第二十三話 混沌の戦場(前編)
「私たちが、やるべきことは、一つ! 論理も、作戦も、全て、捨てる! ただ、思うがままに! 自分の、やりたいように、やるだけです!」
アイリスの、魂からの叫び。
それは、もはや『神』の言葉を代弁する聖女のものではなく、絶望の淵から自らの意志で立ち上がった、一人の騎士の、覚悟の咆哮だった。
その、あまりに無謀で、あまりに混沌とした宣言は、しかし、不思議と、倒れ伏していた仲間たちの心に、最後の闘志の火を灯した。
論理では、勝てない。
作戦は、全て読まれる。
ならば、残された道は、ただ一つ。
論理も、作戦も、勝利さえも、全てを捨て去った先にある、純粋な「混沌」そのものになること。
『脅威モデルとの、再照合を、完了』
最終規制装置の、赤いモノアイが、再び立ち上がった英雄たちを、冷たく見下ろす。
『対象グループ「カオス」。精神的動揺からの、回復を確認。だが、その行動原理に、論理的な一貫性は、見られない。理解、不能。だが、脅威であることに、変わりはない。これより、排除プロセスを、再開する』
その、巨大な腕が、再び、振り上げられる。
だが、それよりも早く、一陣の、赤い突風が動いた。
激情のギルだった。
「うおおおおおおおっ!」
彼は、雄叫びを上げ、駆け出した。
だが、その手には、戦斧はない。
彼は、攻撃しようとしているのではなかった。
彼は、ただ、走っていた。
闘技場跡の外周を、まるで陸上選手のように、ただ、ひたすらに、猛烈な勢いで、走り始めたのだ。
その、あまりに謎の行動に、仲間たちでさえ、呆気に取られていた。
「…おい、ギルの旦那、何してやがるんだ…?」
テオが、呆然と呟く。
アイリスだけが、その行動の、あまりにギルらしい「意図」を、理解していた。
(…そうか。彼は、自らが囮になることで、私たちのための、活路を…!)
だが、その方法は、あまりにも、非効率で、あまりにも、無意味だった。
最終規制装置の、赤いモノアイが、その、意味不明な周回運動を、完璧に、追尾する。
『対象ギル。行動目的、不明。高速移動による、陽動か? だが、その軌道は、単調な円運動。脅威度、極めて低い。対処の、必要なし』
最終規制装置の、完璧な論理は、ギルの行動を、「脅威ではない、無意味な行動」として、完全に、無視した。
その、巨大な腕は、変わらず、中央にいる、アイリスたちへと、振り下ろされようとしている。
「なっ…!? なぜ、俺を狙わんのでありますかーっ!」
ギルは、自らが完璧に無視されているという事実に、ショックを受けながらも、走り続けた。
(だめだ! このままでは、姉御が!)
彼の、単純な脳が、次の、さらに非論理的な結論へと、飛躍する。
(…そうだ! きっと、俺の、情熱が、足りんのだ! もっと、熱く! もっと、魂を、燃やさねば!)
彼は、走りながら、自らの胸を、力強く、叩いた。
「見ていてください、姉御! 我が、魂の、最終奥義! 『情熱・インフェルノ・ランニング』でありますぞ!」
彼の体から、赤い、闘気のオーラが、炎のように、立ち上る。
それは、彼の、有り余る生命力と、姉御への忠誠心だけが生み出す、純粋な、エネルギーの、発露だった。
だが、そのエネルギーは、攻撃にも、防御にも、一切、使われることはない。
ただ、彼の、無意味な周回運動を、より派手に、そして、より暑苦しく見せるためだけに、消費されていく。
その、あまりに無駄で、あまりに暑苦しい、一人だけのマラソン大会。
その、シュールな光景を、ジーロスは、芸術家の目で、見ていた。
そして、彼の、歪んだ美学が、雷に打たれたかのような、天啓を得た。
「…ノン…!」
彼の、口から、恍惚とした、ため息が漏れる。
「…素晴らしい…。なんという、光景だ…。自らの、生命の炎を、ただ、走るという、純粋な行為のためだけに、燃やし尽くす…。目的も、意味も、利益もない。…ただ、そこに存在するだけの、絶対的な、自己表現…!」
彼は、扇子を、ぱちん、と閉じた。
「…これこそが、僕が、追い求めていた、新たな芸術! 『混沌の、前衛芸術』だ! …そして、この、奇跡の瞬間に、ふさわしい、舞台装置が、足りていない!」
彼は、叫んだ。
「見るがいい、諸君! そして、絶望するがいい、無粋な、機械人形よ! この、退屈な、闘技場を、僕の、情熱の色で、塗り替えてやる!」
ジーロスが、両手を、天に掲げる。
彼の、有り余る魔力が、七色の、光の奔流となって、迸った。
その光は、闘技場の、壁や、床や、天井を、まるで、巨大な、絵筆のように、塗りたくっていく。
赤、青、黄色、緑。
けばけばしい、原色の光が、目まぐるしく明滅し、闘技場は、次の瞬間、悪趣味な、ディスコホールへと、姿を変えた。
それは、攻撃でも、防御でも、幻術でもない。
ただ、ひたすらに、ジーロスの、自己満足のためだけの、壮大な、イルミネーションだった。
最終規制装置の、完璧な論理回路が、その、二つの、あまりに巨大な「無意味」を、同時に、処理しようと試みる。
一体の、ターゲットは、攻撃も、防御もせず、ただ、闘技場を、走り続けている。
もう一体の、ターゲットは、戦闘行為を、完全に放棄し、ただ、戦場を、悪趣味な色で、ライトアップし続けている。
『対象ギル。行動、継続中。脅威度、変化なし。対象ジーロス。行動、光による、空間の、色彩的改変。脅威度、ゼロ。二つの行動の、論理的関連性を、分析。該当せず。作戦目標との、整合性を、分析。該当せず』
最終規制装置の、赤いモノアイが、これまでにないほど、高速で、明滅を始めた。
理解、できない。
この、二つの行動の、戦術的な、意味が。
陽動か?
いや、それにしては、あまりに、無防備すぎる。
何かの、儀式か?
いや、その、魔力の流れは、あまりに、非効率すぎる。
彼の、膨大な戦闘データのどこを探しても、これに該当するケースは、一つもなかった。
最終規制装置は、初めて、自らの論理の限界に直面していた。
論理とは、目的と、結果を、結びつけるための、思考の、道筋だ。
だが、目の前の、この、二つの行動には、そもそも、「目的」が、存在しない。
彼の、完璧な論理は、入り口のない、迷路に、迷い込んでしまったのだ。
『エラー。エラー。論理的、矛盾を、検知。対象の、行動目的の、再定義を、要求。再定義、不能。システムに、過負荷』
最終規制装置の巨大な腕が、振り下ろされる寸前で、ぴたり、と止まった。
赤いモノアイが、不気味に、明滅を繰り返す。
論理の怪物は、フリーズした。
アイリスは、その、一瞬の、しかし、決定的な「隙」を、見逃さなかった。
(…効いている…!)
ノクトの、声はない。
だが、彼女には、分かった。
これが、自分たちの、唯一の、そして、最強の、武器なのだ、と。
彼女は、残された、二人の仲間たちに、振り返った。
「テオ! シルフィ!」
その、瞳には、もはや、迷いはない。
リーダーとしての、確かな、決意の光が、宿っていた。
「―――混沌を、続けます! 二人も、思う存分、やってください!」
その、あまりに無茶苦茶な、しかし、あまりに頼もしい、命令。
混沌の戦場は、今、ようやく、その、本当の幕を開けようとしていた。