第三話 最初の違反者たち
首都アクシオンの、あまりに完璧で、あまりに無機質な光景は、ソラリア王国という混沌の世界で生きてきた英雄たちの精神を、静かに、しかし確実に蝕んでいた。
アイリスの悲痛なまでの命令を受け、仲間たちはそれぞれ、不満げに、あるいは、不安げに頷いた。
この白と灰色の国で、彼らが平穏に過ごすことなど、最初から不可能だったのだ。
彼女は、ただ、破綻の瞬間が、一秒でも遅れることだけを、心の底から願っていた。
一行が、目的のポテチが売られているという中央商業区画へと向かって、息を殺して歩を進めていた、その時だった。
激情のギルは、もはや我慢の限界だった。
この、活気のない、覇気のない、魂の抜けたような街の空気が、彼の戦士としての本能を逆撫でし続けていた。
彼の目には、この完璧な静寂が、まるで、戦場で敵を待つ、死の前の静寂のように感じられていたのだ。
(…なってない! 全くもって、なっとらんでありますぞ!)
彼の、心の声が、叫ぶ。
(この街には、闘志が足りない! 魂の雄叫びが、足りない! このままでは、いざという時、戦うことさえできんではないか!)
彼は、この街の人々を、哀れに思った。
そして、自らの使命感を、燃え上がらせた。
自分が、この眠れる獅子たちに、活を入れてやらねばならぬ、と。
彼は、アイリスの、悲痛なまでの命令を、完全に忘却していた。
いや、彼の単純な思考回路は、「街に活気を与える」という、彼なりの「善意」が、「目立つな」という命令よりも、優先されるべきだと、完璧に誤解していたのだ。
「姉御! この、気の抜けた空気、我慢なりやせん! 全員、気合を入れ直すでありますぞ!」
そして、彼は、腹の底から、ありったけの空気を吸い込み、雄叫びを上げた。
「ファイトー! いっぱーつ!」
その、あまりに大きく、あまりに熱く、そして、あまりに場違いな声が、静寂に包まれたアクシオンの空に、木霊した。
道行く無表情な人々が、初めて、足を止め、怪訝な顔で、一行に視線を向ける。
アイリスは、頭を抱えた。
(…終わった…)
予感は、悲しいほどに、的中した。
次の瞬間。
―――ウウウウウウウウウッ!
周囲の、白い壁の至る所から、けたたましい警報音が鳴り響き、彼らの目の前に、白い卵型のロボット警備兵が数体、音もなく、滑るように、出現した。
『警告。騒音規定、第七項に違反。音量、百五十デシベル。基準値を、五十デシベル、超過。速やかに、静粛にしてください』
無機質な、合成音声。
ギルは、そのロボット警備兵たちを、敵意の籠った目で見返した。
「な、なんだ、貴様らは! 俺は、この街に、活気を与えようと…!」
『あなたの行為は、都市の音響環境における、許容ノイズレベルを逸脱しています。論理的に、不要な音響的汚染です。再度、同様の違反行為が確認された場合、拘束、及び、罰則が科せられます』
「ぐ…!」
ギルは、言葉を失った。
彼の、純粋な「善意」が、この国ではただの「汚染」でしかないという、冷たい現実。
アイリスは、警備兵たちに、平身低頭で謝罪した。
「も、申し訳ありません! 彼は、その…少し、声が大きいだけで、悪気は…!」
『感情論による弁明は、受け付けられません。事実として、規定違反が記録されました。以上です』
ロボット警備兵は、それだけ言うと、来た時と同じように、音もなく、壁の中へと消えていった。
ギルには、マイナス一点の「違反ポイント」が、記録された。
アイリスは、ギルの巨体を、鬼のような形相で睨みつけた。
警報騒ぎは、なんとか収まった。
アイリスは、ギルに、今後一切の発声を禁じ、猿ぐつわを噛ませたい衝動を、必死でこらえた。
一行は、再び、息を殺して、歩き始める。
だが、その、張り詰めた空気を、打ち破ったのは、今度は、別の男だった。
「ノン! 我慢の限界だ!」
ジーロスが、叫んだ。
彼の、芸術家としての魂は、この、あまりの色彩の欠如に、もはや耐えきれなかった。
「見てごらん、あの、哀れな街路樹を! 完璧な円形に刈り込まれ、ただ、そこに『在る』ことだけを、許されている! 緑という、生命の色が、泣いているではないか!」
「ジーロス、落ち着いてください!」
「ノン! 落ち着いてなどいられるものか! 芸術家とは、常に、世界と戦うものだ! この、退屈という名の、巨大な悪と、私は戦わねばならんのだ!」
彼は、そう言うと、懐から、魔法の刷毛を取り出した。
「この僕が、君に、本当の『個性』という名の、美を、与えてあげよう!」
彼が、刷毛を一振りすると、道端の、退屈な緑色の球体だったはずの街路樹が、次の瞬間、まばゆい、黄金色の輝きを放ち始めた。
葉の一枚一枚が、まるで、純金でできているかのように、キラキラと、光を乱反射させている。
それは、確かに、美しかった。
そして、あまりにも、悪目立ちしていた。
―――ウウウウウウウウウッ!
再び、けたたましい警報音が鳴り響き、今度は、先ほどの倍の数のロボット警備兵が、彼らの元へと、殺到してきた。
『警告。景観法、第三十二条に違反。公共物への、無許可の、色彩的改変を確認。罰金として、百ラティオを、即時、徴収します』
「なっ…! これは、芸術だ! 罰金だと!? 美を、金で測るというのか!」
『異議申し立ては、中央管理局、第七窓口にて、申請書をご提出ください。ただし、現在、窓口は大変混み合っており、審査まで、約三百六十五日、お待ちいただく必要がございます』
「さんびゃくろくじゅうごにち!?」
ジーロスは、絶句した。
彼の、芸術的抗議は、完璧な官僚主義の壁の前に、あっけなく砕け散った。
罰金は、彼の腕輪から、無慈悲に引き落とされていく。
その、一連の騒動の、全て。
それを、街の至る所に設置された目に見えない監視カメラが、完璧に、記録していた。
首都アクシオンの、地下深く。
巨大な、サーバー室のような空間。
アヴァロンの全てを管理する「中央管理AI」のメインフレームが、静かに稼働している。
巨大なホログラムモニターに、アイリス分隊のこれまでの行動が、全て、データとして表示されていた。
『対象グループ、識別名「カオス」。…入国後、十分以内に、二度の、明確な規定違反。…行動パターン、予測不能。…論理的整合性、ゼロ』
合成音声が、淡々と、分析結果を読み上げる。
ギルの声紋データ、ジーロスの魔力パターン、そして、彼らの、ソラリア王国における過去の経歴データ|(もちろん、表向きの英雄譚だけだが)が、瞬時に照合されていく。
『結論。対象グループ「カオス」は、当国の秩序に対する、潜在的脅威と判断。脅威レベルを、3に引き上げ、常時監視体制に移行する』
アヴァロンの、完璧な監視システムは、今、静かに、しかし確実に、作動し始めた。
アイリスたちは、まだ、知らない。
自分たちの、ほんの些細な|(と彼らが思う)行動が、この国にとって、観測史上最大の「脅威」として、認識され始めていることを。
そして、その誤解が、やがて、取り返しのつかない、国際問題へと、発展していくことになるのを。