第三十話 そして聖女の苦悩は続く
アヴァロンからの帰還の旅は、驚くほど、穏やかだった。
道中、一行を襲う魔物も、山賊もいない。
ただ、彼らが町や村を通過するたびに、どこから聞きつけたのか、「あの『カオス』の英雄様ご一行だ!」という、畏怖と好奇の入り混じった囁き声が、彼らの後を追いかけてくるだけだった。
アイリスは、その度に、胃がキリリと痛むのを感じていたが、もはや、それにいちいち反応する気力もなかった。
彼女の心は、ただ一つ。
一刻も早く、王都へ帰り、この、長くて、面倒くさくて、そして、どこか奇妙で、楽しかった冒険を、終わらせたい。
その、ささやかな願いだけで、満たされていた。
数日後。
ソラリア王国の、壮麗な城門が見えてきた時、仲間たちは、それぞれの、歓声を上げた。
「おお! 帰ってきましたぞ、姉御! 我が愛すべき、混沌の故郷へ!」
「ノン! 見たまえ、あの、統一感のない、雑多な街並みを! これこそが、真の美だ!」
「ひひひ…! さて、と。帰ったら、早速、このポテチの、販売売ルートを、確保しねえとな…!」
「わあ! 王様のお城です! きっと、美味しいお菓子が、たくさん待っていますね!」
ギルが叫び、ジーロスが詠い、テオが算盤を弾き、シルフィが手を叩く。
その、いつも通りの、しかし、どこか、懐かしい混沌の音色に、アイリスは、ふっと、口元を緩めた。
(…そうですね。帰りましょう。私たちの、家に)
だが、彼女の、その、ささやかな平穏の願いが、そう簡単に、叶えられるはずもなかった。
王都に帰還した彼女を待っていたのは、山のような外交報告書の束と、国王レジスからの、緊急の呼び出しだった。
「…アイリス。…よく、帰ってきた。…して、その、なんだ…。アヴァロンとの、外交問題は…」
国王は、頭を抱えていた。
彼の下には、アヴァロン評議会から、正式な、しかし、どこか要領を得ない、感謝の親書が、すでに届けられていたのだ。
「…はあ。…事の顛末は、こちらの、報告書に…」
アイリスは、数日徹夜して書き上げた、嘘と、ハッタリと、そして、ほんの少しの真実で塗り固められた、完璧な報告書を、差し出した。
国王は、その、あまりに分厚い羊皮紙の束を、もはや、読む気力もない、という顔で、受け取った。
「…う、うむ…。ご苦労だった…。…下がって、よい…」
アイリスは、深々と、一礼すると、執務室を、後にした。
彼女は、ようやく、解放されたのだ。
そう、信じていた。
自室に戻った彼女を待っていたのは、コンテナから運び出された、壁一面を埋め尽くすほどの、ポテチの、山、山、山。
そして、その、ポテチの山の、頂上に、まるで、玉座のように、鎮座する、一袋の、『幻のサワークリームオニオン味ポテチ』。
アイリスは、その、全ての元凶を、ただ、虚ろな目で見つめた。
そして、彼女の脳内に、久しぶりに、あの、不遜で、怠惰で、そして、どこまでも、楽しげな『神』の声が、響き渡った。
『―――ご苦労だったな、新人。今回のクエスト、評価は、Sプラス、といったところか』
ノクトの声は、最高に、上機嫌だった。
(…神様…。これで、全て、終わりですね…?)
『おかげで、最高の、戦利品が、手に入った』
ノクトは、塔の自室で、アイリスが届けさせた、同じパッケージのポテチを、手に取っていた。
彼の、神聖な、儀式が、始まる。
パリ、と。
小気味よい、開封の音。
袋から立ち上る、爽やかな、サワークリームの香りと、食欲を刺激する、オニオンの香り。
彼は、至高の一枚を、口へと、運んだ。
―――ザクッ。
完璧な、歯ごたえ。
そして、脳天を突き抜ける、衝撃。
濃厚な、サワークリームのコクと、オニオンの旨味が、彼の舌の上で、爆発した。
「……ふぅ」
彼は、至福のため息をついた。
「…やれやれ。これで、ようやく、世界に、平穏が戻ったな」
彼は、満足げに頷くと、自室の隅に保管していた、一つの空の台座に、目をやった。
そこは、本日発売されるはずの最新ゲーム機『マナ・スフィアX』の初回限定版を、設置するために用意された、神聖な場所だった。
今日という、最高の日に、最高のゲームを始める。
これ以上の、贅沢はない。
だが、彼が、その箱を開けようとした、まさにその時だった。
脳内に、彼が最も聞きたくない、無機質な、システムメッセージが、響き渡った。
『―――通知。マナ配送網に、原因不明の、大規模な渋滞を検知。本日お届け予定の、お客様の『マナ・スフィアX』は、配達が、遅延しております』
静寂。
ノクトの、完璧な表情が、凍りついた。
彼の、完璧な引きこもりライフを脅かすものは、もはや、この世界のどこにも存在しない。
彼は、心から、そう信じていた。
アイリスは、自室で、山のように積まれた、ポテチの山と、外交報告書の山を前に、深いため息をついた。
だが、不思議と、彼女の心は、穏やかだった。
この、どうしようもなく、手のかかる混沌こそが、自分の、日常なのだ、と。
(…ようやく、終わったのですね…)
彼女は、そっと、窓の外に広がる、夕焼け空を眺めた。
本当に、長い、戦いだった。
彼女は、心からの、安堵のため息をついた。
その、あまりに無防備な彼女の脳内に、再び、あの、尊大で、理不尽な『神』の声が、響き渡ったのは、まさに、その時だった。
『―――新人』
びくり、と、アイリスの肩が跳ねた。
その声は、もはや上機嫌ではなかった。
どこか、焦りと、純粋な怒りが混じっていた。
『…緊急クエストだ』
(…き、緊急…クエスト…?)
嫌な予感しか、しなかった。
『うむ。…どうやら、俺の、完璧な平穏は、まだ、保証されていなかったらしい。…それも、今度は、外敵ではない。…この国の、内側からだ』
(内側…ですか?)
『ああ。王都で、奇妙な事件が、多発しているらしい。王城の彫像や、貴族の絵画が、一夜にして、悪趣味なオブジェや落書きに、作り変えられている、と。…ジーロスが、発狂している』
ノクトの声には、明確な、嫌悪感が滲んでいた。
『そして、その、芸術テロリストとやらが放つ、下品な魔力の波長が、どうやら、俺の、ゲーム機の、マナ配送網を、妨害しているらしい』
静寂。
アイリスの、思考が、フリーズした。
芸術テロ。
ゲーム機の、配達遅延。
その、二つの、あまりに、スケールの違う事件が、彼女の頭の中で、結びつかない。
『―――面白い。実に、面白いじゃないか』
ノクトの声が、地獄の底から響くような、低い声に変わる。
『俺の、最高の楽しみを、邪魔する、馬鹿がいる、ということだ』
アイリスは、もはや、何も、考えられなかった。
彼女の、短い平穏は、たった一人の『神』の、個人的な怒りによって、あっけなく、終わりを告げた。
「……………はぁぁぁぁぁぁぁ……」
その日、一番、深くて、長いため息が、聖女の執務室に、虚しく響いた。
そして、脳内には、新たな、しかし、どこか聞き慣れた、神託が下される。
『…新人。ジーロスの、あの、下らない茶番に付き合ってやれ。そして、さっさと、犯人を、捕まえろ。…俺の、ゲーム機が、届く前に、だ』
聖女の苦悩は、これからも、続いていくのだった。