゆっくりと引き抜いた。
その瞬間。
カチリ。
微かな金属音が店内に響いた。
「聞こえたかね?」
ホームズは本棚の側面へ手をかけた。
軽く押す。
すると書架全体が滑るように横へ動いた。
「まさか……」
ペンブローク青年は息を呑んだ。
書架の背後には、小さな収納スペースが現れていた。
その中には三つの品が置かれていた。
一冊の本。
一通の手紙。
そして、丁寧に折り畳まれた数枚の楽譜である。
青年は息を呑んだ。
まず本を手に取る。
題名を見た瞬間、その顔に驚きが広がった。
「まさか……」
それは彼が少年の頃から憧れていた稀覯本であった。
何度も店の棚へ足を運び、その背表紙を眺めては諦めていた一冊である。
続いて青年は封書を開いた。
” 君がこの本を見つけたなら、私の思惑は成功したことになる。
この本を初めて店に仕入れた日のことを、私は今でも覚えている。
その時の君は、一時間以上も飽かず眺めていた。
購入を諦めたあとも、何度も店へ足を運んでは、その背表紙を見つめていたね。
だから私は決めたのだ。
いつかこれを君に渡そうと。
だが、その前に一つだけ願いがあった。
君は本を愛している。
それは父として誇らしい。
しかし世の中には、本と同じように人の心を豊かにするものがある。
音楽だ。
だから私は最後に、ほんの少しだけ音楽への扉を用意してみた。
もしホームズ氏の助けを借りていたとしても、それで構わない。
君がこの本に辿り着いたなら、私の願いは十分叶っている。
本を読みなさい。
そして時には音楽にも耳を傾けなさい。
それが私からの最後の贈り物だ。
父より ”
青年は手紙を読み終えると、しばらく黙したままだった。
やがて視線を落とし、最後に残った楽譜を手に取る。
「これは……父の字です。」
譜面には見覚えのある旋律が書かれていた。
ホームズが昨夜、ベーカー街でヴァイオリンを弾いたあの旋律である。
青年の脳裏に、その時の言葉がよみがえった。
「実に美しい進行だ。君のお父上は最後まで音楽家だったらしい。」
その時は分からなかった。
ただの社交辞令だと思っていた。
しかし今は違う。
青年は譜面の上を指でなぞった。
「私は勘違いしていたのですね……。」
「ほう?」
ホームズが静かに応じた。
「父は音楽の知識を覚えろと言いたかったのではない。」
青年はギターへ目を向けた。
「本を読んで知識を得ることだけが、何かを知ることではない。」
楽譜を見つめるその目は、先ほどまでとは少し違っていた。
「こんな旋律を美しいと感じること。」
「心を動かされること。」
「それもまた、世界を知るということだったのですね。」
ホームズは満足そうに頷いた。
「その答えなら、お父上も喜ぶだろう。」
我々がその書店を訪れたのは、それから数週間後のことであった。
店内は以前と変わらず本で埋め尽くされていたが、不思議なことに以前よりもどこか温かみを増したように感じられた。
青年は会計台から我々に気付くと笑顔で迎えてくれた。
「ホームズさん、ワトソン先生」
その顔には、初めて会った日の陰鬱な表情はもはやなかった。
私は何気なく店内を見回した。
すると、かつて亡き店主が愛用していたギターが椅子の脇に立て掛けられているのが目に入った。
「弾き始めたのかね?」
私が尋ねると、青年は少し照れ臭そうに笑った。
「ええ。まだ父ほども弾けませんが」
「それは違うな」
ホームズが即座に言った。
「君のお父上も、決して上手ではなかったよ」
青年は思わず吹き出した。
その後、我々は新しく仕入れられた本を眺めながらしばし時を過ごした。
帰り際、店の奥から拙いギターの音色が聞こえてきた。
音を外しながらも、それはどこか心地よい旋律であった。
老書店主が愛した本と音楽は、確かに息子へ受け継がれたのである。
その日より、その書店は、ときおり大して上手くはないが、優しい旋律の響く書店になったのである。




