第九話 英雄、逮捕される
評議会の使者、デキムスが残していった、静かな、しかし、確かな恐怖の余韻。
それは、アイリスの心に、これまでにないほどの焦燥感を、刻みつけていた。
もはや、これは、ただのポテチをめぐるお使いではない。
自分たちは、この国にとって、明確な「脅威」と見なされている。
そして、その脅威を分析する、中央管理AIという、恐ろしく論理的な「何か」が、自分たちの全てを見ている。
アイリスは、軟禁状態に置かれた宿舎の、白い部屋の中を、落ち着きなく歩き回っていた。
「…いいですか、皆さん。分かりましたね? 私たちは、もう、ただの旅行者ではありません。…アヴァロン評議会から、完全に、マークされているのです」
彼女は、まるで、戦の前の最後の作戦会議のように、分隊員たちに真剣な顔で語りかけた。
「これ以上、少しでも問題を起こせば、どうなるか分かりません。どうか、今日一日だけでいいですから、この部屋で静かにしていてください! いいですね!」
その、悲痛なまでの、訴え。
それに、仲間たちは、それぞれの、いつも通りの反応を返した。
「ノン! 軟禁生活とは、なんと非芸術的な! 僕の、インスピレーションが、死んでしまう!」
「ひひひ…。まあ、外に出られねえんじゃ、商売もできねえな。仕方ねえ、新しいイカサマでも考えるか」
「アイリス様ー、見てくださいー。この壁、真っ白で、大きいです! お絵描きしても、いいですか?」
ジーロスは絶望し、テオは悪巧みを始め、シルフィは新たな破壊活動の準備を始めている。
アイリスは、頭を抱えた。
だが、その中で、一人だけ。
激情のギルだけが、腕を組み、神妙な顔で、深く考え込んでいた。
彼は、昨日の、デキムスの尋問と、アイリスの、その後の深刻な表情を、誰よりも重く受け止めていたのだ。
(…俺の、せいだ…)
彼の、単純な脳が、罪悪感で、いっぱいになっていた。
(俺が、あの時、軽率に雄叫びを上げたから…。姉御に、あんな辛そうな顔をさせてしまったのだ…。戦士として、姉御の舎弟として、これ以上の失態はない…!)
彼は、決意した。
この、汚名を、返上しなければならない、と。
自らの、過ちを、自らの手で、清算しなければならない、と。
彼は、すっくと、立ち上がった。
「姉御」
その、あまりに真剣な声に、アイリスは顔を上げた。
「俺、行ってきやす」
「え…? 行くって、どこへ…?」
「決まっておりやす。俺に、『違反ポイント』とやらを記録した、あのロボット警備兵の元へ、です」
彼は、その巨大な拳を、固く握りしめた。
「男として、戦士として、自らの過ちは、自ら謝罪するのが、筋というものでありましょう! 俺は、彼らに、我が偽りなき誠意の心を、見せてまいります!」
「ま、待ちなさい、ギル!」
アイリスが、止める間もなかった。
彼は、その、あまりに純粋で、あまりに、見当違いな正義感を胸に、風のように部屋を飛び出していってしまった。
アイリスは、その、巨大な背中を見送りながら、最悪の予感に身を震わせた。
(…誠意の心…? …ギルの、誠意の示し方なんて、一つしかありません…!)
そう。
土下座だ。
それも、彼の、常識外れの筋力で行う、大地を砕くほどの、全力の。
◇
ギルは、街を、歩き回っていた。
目的は、ただ一つ。
昨日、自分に警告を与えた、あの、白い卵型のロボット警備兵を探し出すこと。
彼は、幸運にも(あるいは、不運にも)、大通りを巡回していた、一体のロボット警備兵を、発見した。
「いたでありますな!」
ギルは、その、ロボット警備兵の前に、立ちはだかった。
『…市民の方。何か、ご用件ですか。論理的に、簡潔に、お述べください』
無機質な、合成音声。
ギルは、その、機械の「目」を、まっすぐに見据えた。
そして、次の瞬間、彼は、その巨体を、地面に叩きつけた。
―――ドゴォォォォン!!!
轟音。
彼が、額を地面に擦り付けた、その一点を中心に、完璧に舗装されていたはずの灰色の石畳が、まるで、爆撃でも受けたかのように、蜘蛛の巣状に砕け散った。
「昨日は、まことに、申し訳ありませんでした! 我が、未熟さゆえの、暴挙! この通り、深く、お詫び申し上げるであります!」
彼の、魂からの、謝罪。
それは、彼の、偽りなき誠意の結晶だった。
だが、その誠意は、この、完璧な論理の国では、ただの破壊行為でしかなかった。
ロボット警備兵の、赤い警告ランプが、激しく点滅する。
『…警告。警告。公共物、及び、都市インフラに対する、意図的な、物理的破壊行為を、確認』
次の瞬間。
―――ウウウウウウウウウッ!
街全体に、これまでとは比較にならないほどの、けたたましい、非常警報が、鳴り響いた。
周囲の、白い壁から、建物の屋上から、地面の下から、おびただしい数の、ロボット警備兵が、一斉に、姿を現した。
その数は、もはや、数十体では、きかない。
百体を超える、白い機械の軍団が、ギル一人を、完璧な包囲網で取り囲んでいく。
「な、なんだ、貴様ら!? 俺は、ただ、謝罪を…!」
ギルの、戸惑いの声に、ロボット警備兵たちは、一切、耳を貸さなかった。
『アヴァロン刑法、第九条、公共物損壊罪。現行犯で、あなたを、拘束します』
百体の、機械の腕から、一斉に、電磁ネットが射出された。
それは、ギルの巨体を、完全に絡め取る。
「ぐ…! 離せ! 俺は、ただ…!」
ネットから、強力な麻痺電流が迸る。
元・魔王軍幹部の、常人離れした肉体をもってしても、その、完璧に計算された電圧には、抗うことができなかった。
「…あ…姉、御…」
ギルの意識が、遠のいていく。
その、一部始終を、宿舎の窓から、アイリスたちは、ただ呆然と見ていることしかできなかった。
「…ギルが…」
アイリスの、震える声。
ロボット警備兵たちは、意識を失った巨大な英雄を、まるで一つの荷物のように軽々と持ち上げると、どこかへと運んでいく。
その光景に、ジーロスが叫んだ。
「ノン! なんて、非人道的な! 彼の、あの、誠意に満ちた美しい土下座を、理解できないとでも言うのか!」
「ひひひ…。土下座で地面をかち割る奴が、どこにいるんだよ…」
テオが、乾いた笑いを、浮かべた。
「それより、大変なことになったぜ、隊長。…英雄様が、公共物損壊で、現行犯逮捕、だ。…こいつは、ただの罰金じゃ済まされねえぞ…」
テオの、その冷静な言葉が、アイリスを現実に引き戻した。
そうだ。
感傷に浸っている場合ではない。
事態は、もはや、ただの規定違反では済まされなくなったのだ。
仲間が、捕まった。
この、完璧な論理の国で、法を犯した者が、どうなるのか。
彼女は、想像するだけで、ぞっとした。
(神様…!)
彼女の脳内に、ノクトの、冷静な、しかし、どこか楽しげな声が、響いた。
『…なるほどな。あの筋肉馬鹿、ついに逮捕されたか。…面白い。実に、面白い』
(面白い、では、ありません! ギルが、連れていかれてしまいました!)
『分かっている。…ならば、次のクエストは決まったな』
ノクトの声は、まるで、新しいゲームの、イベントが始まったことを、喜ぶかのようだった。
『―――クエスト、『英雄、奪還』。…さて、と。あの、鉄壁の法務局とやらを、どうやって攻略したものかな…』
アイリスの、胃痛は、もはや、限界を超えていた。
彼女は、ただ、これから始まる、さらに面倒くさいであろう戦いの予感に、静かに絶望するしかなかった。