第五話 国家機密区画への侵入
首都アクシオンにおける混沌の三重奏――ギルの雄叫び、ジーロスの芸術テロ、そしてテオの詐欺的経済活動の開始――は、聖女アイリスの胃に、回復不能なダメージを与えていた。
分隊史上最も困難な隠密作戦は、開始からわずか数時間で、もはや隠密でもなければ作戦ですらない、ただの国際問題誘発ツアーへとその姿を変えつつあった。
「…いいですか。もう、二度と、言いませんからね」
中央商業区画へと続く、真っ白な歩道橋の上で、アイリスは、もはや聖女の慈愛など微塵も感じさせない、絶対零度の声で、仲間たちに最後通牒を突きつけていた。
「ギルは、喋らない。ジーロスは、魔法を使わない。テオは、金儲けを考えない。そして、シルフィは…」
彼女は、自らの服の裾を、赤子が親の指を握るように、ギュッと握りしめている、純粋なエルフの少女を見下ろした。
「…絶対に、私のそばから離れないこと。いいですね?」
「はい、アイリス様!」
シルフィは、元気よく返事をした。
その、一点の曇りもない瞳。
アイリスは、このパーティーにおける最大の不安要素が、実は、この最も無害に見える少女なのではないかと、本能的に感じ始めていた。
ギルたちの行動は、まだ予測ができる。
だが、シルフィの行動は、論理も、常識も、物理法則さえも、時として超越する。
この、完璧な論理で構築されたアクシオンという都市において、彼女の存在そのものが、あまりにも異質すぎた。
一行は、再び、息を殺して歩き始めた。
アクシオンの案内標識は、完璧だった。
宙に浮かぶ半透明のパネルには、誰にでも分かるように、単純化された絵記号と、簡潔な矢印だけで、目的地へのルートが示されている。
文字を読む必要さえない。
子供でも、外国人でも、決して道に迷うことはない、完璧なシステム。
その、はずだった。
「…まあ」
アイリスの裾を掴んで歩いていたシルフィが、ふと、空を見上げて、小さな声を上げた。
「アイリス様。あそこの白い鳥さん、なんだか道に迷っているようです。助けてあげないと」
彼女が指さしたのは、ビルの壁面を滑るように移動していく、白い箱型の清掃ドローンだった。
「シルフィ、あれは鳥ではありません。機械です」
「え? ですが、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり…。きっと、お家に帰れなくて、困っているのですよ」
清掃ドローンは、壁の汚れを感知し、プログラムに従って、効率的に動き回っているだけだ。
だが、シルフィの目には、それが、必死に助けを求める、哀れな小動物のように映っていた。
「私が、道案内をしてあげます!」
彼女は、そう言うと、アイリスが止める間もなく、その手を振りほどき、清掃ドローンを追いかけて、人混みの中へと駆け出してしまった。
「あ、待ちなさい、シルフィ!」
アイリスの悲鳴。
だが、シルフィの、エルフならではの俊敏な動きは、無機質な人波の中へと、あっという間に吸い込まれていく。
「姉御! 俺が、追います!」
ギルが、巨体を揺らして駆け出そうとする。
「馬鹿野郎! お前が走ったら、また警報が鳴るだろうが!」
テオが、その腕を掴んで、必死に止めた。
その、数秒の混沌。
それが、運命だった。
アイリスたちが、人波をかき分けて、シルフィが消えた方向へとたどり着いた時、彼女の姿は、もうどこにもなかった。
完璧な案内標識と、完璧な監視システムが支配する、決して迷子になるはずのない街。
その、ど真ん中で。
歩く不条理の化身は、あまりにも、あっけなく、姿を消したのだ。
◇
その頃、シルフィは、全く、自分が迷子になったという自覚がなかった。
「待ってくださーい、鳥さーん!」
彼女は、ただ、純粋な善意で、白い箱型の機械を追いかけ続けていた。
清掃ドローンは、やがて、人通りのないビルの裏手へと回り込むと、壁に設けられた小さな四角い穴の中へと、すうっと、吸い込まれていった。
それは、ドローン専用の、搬入口兼、充電ポートだった。
「あら? お家は、この中なのですね」
シルフィは、その、人間が通るには、あまりにも小さな穴を、不思議そうに、覗き込んだ。
穴の奥は、薄暗く、ひんやりとした空気が流れている。
そして、その奥から、微かに、色とりどりの光が、明滅しているのが見えた。
「わあ…!」
シルフィの、目が、キラキラと輝いた。
「…虹色、です。…きっと、この先に、虹色のお花畑が、あるのですね!」
あまりに、壮大な、そして、あまりに都合のいい、勘違い。
彼女は、何の躊躇もなく、その、小さな穴に、体を滑り込ませた。
エルフならではの、しなやかな体は、大人が到底通れないような狭いダクトの中を、難なく進んでいく。
彼女は、自分が今、この国の最も重要な機密区画の一つに、不法侵入していることなど、知る由もなかった。
ダクトを抜けた先。
そこは、これまでの、白と灰色の無機質な世界とは、全くの別世界だった。
巨大な、ドーム状の空間。
壁や天井には、おびただしい数の、ケーブルやパイプが、まるで巨大な生き物の、血管や神経のように、張り巡らされている。
そして、そのケーブルの中を、様々な色の光の粒子が、猛烈な勢いで行き交っていた。
空気は、静電気を帯び、ブーンという低い機械の唸り声だけが、響き渡っている。
「…すごい、です…」
シルフィは、その、まるで巨大な蛍の群れの中にいるかのような、幻想的な光景に、完全に心を奪われていた。
彼女は、知らない。
ここが、首都アクシオンの、全ての情報を管理し、全てのシステムを統括する、「中央管理AI」の、メインフレームが置かれた、国家中枢『中央管理区画』であることを。
そして、自分が今、この国の「脳」の、ど真ん中に立っているということを。
彼女は、光るケーブルを、楽しげに眺めながら、てくてくと、その、光の川の中心へと、歩みを進めていく。
その、あまりに無防備で、あまりに純粋な侵入者を、区画の、全ての防衛システムが、一斉に捉えた。
床や壁から無数の赤いレーザー光線が照射され、シルフィの体を、スキャンする。
『警告。警告。セクター・ゼロに、未確認の、生体反応を、検知』
『識別コード、照合不能。…脅威レベル、判定不能』
『…システムに、エラー。…論理的に、ありえない、侵入経路です』
中央管理AIの、完璧な論理回路が、初めて、未知との遭遇に、悲鳴を上げた。
シルフィは、自分の体に、赤い光が当たっていることに気づくと、楽しげに、声を上げた。
「わあ! 赤い、糸電話です! 誰と、お話しできるのでしょうか?」
彼女は、そのレーザー光線を、ただの、遊び道具だと、完璧に、誤解していた。
国家機密への、あまりに無邪気な侵入。
それは、この、完璧な論理の国に、最初の、そして、致命的な、システムエラーを、引き起こそうとしていた。