第二十七話 『神』のハッタリ
静寂。
絶対的な、静寂だけが、古い闘技場跡を支配していた。
ほんの数分前まで、そこは混沌の四重奏――走るだけの筋肉馬鹿、照らすだけのナルシスト、盗むだけの詐欺師、そして拾うだけの天然エルフ――が奏でる、狂気の祝祭の空間だったはずだ。
だが、今は違う。
英雄たちは、自らが成し遂げた、あまりに呆気ない、しかし決定的な勝利を、まだ完全には理解できずにいた。
目の前には、巨大な鉄屑と化した『最終規制装置』が、沈黙したまま横たわっている。
その姿は、まるで巨大な鯨の死骸のようでもあった。
「…終わった…のか…?」
テオが、誰に言うでもなく、呟いた。
彼の足元には、最終規制装置から剥ぎ取った、未知の金属の装甲版が、山のように積まれている。
「…姉御…。俺の情熱、見ていただけましたで、ありましょうか…!」
闘技場の壁を走り続けていたギルが、息を切らしながら、アイリスの元へと駆け寄ってくる。
彼の顔には、疲労と、そして、やりきった男の、純粋な満足感が浮かんでいた。
アイリスは、その問いに、答えることができなかった。
彼女の心は、まだ、この非現実的な勝利の余韻と、そして、これからどうなるのかという、巨大な不安の間で、揺れ動いていた。
(…私たちは、勝った。ですが、この後、どうすれば…?)
アヴァロンの最終兵器を、破壊してしまった。
もはや、ただの国際問題では済まされない。
戦争に、なるかもしれない。
彼女の、リーダーとしての、現実的な思考が、最悪の未来を、描き出す。
その、彼女の絶望を、打ち消すかのように、脳内に、あの『神』の、不遜で、しかし、今はどこまでも頼もしい声が、響き渡った。
『フン。ようやく、静かになったか』
ノクトの声は、まるで、うるさい映画がようやく終わった後のような、どこか、うんざりした響きを持っていた。
『さて、と。後始末の時間だ、新人。…ここからが、このゲームの、本当の、最終ステージだぞ』
(神様…!)
『おとなしく見ていろ。俺が、完璧なエンディングを、見せてやる』
その頃、首都アクシオンの中央。
評議会の議場もまた、沈黙に支配されていた。
十二人の評議員たちは、自らの席で、微動だにせず、中央のホログラムモニターに映し出された、信じがたい光景を、ただ、見つめていた。
最強の最終兵器の、沈黙。
そして、その周りで、意味不明の行動を続ける、四人の、混沌の化身たち。
彼らの、完璧な論理の世界が、音を立てて、崩れていく。
「…なぜだ…?」
一人の、若い評議員が、震える声で、呟いた。
「なぜ、最終規制装置が、敗北した…? あの、完璧な論理の化身が…?」
誰も、その問いに、答えることはできなかった。
中央管理AIでさえ、沈黙している。
その、絶望的な沈黙を破ったのは、モニターの向こう側、闘技場跡に立つ、一人の聖女の、あまりに場違いな、凛とした声だった。
「―――以上で、第一段階の、ストレステストを、終了します」
アイリスは、ゆっくりと、立ち上がった。
その瞳には、もはや、騎士としての、困惑も、不安もなかった。
そこにあったのは、『神』の、全てを見通す、冷徹な光だけだった。
彼女は、まるで、そこに、評議会のメンバーがいるのが、見えているかのように、闘技場の上空、何もない空間を、まっすぐに見据えた。
そして、聖女の、慈愛に満ちた、しかし、どこまでも挑戦的な、微笑みを浮かべた。
「評議会の皆様。そして、中央管理AI。…聞こえていますね?」
その、あまりに、不遜な呼びかけに、評議会の議場が、ざわめいた。
「な、なんだ、あの小娘は…!」
「我々の、存在に、気づいているだと…!?」
アイリス(ノクト)は、続けた。
「まずは、ご挨拶を。私こそが、この、混沌の部隊を率いる、司令塔です。…そして、あなた方が、必死に探している、黒幕、とでも、言っておきましょうか」
その、あまりに堂々とした、自己紹介。
評議員たちは、息をのんだ。
彼らが、ずっと追い求めていた、謎の、司令塔。
それが、今、目の前で、自ら、名乗りを上げたのだ。
「さて、本題に入りましょう」
アイリス(ノクト)は、まるで、大学の講義でも始めるかのように、指を一本、立てた。
「あなた方は、我々の一連の行動を、『敵対行為』だと、誤解されているようですが。それは、大きな間違いです」
「…間違い、だと…?」
デキムスの、かすれた声が、響く。
「これは、攻撃では、ありません。…これこそが、我がソラリア王国から、貴国への、最大の贈り物なのです」
贈り物。
その、あまりに突拍子もない言葉に、誰もが、思考を停止させた。
アイリス(ノクト)は、完璧な、ハッタリの、プレゼンテーションを、始めた。
「あなた方の国は、素晴らしい。完璧な論理と、完璧な秩序で、成り立っている。…ですが、その『完璧さ』こそが、あなた方の、唯一にして、最大の、脆弱性だと、気づいては、いませんでしたか?」
彼女は、沈黙した、最終規制装置を、指さした。
「この、哀れな鉄屑が、その、何よりの証拠です。彼は、完璧な論理を持っていました。ですが、我々が提示した、ほんの少しの『非論理』…『無意味』の前に、その思考回路を、完全に、焼き切ってしまった」
彼女の言葉は、評議員たちの、最も、痛いところを、的確に、突いていた。
「あなた方のシステムは、あまりに、完璧すぎる。故に、想定外の、非論理的な事態に対する耐性が、致命的に欠如している。もし、我々ではなく、本当の、悪意を持った、混沌の脅威が、この国を襲ったとしたら? …あなた方は、同じように、思考を停止させ、ただ、崩壊を待つだけだったでしょう」
その、あまりに説得力のある、指摘。
評議員たちは、反論の言葉を、見つけられなかった。
アイリス(ノクト)は、とどめを刺した。
「我々が、行ったこと。それは、あなた方の、その完璧なシステムに対する、高度な、ストレステストです。どこに、穴があり、どこに、脆弱性があるのか。それを、あえて『混沌』という、負荷をかけることで、炙り出したのです。…ギルの、無意味な雄叫びも、ジーロスの、悪趣味な芸術も、テオの、悪質な経済介入も、そして、シルフィの、予測不能な、不法侵入も。…全ては、この、壮大な、シミュレーションのための、計算され尽くした、一つの、シナリオだったのですよ」
完璧な、嘘。
完璧な、ハッタリ。
だが、その、あまりに壮大で、あまりに「論理的」な(ように聞こえる)言い訳は、評議員たちの、混乱した、論理的な脳に、驚くほど、すんなりと、受け入れられてしまった。
そうだ。
そうに、違いない。
ただの、行き当たりばったりの、迷惑行為などではない。
これは、我々の、システムの、脆弱性を、教えるための、高度な啓示なのだ、と。
彼らは、自らの論理の敗北を、認めたくなかった。
だからこそ、この、あまりに都合のいい「言い訳」に、飛びついたのだ。
「…なんと…」
デキムスの、口から、感嘆のため息が漏れた。
「…我々は、あなた方の、その深遠な意図に、全く、気づいていなかった、と…?」
「ええ。ですが、もう、お分かりでしょう?」
アイリス(ノクト)は、慈母のような、笑みを浮かべた。
「この、ストレステストの結果、あなた方の国には、数多くの、改善点が見つかりました。…よろしければ、この私が、直々に、その、コンサルティングをして差し上げても、よろしいですよ?」
その、あまりに、不遜な、提案。
だが、今の評議員たちには、それを断るという選択肢は、もはや、残されてはいなかった。
『神』の、完璧な言い訳は、この、絶望的な状況を、一瞬にして、逆転させた。
彼らは、もはや、テロリストではない。
この国を救うための、最高のコンサルタントへと、その立場を、変えたのだ。
塔の上の『神』の、高らかな、しかし、誰にも聞こえない笑い声が、響き渡っていた。