第二十六話 沈黙の評議会
論理の怪物は、沈黙した。
自らが抱えた、あまりに巨大な「無意味」の奔流を処理しきれず、その完璧な思考回路を焼き切って。
古い闘技場跡には、奇妙な静寂が戻っていた。
いや、静寂ではない。
そこは、未だ混沌の四重奏が、そのフィナーレを奏で続けていた。
「うおおおおおっ! まだまだ、いけるでありますぞ! 『情熱・獄炎・走法』、第三形態!」
ギルは、もはや、闘技場の壁を垂直に走るだけでは飽き足らず、闘技場の天井を、逆さまになって走り始めていた。
「ノン! なんという、重力を無視した、肉体の躍動! それこそが、究極の、前衛芸術! 僕の光が、君を、祝福する!」
ジーロスは、天井を走るギルに、さらに、悪趣味な、七色のスポットライトを、当てている。
「ひひひ…! この腕のパーツ、ごっそり頂いちまえば、百万ラティオは下らねえな! 今日の晩飯は、豪華なステーキだぜ!」
テオは、崩れ落ちた『最終規制装置』の腕の装甲を、必死に、剥がそうとしていた。
「わあ! 見てください! 石ころで、お月様ができました! 次は、お星様も作りましょう!」
シルフィは、集めた瓦礫で、小さな、しかし、絶妙なバランスで成り立つ、芸術的なオブジェを、作り上げていた。
勝利の、実感は、ない。
彼らは、ただ、自らの本能と欲望の赴くままに、行動しているだけ。
その、あまりに無邪気で、あまりにマイペースな光景を、ただ一人、アイリスだけが、呆然と、見つめていた。
(…勝った…のですよね…?)
彼女の、か細い問いに、しかし、脳内の『神』は、まだ、答えてはくれなかった。
塔の上の『神』もまた、この、あまりに呆気ない、しかし、完璧な勝利の、余韻に、浸っていたのだから。
◇
首都アクシオンの中央。
評議会の議場は、死そのもののような、絶対的な静寂に、支配されていた。
十二人の評議員たちは、自らの席で、微動だにせず、中央のホログラムモニターに映し出された、信じがたい光景を、ただ、見つめていた。
モニターには、彼らが、この国の技術の粋を集めて作り上げた、最強の最終兵器が、まるで巨大な鉄屑のように、無様に転がる姿が、映し出されている。
そして、その周りで、意味不明の行動を続ける、四人の、混沌の化身たち。
彼らの、完璧な論理の世界が、音を立てて、崩れていく。
「…なぜだ…?」
一人の、若い評議員が、震える声で、呟いた。
「なぜ、最終規制装置が、敗北した…? あの、完璧な論理の化身が…?」
誰も、その問いに、答えることはできなかった。
最終規制装置は、暴力によって、破壊されたのではない。
より、優れた論理によって、論破されたのでもない。
ただ、理解不能な「無意味」の前に、その存在意義そのものを、失って、沈黙したのだ。
それは、彼らの、数百年に及ぶ、論理と秩序の歴史の中で、一度も、経験したことのない、完全な、敗北だった。
「…中央管理AI」
議長のデキムスが、か細い声で、呼びかけた。
「…この、状況を、分析しろ。…我々は、次に、どうすればいい…?」
その、問いに、中央管理AIは、数秒間の、恐ろしい沈黙の後、応答した。
その、合成音声は、どこか、ノイズ混じりで、不安定だった。
『分析、不能。対象グループ『カオス』の行動は、いかなる、戦術モデルにも、該当しません』
「それは、分かっている! だから、どうすればいいかと、訊いているのだ!」
『提案、できる、最適解は、ありません』
その、絶望的な、宣告。
『彼らの行動には、論理的な、目的が、存在しません。故に、論理的な、対抗策も、存在しません。交渉も、無意味。武力による、威嚇も、無意味。彼らは、我々の、ルールの、外側にいる、存在です』
中央管理AIは、ついに、認めた。
自らの、完璧な論理の、完全な敗北を。
その、AIの、あまりに正直な、しかし、あまりに絶望的な報告に、評議員たちは、言葉を失った。
打つ手が、ない。
彼らは、生まれて初めて、自らの思考が、完全に袋小路に陥るという、屈辱を、味わっていた。
彼らが、これまで信じてきた、全て。
データ、確率、そして、完璧な、論理。
その、全てが、今、目の前で、意味のないものとして、崩れ去っていく。
(…我々は、これから、どうすれば…?)
デキムスは、ただ、モニターの中で、悪趣味な照明に照らされながら、無邪気に遊び続ける、四人の、混沌の化身たちを、見つめることしか、できなかった。
静かなる脅威は、もはや、静かではなかった。
それは、彼らの、常識の、全てを、破壊し尽くす、嵐そのものだった。
◇
闘技場跡では、ようやく、混沌の四重奏が、その、終わりを、迎えようとしていた。
天井を走り続けていたギルが、ついに、力尽きて、床に落ちてきた。
ドッシン!という、凄まじい音。
「…はぁ…はぁ…。姉御…! 俺の、情熱、見ていただけましたで、ありましょうか…!」
悪趣味な照明を、作り続けていたジーロスもまた、魔力が尽きたのか、その光を、ふっと、消した。
「…ノン…。疲れた…。これほどの、情熱的なアートを、創造したのは、久しぶりだ…」
最終規制装置の装甲を、剥がし続けていたテオも、ついに、満足したのか、その手を止めた。
「ひひひ…! これだけありゃあ、十分だ! ギルの保釈金どころか、俺様の、隠居資金まで、稼げちまったぜ!」
瓦礫で、お城を作っていたシルフィも、あくびを一つした。
「…ふあ…。なんだか、眠くなってきました…。アイリス様、もう、お家に帰っても、いいですか…?」
彼らは、ようやく、自分たちが、何をしていたのか、そして、何を、成し遂げたのかに、思い至った。
目の前には、沈黙した、鉄の巨人。
そして、その周りには、自分たちが作り出した、混沌の、残骸。
闘技場跡に、本当の、静寂が、訪れた。
だが、彼らは、まだ、知らない。
この、あまりに非論理的な勝利が、アヴァロンという、完璧な論理の国に、どのような、修復不可能な、亀裂を、入れたのかを。
そして、その亀裂が、やがて、この国を、そして、彼ら自身を、新たな、予測不能な物語へと、導いていくことになるのを。
沈黙の評議会は、まだ、動けないでいた。